第1話『世界が敵でも、私はアイドル』
ステージのスポットライトが、真白結衣の顔をまっすぐに照らしていた。
数千の観客の視線が彼女に注がれ、その輝きは眩しく、まるで別世界の王女のようだった。
だが、誰も知らない。
この美しい少女の体は、まるでガラス細工のように繊細で、ほんのわずかな埃や匂い、触れ合うことさえも命取りになることを。
「呼吸も、動くことも、すべてが危険なの」
心の中で結衣はそうつぶやく。
この世界は、彼女にとって200の毒で満ちているのだ。
――だけど。
「私は、ステージに立つ。」
彼女の瞳は強く光り、胸の鼓動が速くなる。
あの笑顔を見せるために。
あの歌声を届けるために。
幕が上がると同時に、彼女は全身で決意を示した。
この瞬間だけは、すべてを忘れて、光の中に溶け込む。
だが、その裏側では、彼女の心も体も限界を迎えていた。
舞台袖に控える緋人の目が、切なそうに彼女を見守っていた。
⸻
ステージの歓声が遠く、まるで別世界の音のように響く。
だが真白結衣の胸は、激しい動悸でいっぱいだった。
「はぁ……はぁ……」
細い息遣いを抑えながら、彼女は歌い続ける。
喉はカラカラに乾き、汗がひんやりと背中を伝う。
だが、誰も気づかない。
この完璧な笑顔の裏で、彼女はいつも、死と隣り合わせの戦いをしているのだ。
舞台袖。
逢坂緋人が、モニター越しに結衣の姿を見つめていた。
普段はクールな彼の目に、今だけは温かな色が灯っている。
「ゆい、大丈夫か?」
緋人の声は届かないが、その想いは届いているはずだった。
結衣は一瞬だけ目を閉じて、深く息を吸った。
「うん、もう少しだけ……」
彼女は心の中でそう誓い、ステージに戻る。
その日、彼女はまた一つ、アレルギーの「毒」を乗り越えたのだ。
しかし、終演後の楽屋で、彼女の顔は蒼白だった。
彼女の手は小刻みに震え、汗で湿っている。
緋人がそっと駆け寄る。
「大丈夫か?すぐ病院に行こう」
だが結衣は首を振った。
「行かない。私……明日も、明後日もステージに立つから。」
彼女の瞳は、諦めとも決意ともつかない強さで輝いていた。
そんな彼女を、緋人は静かに抱きしめる。
「お前は、本当に強いな……」
それでも、彼の心はずっと痛んでいた。
――この命は、いつまで続くのだろうか。
⸻
ステージの灯りが消え、ざわめきが遠ざかっていく。
結衣はゆっくりと楽屋へ戻った。そこには、いつものように彼女のために用意された完全無菌のスペースがあった。
「ゆい、大丈夫?」
緋人が心配そうに声をかける。彼の手は近づけられず、ほんの少し距離を保っている。
「うん、ありがとう……」
結衣は微笑みながらも、その瞳の奥には疲労と孤独が隠れていた。
「明日も明後日もステージに立つって、無理しすぎだよ」
緋人の声は優しいけれど、その重みは言葉以上だった。
「これが私の仕事だもの。誰かのために歌うことが、私の生きる意味だから」
彼女の言葉は強く、でもどこか儚げに響く。
「わかってる。でも、俺はお前が壊れるところなんて、見たくないんだ」
緋人はそっと手を差し伸べた。触れられないからこそ、代わりに空気を震わせるように。
「触れられないのに、それでも触れたいって思うの?」
結衣は小さく笑った。
「それが、私の秘密だよ」
2人の間には言葉にできない想いが渦巻いていた。
結衣の命を脅かす数百ものアレルゲンが、2人の距離を引き裂く壁となっていた。
「私たちは、この秘密を絶対に守らなきゃいけない」
緋人が頷く。
「誰にもバレたら、終わりだから」
それは、世界で最も壊れやすい愛の約束だった。
その夜、結衣は静かにベッドに横たわりながら考えた。
「私の体は、なぜこんなにも脆いの? でも、私は負けない」
目を閉じると、緋人の声が耳元でささやくように響いた。
「ゆい、君は無限の光だ」
それは希望であり、呪いであり。
終わりなき戦いの始まりだった。
⸻
深夜の病室のような、完璧に清潔な自室。
結衣は酸素マスクをつけ、肌に優しい素材のパジャマに包まれていた。
