霜山リカ エピローグ
甘い香りに包まれてイチゴを摘んでいた私は、手を休めてハウスの中をゆっくりと見た。
収穫作業にも慣れて来て、いろんな事がとても楽しい。
ぼうっとしている私の事を心配して、おじさんやおばさんがすぐに声を掛けてくれるの。
「おおい、リカちゃん。大丈夫かい?
無理すんじゃねえぞ」
「そろそろお茶の時間にしようか?
チーズケーキがあるから、みんなでイチゴ乗せて食べよう」
「はあ〜い。無理はしてません。
でも、チーズケーキは食べまあす!」
私の元気な返事に、皆がハウスのあちこちから顔を見せて私に微笑みかけてくれる。私の事を気遣ってくれる人達に囲まれて、今、私の毎日はとても幸せに溢れている。
私は記憶に障害があって、思い出せない事があるらしい。普通の生活で困るような事は何もないけど、部分的に記憶がない '解離性健忘症' という病気なんですって。
ここに来る前、私は随分と長く入院していたんだけれど…。今も自分がなぜ入院していたのかよく分からない。
背中にたくさん傷があるから、それが関係しているんだろうなと思うけど、その傷がなんで付いたんだか、覚えていない。
担当の先生は、今が幸せなら思い出さなくてもいいって言って下さっている。
今を大事にすればいいんだよって…。
入院している間に久我山さんと竹下さんという2人が、何回か私を訪ねて来た。私の事をよく知っている人達だから心配しなくても大丈夫だ、と先生に言われたけど、誰なのか分からなかった。
2人はいつも、体の調子はどうですか、と聞いては帰っていく。一体どこで知り合ったのやら…。見当も付かない。
退院する前の日にも2人は私を訪ねてくださった。
「いつも会いに来てくださるのに、ごめんなさい。今もお二人がどなたなのか、私にはわかりません」
そう言って頭を下げると、久我山さんが少し微笑んだ。
「私たちの事は分からなくてもいいのです。
リカさんが退院すると聞いてお顔を見に来ただけですから」
竹下さんが私にガーベラの小さな花束をそうっと差し出した。
「花言葉は '前進' …リカさんの退院をお祝いする花です。どうぞ」
それから2人は、お元気で、と言って帰って行った。それっきり2人には会っていない。
誰だったんだろう?
でも、忘れている事をあれこれと考えて過去に苦しむよりも、これからもまっすぐ前を向いて生きていく事の方が何倍も大事よね。
だから、久我山さんと竹下さんが誰なのか、もう気にしていない。
だって、今、私は幸せに生きているんだもの!そして、これからも。
私はイチゴハウスの中で甘い香りに包まれて、せっせとイチゴを摘んでいく。
ん…まただ。頭が痛くなってきた。
最近、こんな風に頭の中がずんずんと脈を打つように痛くなる事があって、先生にも相談したんだけど…。
「気にせずにいつもの通り暮らせばいいよ」
先生はそう言って、痛み止めと精神安定剤を処方してくれた。
最近変な夢を見るから、そのせいで頭が痛くなるんだと思う。
床が真っ赤になっている夢。夢の中で誰かが私を呼ぶ声も聞こえるの。こっちに来いよ…って。
今日はなんだか、いつもより痛みが強い。
私はイチゴを摘む手を止めて、立ち上がった。
誰かが、私を呼んでいる声が聞こえる。
…呼ばれたらすぐに来いよ
「だれっ?誰なの」
辺りを見ても知った顔以外の人はいない。
頭が割れそう…。
痛い!頭が、痛い!
…俺なしじゃ生きていけないんだろ?
…俺がいいんだろ?だったら来いよ。
「だれっ?やめて!
痛い!痛い!痛い!やだっ!」
私は頭を押さえながら、ハウスから飛び出した。
「やだ!やだ!やだやだやだ!」
「リカちゃん!どうした?」
「どこ行くの?」
皆の声がボワボワと頭の中でこだまする。
走る私の頭の中に、男の声が聞こえる。
…呼ばれたらすぐ来い。すけべ女!
何?
…地獄に来いよ
…この、エロ女
エロ女…
…地獄に堕ちてこい
…抱いてやるよ
ピン!
目の前が真っ赤になった。
そして、雅彦がニヤリと笑っていた。