7. 誰かの願いに、巻き込まれてしまうのも悪くない
……何も起きていないように見えるけど、
たぶん、誰もが、少しずつ言葉を飲み込んでる。
私も、あの子も、彼も。
ただ、日常が続いてるだけ――
でも、大会はもうすぐ。
静かな時間のなかで、きっと何かが、動き出そうとしてる
風が、淡い陽差しの匂いを運んできていた。
学部棟の石造りの渡り廊下は、昼下がりの講義明けで人の流れが引き始めた時間帯。
重厚な柱の影に、まだ何人かの生徒たちが談笑しながら残っている。
「ねえ、今日の討論、レオノールさんがまた論破してたわね。あれ、将来は大使候補よ」
「わかる~、ってかあの人たち、政治史の話になると止まらないもんね。庶民科の子、途中で泣いてたって聞いたし……」
そんな声を背に、アリシアは、ひときわ静かな歩みで通路を渡っていく。
講義後、教官から手渡された補足資料を片手に、背筋をすっと伸ばしたまま。
その歩みは柔らかくも凛としていて、周囲の生徒たちは自然と道を開け、軽く一礼を添える。
だが、誰も言葉をかけようとはしない。
貴族の中でも特別な立場――それが、彼女の周囲に生まれる“隔たり”だった。
そんな中で。
その空気を揺らすように、通路の先から、ひとりの少女が歩み出てきた。
制服の袖口をそっと握りしめながら、エレーナは立ち止まり、深く頭を下げる。
明るい栗色の髪が光を弾き、ゆっくりと顔を上げたその瞳は、まっすぐだった。
周囲には、まだ数人の生徒たちの気配がある。
重なる囁き声。ちらりとこちらを向く視線。
――まるで、また何か始まるのかしらとでも言いたげに。
アリシアとラウレンツ、そしてエレーナ。
三人の名が並ぶだけで、好奇と誤解の火種はくすぶる。
そんな空気を正面から受けながらも、
エレーナは、アリシアに恥をかかせないよう、
あえて距離のある口調を選んだ。
彼女はまず一礼をして、丁寧に言葉を紡いだ。
「アリシア・フォン・ルーン様。
ご挨拶が遅れました。本日もお疲れさまです。……あの、少しだけお時間をいただけますか?」
アリシアは、その整った言葉に目を細め、
そして、かすかに首をかしげるように微笑んだ。
「堅いわね、エレーナ。人払いしてから話しましょうか」
「……はい、お願いします」
二人は並んで歩き出し、人の気配の少ない中庭へと向かう。
足音が芝の上で小さく吸い込まれていくその途中で――
エレーナが、ふっと息を抜くように口調を変えた。
「……さっきはちょっと、緊張してたかも」
「ええ、分かってるわ。ありがとう。……あの距離感、助かるの」
エレーナが小さく笑って、ほんの少し、歩調を緩めた。
その笑みにつられるように、アリシアの口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。
数日前から続く緊張が、ほんのひと息分、ほどけていくのがわかる。
「……ふふ。なんだか、私たち、ちょっと芝居がかってたわね」
「うん。結構それっぽくなってたと思う」
二人のあいだに、ごく小さな笑いがこぼれる。
誰にも聞こえないくらいの、でも確かな、穏やかな音。
その一瞬、午後の陽差しが、二人の間に柔らかな明るさを差し込んでいた。
すでに陽は少し傾きはじめていて、芝の上に長く落ちる影がそっと伸びていた。
足元に舞い落ちる白い花びらが、風の通り道を示していた。
並んで歩く二人のあいだに、しばし沈黙が落ちる。
けれどそれは気まずさではなく、むしろ安心できる間だった。
アリシアは隣を歩くエレーナに、視線を向けずにそっと問いかける。
「……今日は、何かあったの?」
その声は静かで、急かさず、ただ“そこにいる”という意志だけを乗せていた。
エレーナは、ふと足を止め、少しだけ上を向く。
翠の瞳に、枝の間から差す光が射し込んでいた。
それは、胸の奥で迷い続けていた言葉に、ようやく手が届いた瞬間。
「……ラウレンツ様に、気持ちを伝えたくて」
「でも、私が直接行ったら、また“噂”になってしまうかもしれない。
それが、彼の迷惑になる気がして……」
「……それで?」
アリシアが静かに問いかける。
「クラリス様に聞いたんです。……“どうすれば気持ちを伝えられるか”って」
「彼女はなんて?」
「“アリシアにお願いしなさい。それが一番、自然に伝えられる方法よ”って……」
エレーナが、視線を落とした。
まるで自分の言葉を選ぶのが怖いかのように。
声を飲み込むようにして、そっと口を噤む。
「……やっぱり、変だよね。私なんかが、こんなお願い……」
視線は、足元の花びらへ。
握りしめた両手の指先が、わずかに食い込んでいる。
「アリシアだって、きっといろいろ巻き込まれてるのに……
私が、頼っていい立場じゃないのに……」
その小さな呟きは、誰に届かせたかったのか分からなかった。
けれど、それでも。
エレーナは息を吸い込み、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
恥ずかしさも、不安も、そのまま抱えたままで――それでも、前を向く力だった。
「……それでも、伝えたくて。
私……ラウレンツ様に、応援を伝えたいの」
その声には、もう震えがなかった。
アリシアは、静かに足を止めて彼女を見つめる。
「それが、“あなたの選んだ方法”なのね」
「うん。……でも、ちょっとだけ、力を貸してほしいの。
アリシアが隣にいてくれるだけで、きっと勇気が出るから。……お願い」
呼び慣れたその名が、変わらぬ距離感で響いた。
アリシアはまばたきをひとつ。
その言葉の温度に、心の奥がそっと揺れる。
(……ふふ。私のことも含めて、クラリスさんが導いてくれた……そう思えてしまうわね)
「ええ。ちょうど私も、彼に伝えたいことがあったから」
その声には、ほんの少しの温かさと、
エレーナの決意を受け止めるやさしさが宿っていた。
エレーナの表情が、ふわりと明るくなる。
「じゃあ――正門前に、三時ね。
カトリーヌにも声をかけておくわ。あの人、こういう時は本当に頼りになるの」
「さすが、アリシア。ありがとう!」
エレーナが、屈託のない笑顔を見せる。
その姿に、アリシアの表情はほとんど変わらない。
けれど、ほんのわずか――目の奥が、やわらかく揺れた。
ほどなく、講義の終わりを告げる鐘の音が、風に乗って微かに届く。
人の気配が戻りつつある中庭の片隅で、
アリシアは立ち止まったまま、静かにエレーナを見送っていた。
緩やかな足取り。少し不安げな肩越し。
けれど、決してうつむかない歩き方だった。
(……すごいな)
心の中で、そんな言葉がひとつ、そっと浮かぶ。
誰かを想って、まっすぐ動けること。
戸惑っても、言葉にして届けようとすること。
――それは、たぶん、自分には持ち合わせていない強さ。
風がひとすじ、アリシアの髪を揺らした。
その揺れに紛れるように、彼女は静かに目を細めた。
(あの子は、あの子のままでいてくれればいい)
そう思えた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ、温かくなった気がした。
……あの子の願いが、誰かを少しでも動かすのなら、
私は、隣にいるだけでいいと思った。