6.午後の静けさ、お茶会にて
ラウレンツ・フォン・ヴェステリアが、平民の少女を舞踏会に誘った。……人目のある場所で。
場を乱すつもり? それとも、何か意図があるの?。
ヘルムート・クロイツまで、勝利を捧げるって言い出すし……。
それから午前の授業は、ひどかった。
私も、エレーナも、噂の渦中。
……あの二人とも、結局、話せずじまい。
どうすればいいのかなんて、私にもわからない。
……そんな時に、クラリス・フォン・エルゼンが、お茶会を開いてくれた。
「……朝から、ずいぶんと波乱でしたわね」
午後の陽差しが、レースのカーテン越しにサロンをやわらかく照らしていた。
クラリス・フォン・エルゼンは、陶器のカップをそっと置き、気品ある笑みを浮かべる。
「まったく……私の朝食、返してほしいくらいです」
アリシア・フォン・ルーンは苦笑しながら紅茶を口にする。
香ばしい茶葉の香りが、静かな空間にやわらかく広がる中、背後で控えていたカトリーヌ・ミルフォードが鼻を鳴らした。
「フンスッ。あの男……勝手にエスコートを申し込んでおきながら、勝手に他の子に変えるなんて……!」
エレーナは一瞬だけカトリーヌを見たあと、ぷくっと頬を膨らませた。
「……他の子って言わないで」
エレーナが小声でぼそりと呟く。手元のカップの中、スプーンをくるくる、延々と回し続けている。
紅茶がさざ波を立てて揺れていた。
「まぁまぁ、紅茶に八つ当たりされては困りますわよ」
クラリスが笑みを浮かべて仲裁に入ると、エレーナは息を漏らすように言った。
「……いつもの紅茶なのに、今日は沁みすぎて逆につらいです……」
アリシアがその言葉に吹き出しかけ、慌ててカップを口元に隠した。
「困ってらっしゃるのね、エレーナさん。……まるで舞踏会の主役に抜擢された平民の少女みたい」
クラリスがエレーナにやさしく視線を向ける。
その声音は、からかいではなく、本質を静かに見抜く者の響きを帯びていた。
「そ、そういうふうに言わないでくださいよ……」
エレーナは俯きながらもぽつぽつと語り出す。
「私の“推し”は……ヘルムートさんなんです。朝から、学園中に知られてるみたいで恥ずかしいけど……応援したい。でも、ラウレンツ様からの申し出は、光栄というか……」
「どうすればいいのか分からなくなったのね?」
クラリスは少しだけ身を乗り出し、声を落とす。
「怖がることはありませんわ。……あなたは、自分のことを“普通”だと思っていらっしゃるかもしれませんけれど」
紅茶の縁を指でなぞりながら、柔らかな語り口を続ける。
「でも、人は無意識に惹かれてしまうものなのですわ。言葉の選び方も、仕草も、心の動きも……あなたが隠しているつもりのことさえ、誰かを動かしてしまう」
そして、そっと微笑む。
「あなたの魅力は、“自然と人を惹きつけてしまう”こと。……それは、生まれや肩書きとは無関係な、あなた自身の力ですのよ」
軽くウインクを添えて、クラリスは言った。
「この際ですもの、胸を張って“ぽかぽか姫”を名乗ってしまってはいかがかしら?」
エレーナが一瞬ぽかんとして、それから少しだけ笑った。
「……やれること、やってみます」
エレーナがそっと息をついた。
クラリスは満足げに微笑むと、ひとつ窓の外へ視線を送った。
やわらかな陽光と、わずかな風の揺らぎ。
その静けさの中で、クラリスはふと、アリシアへと目を移す。
アリシアはその視線を受けとめ、小さく頷いた。
クラリスは、頷きに応えるように、落ち着いた口調で言葉を継いだ。
「ラウレンツ様のご父君、最近は王族派主催の夜会にご出席なさったそうですの。……少し前までは、あのような場には距離を置いていらしたと記憶しておりますわ」
その一言が、午前の喧騒とは異なる、もう一つの“波紋”をサロンの空気に落とした。
アリシアの瞳が揺れ、カトリーヌがわずかに背筋を伸ばす。
話題の重さが、三人の間に、新たな静けさを呼び込む
「……あの方、昔はもっと、違った考えをお持ちだったと……」
「“平民と同じ目線で話される方だった”と、古参の家臣が噂していたそうですの。……今となっては、少し信じがたいでしょうけれど」
その言葉に、アリシアが小さく息をのむ。
カトリーヌが、アリシアの背後からそっと声を落とした。
「……昔、ほんの少しだけですが、ご滞在中のお仕えをしていたことがありましてね」
そう言って、カトリーヌは手をひらひらさせながら、わざとらしく天井を仰いだ。
「そのとき、ちょっとした騒ぎがありまして……ええ、まあ、羽虫みたいなものですよ、羽虫。夏の夜にお部屋に迷い込んでくる、あの素早いやつです」
クラリスが少し首をかしげ、アリシアはくすりと笑いをこらえる。
「それを箒で追い払おうとして……ええ、見事に転びました。しかも、その方の足元に真っ直ぐ」
カトリーヌは少し肩をすくめ、口元に皮肉気な笑みを浮かべた。
「で、真顔で言われたんです。“平民と貴族に隔たりなどあってはならない”……“ただし、戦場で味方に膝蹴りを入れるのは控えてもらいたい”って」
「戦場……?」
「ええ、まあ。あの時は戦場みたいな現場でして。……お部屋の中でしたけどね」
アリシアが思わず噴き出しそうになり、クラリスも目元をやわらかくした。
「でも、そう言いながらも、手を差し伸べてくれたんです。あの方は。どこか、そういうところのある人でしたよ」
エレーナはカップを両手で包み込みながら、黙って耳を傾けていた。
“ラウレンツ様のお父様って……そんな方だったんだ”
心の中でそう呟くように、そっと瞬きをする。
カトリーヌは、ふっと目を細めた後、少し声を落とす。
「ラウレンツ坊っちゃんは、その背中を見て育った子です。……だからこそ、今の公爵家の変化に、戸惑っておられるのかもしれませんね」
クラリスもまた、穏やかな口調で続けた。
「もしかしたら彼は、“誰に捧げるか”より、“どう伝えるか”を迷っているのかもしれませんわね。……あの方、本当に真面目な方ですから」
アリシアは静かにうなずき、目を伏せた。
その姿に、ふとエレーナのまなざしが引き寄せられる。
――迷いを抱く姿は、どこか自分にも重なって見えた。
それが不思議と、胸の奥にやわらかな灯をともす。
エレーナはカップを両手で包み、そっと背筋を伸ばす。
光を透かしたティーカップが、わずかにきらめいた。
その光は、揺れる心の奥深くへ、やさしく届いていた。
テーブル越しにそのきらめきを見つめながら、エレーナは小さく息をつく。
静かな午後の中で、彼女の胸にもまた、確かな温もりが芽生えていた。
今日のお茶会、紅茶より熱かったのはクラリスお嬢様の指南かもしれません。




