第10話 『君が生きている。それだけで… この愛が、永遠に届きますように』
病室の窓から春の陽射しが差し込んでいた。
白いカーテンが、風に優しく揺れている。
結衣は、ベッドの上で小さく深呼吸をした。
酸素濃度は安定。心拍も落ち着いている。
しかし彼女の体は、もはや“日常”を無傷で生きるには、あまりにも脆すぎた。
「触れたから……またこうして生きてるって思えるんだ」
目を閉じながら、結衣はそっと呟いた。
――君が生きている。それだけで。
それは、誰よりも自分に向けた言葉だった。
◆
退院から数ヶ月後。
彼女は東京を離れ、静かな地方都市の医療研究施設に籍を置いた。
彼女が協力しているのは、「アレルゲン耐性を向上させる新薬」の開発チーム。
自分と同じような体質を持つ人々が、未来には自由に恋をして、自由に笑っていられるように――
彼女は、自分の身体と、過去の記録と、幾千ものアレルギー発症データを提供していた。
「自分の人生を“実験”として差し出すなんて、バカだなって思うかもしれないけど」
ある夜、パソコンに向かう緋人にそう言った。
緋人は首を横に振った。
「違うよ。君の生き方が、きっと世界の誰かを救う」
「君が笑ってるなら、きっと意味があるんだと思えるんだ」
◆
彼らは、結婚したままだった。
だが、普通の夫婦ではなかった。
朝は離れた部屋で起き、食事は時間をずらして取った。
体調がいい日は、庭で一緒に星を見た。
それがふたりの「デート」だった。
それでも――それでいいと思えた。
触れられなくても、見つめ合えた。
抱きしめられなくても、心を寄せることはできた。
何度も涙を流した。
何度も「無理だ」と思った。
それでも、隣にいることをやめなかった。
◆
やがて、試験薬の臨床段階に進展が見えた頃。
結衣は、ふとテレビで特集された「若者のアレルギー患者」たちの声に耳を傾けていた。
「アイドルになりたかった。でも、この体じゃ無理だって言われた」
「学校にも行けない。友達とも会えない」
「それでも、あの人がいたから、生きていたいって思えた」
画面の中の少女が、手にしていたのは、かつてのGRT48の写真集だった。
そこに写っていた自分は、もういない。
けれど、あの時の光が、誰かの“希望”になっていることを、彼女は知った。
結衣は、緋人の背中にそっと話しかけた。
「もう一度、ステージに立ってもいいかな」
彼は振り返って笑った。
「その時は俺、最前列で観てる」
「……ありがとう」
彼女は泣いていた。
でも、その涙は、痛みではなかった。
◆
そして、春。
GRT48のチャリティーイベントで、彼女はサプライズゲストとしてステージに立った。
「私の名前は――真白結衣。元アイドルで、200のアレルギーと闘ってきた患者です。今日は、ひとつだけ伝えたくて来ました」
マイクを持つ手は震えていた。
だが、瞳は真っ直ぐだった。
「どれだけ苦しくても、世界が毒に満ちていても――人を愛する力だけは、誰にも止められない」
会場が静まり返る。
「私は今でも、彼を、心から愛しています。
そして、今日まで生きてきて、心から思うんです。
“君が生きている、それだけで――私は生きられる”って」
そこには、かつてのセンターではなく、ただの一人の女性が立っていた。
病とともに、愛とともに、生き続ける決意を持った女性だった。
◆
ステージの袖で、緋人が小さく呟いた。
「この愛が、永遠に届きますように」
彼女の姿を見つめながら、そっと手を重ねる――
その指先は、彼女には触れられない。
けれど、心だけは、どこまでも隣にあった。
そして二人は、拍手と光の中で、
それぞれの未来へ、また歩き始めた。