幕間 1 山城正人の独白
部屋のカーテンをそっと開けると、東の空が少し明るくなっているのがわかる。つい先日まで黄色く色づいていたオークの葉はすっかり落ちて、街は寒々しくなってしまった。
ここワシントンD.C.では東京より2月はやく冬が来る。そして、もう直ぐあたり一面白と鼠色の混じった雪景色になる。
そう思うと少しだけ憂鬱な気分になった。
ここに来て10ヶ月が過ぎた。だが、日本を懐かしむ気持ちもないし暇もない。
自分から望んだ事に後悔はない。
だけど…。
「…もう起きたの?」
香苗は眠そうな声を出し、俺を目で探した。
「うん。でも、まだまだ時間はある。
もう少し寝ていなさい」
俺がそう言うと、ブランケットから顔だけ出して香苗は笑った。
「じゃあ、ここに来て。
キスしてくれたらもう一度寝るわ」
(もう一度…寝る?
キスしたら、それで終わるわけないじゃないか)
そんな言葉を飲み込んで、俺は香苗の隣に潜り込む。
「キスだけ…な」
彼女の腕が俺の首に巻きついて、キスがだんだん激しくなっていく。
うっすらと明るくなっていく部屋の中に、香苗の吐息が響く。
「離れたくない…」
小さな声が漏れた。
その日、空港で抱きしめる俺の腕から、香苗はするりと離れて言った。
「大丈夫。やり遂げるわ。
向こうで待ってるね」
笑いながら手を振る彼女の姿を見ていると、様々な不安がよぎる。
でも、もうやるしかない。
俺も小さく手を振り、ゲートの奥に消えて行く香苗の後ろ姿を見送った。
そう、もうやるしかない。
そのためにここに来たのだから。
俺はずっとアメリカに来たかったんだ
どうしてもある男に会いたかったから。
…違うな。
ある男に会う必要があったから。
その男はマッド サイエンティストとして有名だった。いくつかの科学雑誌に発表した画期的な論文が賞賛を浴びる一方で、その思考には何とも言えない暗さと狂気が潜んでいると恐ろしがられてもいた。
その男は10代半ばでアメリカの大学院に受け入れられ、思いもつかない研究方法で成果を出し続けた。主な研究内容は生物毒で、難病の治療薬などを開発し、かなりの数の特許つ富豪でもある。そして、今もどこかで研究をして論文を書き続けている。
名前はアメリカに来てから改名したらしく、生まれた時の名前はわからない。出自も不明だ。正確な年齢もほとんど知られていない。その上、研究施設の中に住み込んでいるのか、ちゃんとした住所もわからない。
そんな男、マッド サイエンティストと呼ばれる Dr. Gaia Stronghold と俺は会わなければならない。
なぜか?
その男が俺の父親かもしれないと思ったから。
俺は子供の頃に一回だけある名前を聞いたことがあった。
山城大地
いまだにその名前をよく覚えているのは、その時の事がとても印象的だったからだ。
それは、俺の祖父さんである山城大河と数人の男達が酒を飲んでいる時の出来事で、俺は祖父さんの膝の上に座らされていた。
一緒に呑んでいた男がその名前を言って称賛したのだが、祖父さんは語気荒く言った。
「命が惜しかったら、2度とその名前を言うな!」
その場にいた誰もが縮み上がった。暫くして、その名前を口にした男は死んのではないかと噂話を聞いた。噂だ。本当かどうかは、わからない。
俺は大人になってからその名前が気になって調べ始めたが、ある程度までは簡単に分かった。
山城大地は祖父さんの息子で、祖父さんが18歳の時の婚外子。母親は祖父さんの16歳の従姉妹、山城風子。
かなりショックだった。祖父さんが従姉妹とそんな年で子供をもうけていた事も、その相手が国際指名手配中の山城風子だった事も、それを隠していた事も。何もかもショックだった。
それ以来、俺は山城家の色々な事を疑いの眼で見るようになった。
俺の戸籍もいかにも怪しげだった。俺の父親は祖父さんが愛人に産ませた男。母親は戸籍には載っているが、どこの誰かもわからない女。そんな2人の間に産まれたのが俺、山城正人という事になっている。
俺は誰からも自分の両親について話を聞いたことがない。俺の乳母や山城家で働いていたメイド、祖父さんの秘書達も何も言わない。写真すらない。
おかし過ぎるだろう?
だから、もしかしたら山城大地が俺の本当の父親なんじゃないかと思ったんだ。
警視庁に入ったのは、ここなら便利なツールを使えると思ったから。
入庁する時、祖父さんとは少しもめた。山城財閥の次期当主が警察か、ってね。だから、俺は祖父さんにこう嘘をついた。
「俺は警察でどんどん上に行って権力を手に入れる。そして、お祖父様の役に立ってみせるよ」
祖父さんはそれを聞いて喜んでたさ。これで山城財閥は盤石だってね。
大学時代から付き合っていた香苗には俺の考えている事を隠さずに話してあった。俺だって誰か1人ぐらい、弱音を吐ける相手がいてもいいだろう?
香苗はいつも俺にこう言っていた。
「私は正人さんの役に立ちたいわ」
側にいてくれるだけで嬉しいよ、と俺が言っても香苗は首を振った。
「私はね、正人さんの事を愛してるの。
だから2人で前に進みたい。正人さんと一緒に前に進むために闘う力が欲しい。例えば、諜報工作のスキルを身につけるなんて、スパイ映画みたいだけどいいんじゃない?
側にいるだけなんて、お人形さんみたいだもの」
でも俺は香苗が側にいて、笑ってくれるだけで幸せだった。
俺達は警視庁に入ってから、暇を見ては '山城大地' について調べた。何人か同姓同名の同世代の男が見つかったが、気になったのは40年程前に日本から出国しアメリカに行った男だった。色々調べても帰国したという記録がない。
'山城大地' とマッド サイエンティストと呼ばれる Dr. Gaia Stronghold が同一人物だという疑惑が深まった。
Dr. Gaia Stronghold に会わなければならないと思った俺は、アメリカでの半年の研修を願い出た。マッド サイエンティストを探し出すには時間もかかるし、警視庁のツールは使いたかった。
そんな事を考えていた俺は井上副総監に呼び出された。
濛々とした煙と安い酒の臭いが立ち込め、仕事帰りの男達が大声で話す焼き鳥屋で、場違いなスーツ姿の俺はまるで悪戯を見つかった少年みたいだった。
挨拶も何もかもすっ飛ばして、副総監は俺に言った。
「どこまで調べた?」
俺の事を何もかも見透かしている井上副総監には何も隠せず、俺は項垂れて全てを話した。
すると、副総監は暫く考えてから言った。
「アメリカに行かせてやるよ。
だけど、ちょっとだけ待て」
そして、待っている間に遥香の事件が起きた。副総監は何もかも分かっていたのだと俺は思った。きっと、久我山が捜査して得た事を元に分析しているのだろう。
副総監は特殊捜査研究所の捜査結果を全て知っている。多分、公表していない事も多いはずだ。
俺はそんな捜査を任されている久我山に、ほんの少し嫉妬した。そして、温和な顔の裏にある副総監の恐ろしさをつくづく思い知った。
その後、井上副総監は俺と香苗に取引を持ちかけ、俺達はそれを受け入れてアメリカにやって来た。
そして、今日。
香苗は副総監と俺達との取引を遂行するために、1人で帰国した。
香苗の後ろ姿を見送りながら、香苗が無事だけを祈った。もう、俺が香苗にしてあげれる事はないから。




