◆数年後の未来――“その後の、ふたりの物語”◆
■医療の進歩と、結衣の希望
結衣が参加した臨床研究は、彼女自身の協力と、数多くの同様の患者の支援によって画期的な成果を出す。
数年かけて開発された「免疫耐性調整薬(仮)」は、部分的にアレルゲン反応を抑える作用が認められた。
完全な治癒には至らない。
だが、“一生絶対に触れてはならない”という制限は、少しずつ緩やかになっていった。
最初に握ったのは手。
次に、額にそっと口づけ。
“許された触れ合い”の時間は、1日3分。
その3分が、結衣にとって何よりの宝物だった。
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■アイドルじゃなくても、結衣は“希望”だった
GRT48の卒業生として、彼女は表舞台には戻らなかった。
けれど、その名は知られていた。
アレルギー疾患を持つ子供たちの支援活動。
医療啓発の講演会。
患者と医師の懸け橋となるアドバイザー。
彼女のSNSの一言が、誰かの絶望を止め、
彼女の言葉が、誰かの“死にたい”を“もう少し生きてみよう”に変えた。
芸能界で輝いた時間は終わった。
でも、彼女の光は別の形で人々を照らしていた。
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■夫婦としての形、家族としての未来
結衣と緋人は、最終的に**「距離を保った同居婚」**という形で暮らし続けた。
同じ屋根の下にいても、生活スペースは分かれている。
けれど、心は隣にある。
触れられない日もあった。
けれど、笑顔は隠さなかった。
緋人は演技の世界に復帰し、ドラマで注目を集める役者へ。
「妻は誰ですか?」という質問には、いつも決まって「世界一、愛しい人です」とだけ答えた。
結衣が日記の最後に記した言葉。
「子どもが欲しいとは思わなかった。だって私には、緋人がいる。
この愛を残したいとも思わない。
けれど、私たちが“愛した事実”が、いつか誰かの希望になるなら――
この世界に生まれて、良かったって思えるんだよ」
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■永遠にはならなかったけれど、永遠より強く
最後に、医療の力だけではどうにもならない日が来た。
体は限界に近づいていた。
多臓器にアレルギー反応が波及し、薬も効かなくなってきた。
それでも結衣は、最期の瞬間まで「生きることを諦めなかった」。
――そして、その日。
酸素マスク越しに、結衣は緋人に笑った。
「愛してる、緋人。……生きてくれて、ありがとう」
緋人は涙を流しながら、そっと額に唇を落とした。
許された最後の3秒間。
それは、世界で一番やさしい「お別れのキス」だった。
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■後日談:その先へ
結衣の死後、緋人は彼女の遺志を継ぎ、「無限アレルギー基金」を設立。
そこには、結衣の最期までの映像や音声、日記が保管され、
世界中の患者と医療者に希望を届ける存在となった。
――そして、10年後。
ある若い少女が、結衣の記録を見てこう言った。
「私も、病気でも、誰かを愛していいんだね」
「私も、真白結衣みたいに、誰かの光になれるかな?」
その言葉は、世界のどこかで、確かに届いていた。
この愛が、永遠に届きますように。
その願いは、静かに、確かに、未来へと生きていた。
緋人視点でのお話