第八十五話『死嘲妖精』
「あ―― 」
一瞬、この世界の時が凍りついたようだった。
少し離れた上空で、一匹の魔物がこちらを見下ろしている。
その双眸が俺を射抜いた瞬間、背筋を氷の刃で撫でられたような悪寒が走る。
そして頭で理解するより早く、直感が告げていた。
"魔物はマズい"――と。
だが、振り返った時には、もう遅い。
一瞬、魔物の瞳が妖しく輝き、世界の色が一瞬だけ反転する。
そして刹那――死の線が放たれた。
「間に合わなっ……!」
ドチュン――ドサッ。
それは、本当に一瞬の出来事だった。
選択も、判断も、クソもない。
人間の脳の処理なんて、そんな化け物の速度には到底追いつけるはずがなかった。
ほんの、瞬き一つ。
その瞬間のうちに、ヤツは――すべてを終えていた。
「ボビンスキィーッ!!!!」
視界の中央に、血飛沫のような鮮血が弾ける。
いつの間にか、ボビンスキーが俺の前に飛び出していたんだ。
両腕を広げ、まるで盾のように――俺を庇うように立ち塞がって。
「くっ………ぶはっ!」
ボビンスキーは吐血し、そのまま鈍い音を立てて地面に倒れ込む。
「ボビンスキーッ!おいッ!しっかりしろッ!ボビンスキーッ!」
俺はすぐに駆け寄って、ボビンスキーの名を何度も呼びかけた。
「かっ……は……っ……はっ……あっ……」
ボビンスキーは口をパクパクと動かし、俺に何かを必死に訴えかけてきているようだった。
「もういい分かった!これ以上は喋るな!今ならまだ間に合う!」
俺は叫びながら、喉元を必死の思いで押さえつけた。
だが――なおも溢れる血は止まる事なく、温い液体が掌を伝い、地面へと流れ落ちていく。
ドクドクと、止めどなく。
ヤツの一撃は、ボビンスキーの喉元を正確に貫いていた。
「くそう!ヤツの狙いは、確かに俺だった筈だッ!なのになんで――!」
幸い、まだ息はある。
応急処置ではどうしようもない、これは一刻を争う事態だ。
俺はボビンスキーを慎重に起こすと、なんとか背中に抱え込んだ。
「誰かッ!か、回復!治療ができる魔術師はいないのかッ!?」
喉が擦り切れるほどの勢いで叫ぶ。
だが、その叫びと同時に、背筋を冷たい違和感が襲った。
そして振り返った瞬間、目に飛び込んできた光景に思わず息を呑む。
「な、なんだよ、これ……」
その光景は――まさに地獄だった。
わずかにボビンスキーへ気を取られた、その一瞬の間に。
戦場は、完全に"悪夢"へと変貌していた。
「た、た、助けてくれーーっ!」
「第四陣営は一旦撤退しろ!このままでは"全滅"するッ!!」
「ぐぁああああぁああぁあっ!!!」
悲鳴と怒号がごちゃ混ぜになった橋の上で、
ヤツらは――逃げ惑う魔術師たちを捕まえて、掴んで、引き裂いて、貫いて、そして、嗤っていた。
まるでそれが、この世で一番の娯楽でもあるかのように。
あるいは、“生きる”という行為そのものを、壊し否定するかのように。
「死嘲妖精――奴は"一匹"じゃなかったのか…?」
一匹ならなんとかなると思っている自分がいた。
だが、現実はあまりにも容易く、その希望を踏み砕く。
理屈も、覚悟も、全てを嘲笑うように。
俺はボビンスキーを抱えたまま、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
そのとき――一匹の死嘲妖精と目が合う。
ヤツはニタリと不気味に口角を吊り上げ、鋭い爪を舌でぬらりと舐め取った。
そして次の瞬間、弾かれたように一直線にこちらへ飛びかかってきた。
ボビンスキーを抱えたままでは、回避など到底不可能だ。
足が動かない。いや、動く時間すら与えられなかった。
死嘲妖精の凶刃が、俺の腹部へと迫ったその瞬間――。
「ビュルルルルッッ〜〜!!!」
プヨンッ。
そんな間抜けな音と共に、死嘲妖精の鋭い爪は、吸い込まれるようにして無力化されていく。
――ビュルルだ。
ピンチを察して、俺のブリーフの中から飛び出してきたのだ。
「ビュルル!助かった……!」
「ギィーッ!ギギィーーッ!!」
死嘲妖精は、ビュルルの体内から腕をなんとか取り出そうともがいているようだった。
だがもがけばもがく程に、ビュルルはどんどん肥大化し膨れ上がっていく。
弾力を増したゼリーのような体が、ついには腕だけでなく、ヤツの胴体までも包み込み――遂にはズブリと音を立てて、完全に呑み込んでしまった。
「凄いな、こんな事もできたのか」
「ピュピュッ!」
ビュルルは自信満々に鳴き声を上げると、体内に取り込んでいた死嘲妖精を勢いよく弾き飛ばした。
「ギィェーーーーッ!!!」
死嘲妖精の体は、まるでパチンコ玉のように空へと跳ね上がり、そのまま橋の下へと飛んでいった。
「ビュルルには驚かされてばかりだな、よくやった」
「ビュルビュルッ!」
ビュルルは嬉しそうに鳴くと、プヨンと跳躍。
そして何事もなかったかのように、俺のブリーフの中へと、するりと戻っていった。
ビュルルのおかげで、ひとまず一難は去った。
だが――危機的状況であることに変わりはない。
橋の上では、まだ十数体の死嘲妖精が狂ったように飛び回り、魔力を使い果たした者たちから順に襲いかかっている。
このままでは、休息中の者達が大勢いる野営地まで被害が及ぶのは時間の問題。
そしていずれは城門を突破し、フォルトゥーナの街中にまで侵入するだろう。
そうなれば、何も知らぬ国民たちは、一瞬で恐怖の渦に呑み込まれる。
それだけは避けなければならない。
これまでも今までも、ここにいる全員が、この国の安寧を守ってきたんだ。
こんな所で壊すわけにはいかない。
「ゼーハー……ゼーハー……」
この瞬間にも、背中に抱えたボビンスキーの呼吸が、次第に浅くなっていく。
もはや意識を保っているのがやっとの状態。
「くそっ……!どうすれば……っ!このままじゃボビンスキーがもたない……っ!」
その時だった。
霧の向こうから、誰かがこちらへ向かって駆け寄ってくる。
「お前は確か、美味い飯を作ってくれた――カバテロッ!」
「背中に、のれ」
男は一言だけ呟くと、ひょいと簡単に、俺とボビンスキーをまとめて背に乗せ背負い込んだ。
そしてズシン、ズシンと地を踏みしめながら歩いていく。
その背中は、まるで崩れかけた戦場の中に立つ砦のように、頼もしく見えた。
だが――その巨体は、敵にとっても格好の的だ。
数匹の死嘲妖精がこちらに気づき、ニタリと不気味に口角を吊り上げる。
次の瞬間、甲高い羽音を立てながら、凄まじい勢いで滑空してきた。
「おいっ!下ろしてくれ、ここは俺が戦う!」
「お助け……無用」
カバテロはそう言うと、腰に携えていた大杖を抜き放ち、ブン、ブンと空気を裂く音を立てながら振り回し始めた。
その回転はみるみる加速し、もはや目で追うことすら叶わない。
巻き上がる風が渦を描き、周囲の瓦礫や塵までも巻き込んで宙へと舞い上げていく。
そして、腹の底から響くような低い声で――叫んだ。
「螺旋の盾――マキシマッ!」