「今日もよく頑張ったね」
声の主は、彼女の唯一の家族代わりとも言える看護師の桜井さんだった。
「ありがとう…でも、もう限界かも」
結衣は小さくため息をつく。
「無理しちゃダメよ、ゆいちゃん」
桜井さんは優しく髪を撫でる。
その時、部屋の隅のインターホンが鳴った。
「失礼します」
緋人の声だった。ドア越しに、彼の存在が伝わる。
「入って…」結衣は震える声で返す。
ドアが開き、緋人が無言で入ってきた。
距離を取りながらも、その瞳には深い愛情と不安が映っている。
「今日のステージ、よく耐えたな」
「緋人くん…ありがとう」
2人は言葉少なに、だが確かに繋がる心を感じていた。
「結婚届、確認したよ」
緋人はポケットから小さな封筒を取り出す。
「…本当は誰にも言えないけど」
結衣は顔を赤らめた。
「私たちは、結婚してる。秘密の夫婦だよ」
「秘密だってわかってる」
緋人は微笑んだ。
「これからも、ずっと守るから」
2人だけの世界。
外は見えない壁に囲まれていても、心はいつも寄り添っている。
しかし、結衣の体は日に日に弱っていき、200種を超えるアレルゲンが彼女の命を蝕んでいた。
「もうすぐ、何かが変わるかもしれない」
結衣はそっとつぶやいた。
「その時まで、私は歌い続ける」
夜は深く、そして長かった。
⸻
翌朝、結衣は窓の外の青空をぼんやり見つめていた。
鮮やかな光が部屋いっぱいに差し込むが、その明るさは彼女にとっては時に鋭い刃のようだった。
「また今日も、アレルゲンの嵐が襲うんだろうな…」
そう思いながらも、彼女の唇には静かな決意が宿っていた。
「ゆい、今日は学校に行ける?」
緋人からのメッセージがスマホに届く。
「行くよ。皆に会いたい」
それは嘘ではなかった。
だが、結衣の体は常に限界ギリギリの綱渡りだった。
教室の扉を開ける瞬間、彼女の呼吸が一瞬乱れた。
同級生たちは普通に笑い、話し、日常を生きている。
「みんなの笑顔は私の宝物」
結衣はそう心の中でつぶやき、ゆっくりと席に着いた。
しかし、誰も知らない。
彼女がいつ発作を起こしてもおかしくない体調で、命の危機と隣り合わせにいることを。
放課後。
アイドル活動のためのリハーサルが始まる。
「ゆい、大丈夫?」
メンバーの一人が心配そうに声をかける。
結衣は微笑みながらも、胸の奥は重く沈んでいた。
「大丈夫、ありがとう」
だがその夜、結衣はまた一人、緋人の部屋で弱音をこぼすのだった。
「こんな体じゃ、いつかみんなを悲しませる」
緋人は強く彼女の手を握りしめる。
「だからこそ、俺たちは二人で乗り越える。無限アレルゲンでも、無限の愛で」
結衣は涙をこらえ、深く頷いた。
これは、彼女の長く厳しい戦いの始まりだった。
⸻
夜、緋人の部屋のベッドに横たわった結衣は、点滴と酸素マスクをつけたまま、静かに目を閉じていた。隣でそっと椅子に座る緋人が、声をかける。
「苦しくないか?」
結衣は小さく首を振る。
「ううん。苦しいけど……嬉しいの。今日も生きて帰ってこれたから」
緋人は黙ったまま、彼女の枕元にそっと手を置いた。
ほんの数センチ。手を伸ばせば触れられる距離なのに――彼らは決して触れられない。
「誰にも言えない。私たちが夫婦だってことも」
「お前の命が何より大事だからな」
「でもね、緋人くん。私は……」結衣は涙を浮かべながら微笑む。
「この世界に、ちゃんと好きな人がいて、愛されてる。それだけで、もう少しだけ生きてみようって思えるの」
その言葉に、緋人は静かに目を閉じた。
「俺は、君の100個でも200個でも、全部背負う。君が全部抱えてるなら、俺も一緒に戦うよ」
無限にあるアレルゲン。
無限にあるリスク。
無限にある不安。
それでも、2人の間には、確かな“ひとつの真実”があった。
――これは、限界の中で生きる少女と、その命に寄り添う少年の、誰にも触れられない物語。
ベッドサイドのモニターが静かに点滅する。
命の灯がまだ消えていないことを、証明するように――。