第六十二話『天使でも悪魔でも』
「ビ……ッビ……ビビビ……ッ……!!」
完全に決着がついたと思われたその瞬間――。
ステルとミカの背後で、アクダインがギシリと軋むように体を持ち上げ、のっそりと起き上がろうとしていた。
どこまでも執念深くしぶとい男――それがアクダインの唯一の強みであり、ここまでの権力を手にした理由である。
「ステルッ、まだ終わってないわ……アイツ!」
ミカがいち早く気付き、鋭く声を張り上げる。
しかしステルは、つい先ほどの渾身の一撃で力をすべて使い果たしていた。
何度か声をかけるも、反応はない。
(ステルにばかり頼っては駄目。私が、私がやらないと……!)
ミカはステルをそっと地面に横たえると、震える拳を握りしめてアクダインを睨み据えた。
「く、くるなら来なさいっ!アンタの野望はここで終わり。
魔法が使えなくたって――アンタなんか怖くないんだからっ!」
ミカの拘束はすでに解かれていた。
力比べでは敵わないが、機動力では優っている。
対するアクダインは満身創痍――呼吸は荒く、肩で息をしながら、もはや立っているだけでやっとの状態だ。
フラフラと千鳥足で、そのふくよかな巨体を揺らす。
(今なら……私にだって……!)
「ゼーハーッ!ゼーハーッ!ブ、部外者、があ……ッ!
ワ、ワガハイの計画を台無しにしてくれおって……ビョ、ビョ、"ビョッタイ"に許さんぞぉ!!!!」
苦し紛れにそう叫ぶアクダイン。
重たい腕をゆっくりと持ち上げると、自らの顔面に装着したステルのブリーフを、力任せにビリビリと引き裂いた。
露わになったその形相は、正に醜悪。
額から噴き出す脂汗が頬を伝い、口や鼻は勿論、ついには耳の穴に至るまで、ありとあらゆる穴から謎の体液が吹き出している。
「ビョ……ビョヒヒヒヒ……ッ!!」
怪鳥のような笑いを上げると、アクダインはおもむろに懐へ手を入れる。
そして、取り出したのは――禍々しいオーラを纏う、一つの面であった。
素材は何かの骨のようでもあり、焼け焦げた鉄のようにも見える。
漆黒の表面には、怒り狂う牛の形相が彫り込まれていた。
大きく開いた口は今にも咆哮を上げんばかりに歪み、額から突き出た二本の角は鋭く反り返り、まるで見る者を威嚇するかのような、異様な迫力を放っていた。
(あのお面……どこかで見たことあるような……)
「既視感があるようだな、ビョビョ……!これは――“あのお方”から頂いた、もう一つの面だ。
この面には、強大な魔物の力を封じ込めることも、力を借りることもできる――その意味が、わかるかぁ〜?」
その時、ミカはステルとロッソの戦いを思い出した。
面を被ったその瞬間、人間の姿から突如として鬼の姿へと変貌したその光景を。
「――させないっ!」
ミカは危険を察知し、アクダインからその面を奪おうと全力で駆け出した。
「遅いわぁ〜ッ!」
アクダインは躊躇せず、面を自らの顔に押し当てる。
今ならまだ間に合う――ミカは踏ん張り、勢いよく跳躍した。
自らの二倍近くある巨体に対して、必死に引き剥がそうと手を伸ばす。
「くぅ……なにコレ……剥がせないっ……!顔と面が、まるで溶け合うみたいに一体化して……っ」
決死の覚悟で立ち向かうミカだったが、後一歩及ばなかった。
「ヴォオオオォオオォンッ――!!!」
凄まじい咆哮と共に、溢れ出す黒の闘気。
その衝撃と風圧は、ミカの体を簡単に吹き飛ばし壁際へと叩きつけた。
バシィンッ――!!
「あぁっぐ……!!」
ミシミシと軋むような衝撃が、全身を駆け巡る。
痛みに顔を歪めながら必死で視線を前に向けると――そこには、かつてのアクダインの姿は影も形もなかった。
その姿はまさに漆黒の牛鬼――。
体長は五メートルほどに肥大化し、筋肉は異常に膨張、血管が浮き上がるたびに、まるで筋肉そのものが意思を持って生きているかのように胎動している。
ねじれた二本の角は禍々しくそそり立ち、片方は短太で、もう片方は長細く、左右非対称なその形状が異様さを際立たせる。
ボウボウと赤く光る瞳がミカを射抜き、たった一瞥で彼女の心から戦意を根こそぎ奪い去った。
その巨体がわずかに動くたび、床や天井が軋み、空気が重く振動する。
「ヴォオオオォオオォンッ――!!!」
牛鬼はけたたましい咆哮を上げると、それこそ手当たり次第怒りをぶつけるように暴れ狂った。
拳や蹄が操縦室の壁や機器に叩きつけられるたび、轟音と共に破片や煙が舞い散る。
そこに理性の欠片はもはや存在せず、アクダインの面影は、完全に消え失せていた。
(動いて……動くのよ私の足……!お願いっ!)
心の中で何度叫び懇願しても、ミカの体は時が止まったように動かない。
その間にも、迫りくる脅威は一歩一歩と近づいてくる。
「ヴォオオオォオオォオォオオオッンッ――!!!」
振り上げられる拳。
もうダメだと思ったその瞬間だった。
バサッバサッ――シュルシュルシュルシュル……!!
遠くから、何かが羽ばたく音がミカの耳を打つ。
「なにこの音……こっちにきてる――!?」
その音は次第に近づき、ジェット機のような轟音となって迫ってくる。
「お願いっ!この際、"天使"でも"悪魔"でも何でもいいから力を貸してーっ!」
ミカは目をぎゅっと閉じ、必死に叫んだ。
ガガガガガガガガガガッ――!!!
牛鬼の拳が振り下ろされる直前、何かがミカとの間に割って入り、その拳を真正面から受け止めたのだ。
「――っ!」
ミカの体に、ようやくかすかな反応が走る。
心臓が跳ね、血が沸き立つような感覚。
「生き――て、る?」
おそるおそる瞼を開き前を見るとそこには――翼を回し体を回転させながら、頭突きで牛鬼の拳を真正面から受け止める赤鬼の姿があった。
「"悪魔"でもいいといったな、小娘」
モニター越しではない、間近で見る本当の鬼。
そこにあるのは恐怖ではなく、揺るぎない頼もしい背中だった。




