第9話『その手を、取ってしまったら』
治療後、結衣のアレルギー反応は一時的に落ち着いていた。
だが、医師は言った。
「これは完治ではありません。今後、何かの拍子に再発する可能性が高い」
「それでも……ご本人が望まれるなら、日常生活に復帰することもできます」
緋人は迷わなかった。
「それでも、俺は君のそばにいる。君の毒になってもいい」
結衣は、それを聞いたとき、笑うどころか涙を流した。
嬉しさでも、悲しさでもない。
それは、彼の“本気”が、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも優しすぎたからだった。
⸻
数日後。
二人は病院の屋上にいた。
冬の終わり。
まだ冷たい風が、制服の記憶を呼び戻す。
「……ここ、懐かしいね」
結衣が呟くと、緋人はそっと隣に立った。
「高校の屋上。最初に、キスしそうになった場所」
「うん。でも、触れなかった」
結衣は少し笑った。
「いっそ、あの時死んでもよかったのにね。こんなに辛い未来があるくらいなら」
「ダメだ」
緋人の声は強かった。
「俺は、君を死なせるために愛してるんじゃない。生かすために、愛してるんだ」
結衣の瞳が揺れる。
「でも……私は、あなたの傍にいるだけで、命を削る存在なの。普通のカップルみたいに、触れることも、抱きしめることもできない……そんなの、恋人って呼べるの?」
緋人は答えず、ただ、ポケットから何かを取り出した。
小さな、銀色の指輪だった。
「君と結婚してから、ずっと持ってた。渡すタイミング、ずっと迷ってたけど……もう我慢しない」
そう言って、緋人は結衣の左手をそっと取った。
結衣の全身が、ピクリと震える。
ほんのわずか、指先が赤くなる。
「……やっぱり、反応してる」
「それでも、俺は、君の手を取る」
指輪をそっと、彼女の薬指に通す。
その瞬間――
バチッ。
静電気のような刺激が走り、結衣の体が一瞬、痙攣した。
「結衣!」
「……だい、じょうぶ」
彼女は、苦しさの中で、かすかに微笑んだ。
「死んでもいいから、もう一度だけ……触れて欲しかった」
その言葉に、緋人は震える声で応えた。
「死なせない。何があっても、絶対に……」
結衣の手は震えていた。
だが、離れようとはしなかった。
そして二人は、ゆっくりと、触れ合う。
手と手。
指と指。
唇と唇――。
触れてはいけないはずだったものが、ついに重なった瞬間。
命の危機と隣り合わせの、最も甘くて、最も切ないキスだった。
そして、キスのあと。
彼女の身体は静かに、崩れるように倒れた。
「結衣……!」
呼吸が浅い。
顔色がみるみる蒼白に変わっていく。
「先生! 誰か、誰か来てください!」
屋上に響く叫び声の中で、結衣は微かに目を開いた。
「……緋人……幸せだったよ……」
意識は、薄れていく。
命の灯火が、風に揺られて、今にも消えそうだった。
だがその瞬間、病院スタッフが駆け込み、緊急処置が始まった。
心肺蘇生、投薬、酸素投与。
懸命の処置の中で――
彼女の心臓が、かすかに鼓動を取り戻す。
「戻った……!」
医師の声に、緋人の膝が崩れ落ちた。
――結衣は、まだ生きている。
その手を、取ってしまった。
けれど、二人の運命は、終わりではなかった。
愛は命を削る。
それでも、命よりも大切な愛がある。
結衣と緋人の物語は、静かに、新たな章へと歩み出していく――。