第3話『アレルゲン200 暴走する世界 ~ 触れてはいけないキス ~ 』
“触れたい”――それは、ふたりにとって最も残酷な願い。
放課後の音楽室。
念入りに除菌と換気が済まされたその空間で、結衣はやっと一息をついた。
「ここなら……少しだけ、息がしやすい」
緋人はそっと隣に座る。
だが距離は、10センチ。
それ以上、近づくことはできない。
「ねえ、緋人くん……もし、あと1週間しか生きられないって言われたら、どうする?」
不意に結衣が問う。
その言葉に、緋人は目を細めて答える。
「お前とキスする」
その一言に、結衣の目が揺れた。
「でも……私に触れたら、君が……」
「それでもいい。たとえ一度のキスで死んでも、俺はお前を選ぶ」
真っ直ぐな緋人の声に、結衣は言葉を失う。
「私は……そんなの、嫌だよ……」
結衣の声は震えていた。
彼女の皮膚は、空気中のごく微量な化学物質にも反応する。
唾液に含まれる酵素や金属イオンにすら反応し、**人との接触そのものが“命取り”**になることもある。
――それでも、緋人は顔を近づける。
「触れないキス、してもいい?」
「……うん」
2人の顔が、0.5センチまで近づいたその瞬間。
結衣のまつげが、緋人の頬にふれた。
それは、触れないキス。
けれど、その一瞬に込められた想いは、どんな接吻よりも深く、切なかった。
そして――。
その直後。
結衣の体に、異変が起き始める。
「っ、く……」
鼻血。息切れ。微弱な痙攣。
「結衣っ……!」
緋人が慌てて救急用注射器を取り出し、彼女の太ももにアドレナリンを打つ。
「ダメだ……これ以上、俺がそばにいたら……!」
「……違うの……原因は、私のほう。“200番目”のアレルゲンに、心当たりがあるの……」
そして――彼女は、ふらつきながら口にした。
「私の体が、いま……“進化”してるの。アレルゲンが、暴走してる――」
それは、「免疫」が限界を超えた先に起こる“拒絶の暴走”。
翌朝。
結衣は入院していた。
「体内で、免疫因子が異常な活性化を起こしている」
担当医が言った。
「たった一度の接触未遂で、ここまでのショック反応……彼女の体は、自己免疫アレルギーに近い状態にある」
結衣の血液中からは、既知のアレルゲンでは説明できない反応物質が検出された。
それは“アレルゲン200”と仮に呼ばれた。
「これはもう、“病気”ではなく、存在そのものが世界と相容れない症候群だ」
周囲はそう結論づけた。
――だが。
緋人だけは、彼女を“病気”とは思っていなかった。
「結衣は……誰よりも強くて、美しくて、人間らしいよ」
「なのにこの世界のほうが、彼女を拒絶してるんだろ」
そして彼は、ひとり記者会見を開いた。
「僕は真白結衣さんと、極秘に結婚しています。
彼女は、世界で最も繊細で、世界で最も愛すべき人間です。
その存在を“異常”だと呼ぶなら、僕はこの世界のほうを疑う」
――その声明は、瞬く間に拡散された。
賛否両論、炎上、支援、攻撃、同情。
だがその最中、結衣の体調は悪化し続けていた。
全身を覆う発疹、視覚のゆがみ、幻覚。
「もう……自分で、自分を殺してしまいそう……」
彼女は泣いた。
「緋人くん、もし、私がこのまま“人間”じゃいられなくなったら……それでも、そばにいてくれる?」
緋人は迷わず答えた。
「当たり前だ。
この世界がどれだけお前を拒んでも、俺だけは、お前を愛し続ける」
それが――
「アレルゲン200」と呼ばれる世界の拒絶に、彼が立ち向かうと決めた日だった。