第4話 『ガラス越しの、告白』 (緋人視点)
「結衣さんの症例、やっぱり特異すぎて、再現できる個体はまだありません」
梓が研究レポートを閉じる音が、研究室に静かに響く。
彼女の声は落ち着いていたが、その目は何かを抱えているようだった。
俺たちは今、特別な隔離ブースの中にいた。
過敏性免疫反応の研究に用いるガラスルーム。
外気から完全に遮断された空間で、わずかに酸素濃度が調整されている。
「……でも」
梓が言う。
「この研究が、たった1人の患者を救える可能性があるなら、私は続けたい。たとえ、それが“あなた自身”だったとしても」
沈黙が流れる。
彼女の言葉の意味は、明白だった。
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その夜、研究棟の屋上で。
梓が立っていた。
「風、冷たいですね」
俺が声をかけると、彼女は小さく笑った。
「あなたが来てくれるって思ってました。たぶん……今日が、限界なんです」
「限界?」
「ずっと言いたかった。でも、言ったら終わる気がして――怖くて」
彼女はポケットから、手帳を取り出した。
ボロボロになった表紙。中には、結衣の言葉がびっしりと書かれていた。
「私は、結衣さんに救われました。でも……あなたにも、救われたんです。今の私がここにいるのは、あなたが彼女の想いを守り続けてくれたから」
俺は何も言えなかった。
「……だから、ダメだってわかってます。
彼女を超えられないってことも、ちゃんと知ってる」
風が、彼女の髪を揺らす。
「でも、言わせてください。
私は――あなたが、好きです」
まっすぐな想いが、ガラスのように透明で、どこか痛かった。
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数秒、いや数分にも思える沈黙のあと。
「……ごめん」
俺はようやく言葉を絞り出す。
「まだ、俺の中で彼女は“終わってない”。
想い出じゃないんだ。ただの死じゃない。
結衣は――今も、俺の中で生きてるんだ」
梓は、ゆっくりと目を伏せた。
「……やっぱり、そうですよね」
声は震えていたが、涙は見せなかった。
「でも、それでいいんです。あなたが“想い続けられる誰か”を持っているって、すごく羨ましいから」
彼女は振り返ることなく、階段を降りていった。
夜の闇に、足音だけが静かに消えていった。
⸻
数日後、研究室で梓から資料が渡された。
「新しい治療プロトタイプです。
“他人の免疫因子”に反応しにくくするナノ処理――理論上、結衣さんに効いた可能性が高い治療です」
「これ……完成すれば、彼女みたいな患者が?」
「救えるかもしれません」
「……すごいな」
梓は笑わなかった。ただ、静かに言った。
「もう、気づいてますよね?
これはあなたに向けての“贖罪”じゃない。
私が、あなたの心を救いたいだけなんです」
俺は彼女の横顔を見つめた。
自分より、他人を想ってしまうその姿に、結衣の面影を見た。
違う。でも似ている。
代わりにはならないけれど、確かに――。
⸻
その夜、俺はまたノートを開いた。
『結衣が見た世界』。
その続きのページに、初めて彼女の名前を書き込んだ。
梓。
君の言葉は、俺の心を救った。
いつかまた、誰かを愛せる自分であれたなら、
その時に、もう一度話がしたい。
ページの上で、インクが滲んだ。
俺は、まだ生きている。
そして、誰かに愛されたまま、生きている