第4話『別れのキスは、できないまま 〜ガラスの心臓と、透明な夫婦生活〜』
「――離婚しよう」
その言葉は、あまりに静かだった。
病室の夜。無菌室の中。加湿器が唸りを上げる空間で、真白結衣はベッドに横たわったまま、緋人にそう告げた。
緋人の心臓が、止まりそうになる。
「……は? 何、言ってるんだよ」
「もう、無理なの。私、普通の人間として生きていけない。
この先、触れ合うこともできない。食事も、外出も、一緒に眠ることすら叶わないの。……そんなの、夫婦じゃないよ」
絞り出すような声。
ガラス細工のような心を、彼女自身が壊そうとしていた。
「だったらなおさら、そばにいる。何ができなくても、俺たちは……」
「緋人くん」
彼の言葉を遮るように、結衣は目を伏せて言った。
「――私、もうすぐ“表舞台”から消えるの。
解雇されるの、グループも、事務所も、私を“腫れ物”として処理しようとしてる。
それにね……次に“何か”を吸い込んだら、命の保証はないって、言われたの」
その事実は、緋人の想像以上に重かった。
「だけど……」
「お願い、緋人くん。君まで壊れてほしくないの。
君はもっと、自由で、もっと普通の愛を手に入れる人であってほしい……!」
涙が、透明なカーテンに音を立てて落ちた。
緋人は立ち上がる。そして、結衣のベッドの脇でぎりぎりまで顔を寄せた。
隔てるガラスを隔てて、唇が触れる“ふり”だけのキスをする。
「――バカだな。何度離れても、俺はお前の夫だ。
たとえ何年、何十年、触れられなくても。
俺が一番欲しいのは、普通の愛じゃない。“お前”なんだよ」
その言葉に、結衣の肩が小さく震えた。
「……ずるいよ、緋人くん。そんなの聞いたら……離れられないじゃん……」
***
退院後。
2人は**“触れずに暮らす夫婦生活”**を始めた。
同じ家に住みながら、完全に隔離された寝室。
空気は分離、食事も別室。
互いの生活はガラス越し、音声はスピーカーを通して会話をする。
それでも、彼らは確かに「夫婦」だった。
――ガラスの心臓と、透明な愛。
壊れやすくて、見えにくいけれど、確かにそこにある。
ある夜、結衣はカメラ越しに緋人へ呟く。
「ねえ、もし私が本当に“壊れた”ら、そのときは……ガラス、壊してくれる?」
緋人は小さく笑った。
「そのときは、世界ごと壊してやるよ」
そして、ふたりはまた、触れないキスを交わす。
愛している。
それだけが、確かなことだった。
***
それからの日々――
結衣と緋人の“夫婦生活”は、誰にも真似できないほど繊細で、静かで、痛々しいほど優しかった。
朝。
緋人はガラス越しに「おはよう」と声をかけ、結衣は除菌処理されたカメラの前で微笑む。
昼。
別々の空間で過ごすが、互いの存在を感じていられるように、モニターは常時つないである。
「お昼、食べた?」
「……今日は、にんじんがちょっと反応して、顔が赤くなっちゃった」
「でも生きてる。それで充分だよ」
夜。
結衣は一人で眠り、緋人は壁越しに眠る。
「……今日も、おやすみ」
「夢の中なら、手、つなげるかな」
「ねえ緋人くん。夢の中でなら……キス、してくれる?」
カメラ越しのキス。音も、触感もない。
ただ、それでも想いは伝わっていた。
***
ある日、結衣は1冊のノートを差し出す。ガラス越しの郵送ボックスを使って。
そこには、200種すべてのアレルゲンが書き込まれていた。
発症日、経緯、発作の強度、対処法――そして、**「原因不明」のカテゴリに追加された“201番目”**の欄に、彼女はこう記していた。
アレルゲン201:「緋人に触れられないこと」
反応:涙、胸の痛み、全身の虚脱感、夜眠れないほどの孤独
対処法:なし(進行性)
治療法:存在しない。だってそれは、愛だから
緋人は、その文字を見て泣いた。
涙が止まらなかった。
彼女の痛みが、自分の痛みになった。
***
夜。
結衣が震える声でこう告げる。
「……ごめんね。私、そろそろ、限界かもしれない。
医者が言ってた。これ以上、アレルゲン反応が進めば――脳や心臓が誤作動を起こすかもしれないって。
でも、最後にひとつだけ、お願いがあるの」
緋人は、静かに息を呑む。
「“世界一優しい離婚”をしよう」
「……なに?」
「法律上のこと。もし私がこのまま死んだら、あなたにまで責任が及ぶ。医療訴訟、世間からの非難、再起不能になる可能性もあるって……でも、それはイヤ。
私は――あなたを自由にしたい」
沈黙が落ちた。
やがて、緋人は静かに口を開く。
「……わかった。
でも、これは離婚じゃない。
“いったん、手を離すだけ”だ」
「……うん」
ふたりは、電子申請で離婚届を提出した。
その瞬間、結衣の目から静かに涙が流れた。
「ありがとう、緋人くん……私の夫でいてくれて……」
ガラス越しの手が、重なった“ふり”をする。
“本当のキス”は、結局一度もできなかった。
だけどそれでも、誰よりも深く、触れ合っていた。
そして、離婚の日の夜。
2人は同じ言葉を、ガラス越しに口にした。
「……愛してる」
それは、ふたりが確かに夫婦だった証だった。