5.ちょっと待って、誰に勝利を捧げるの!?
侯爵令嬢アリシアと平民の少女エレーナは、朝食の席で特別なハニーフルーツを味わっていた。
しかしその静かな朝は、ラウレンツの突然の宣言によって一変する。
舞踏会のエスコートをめぐって、貴族たちの注目が集まり——食堂は静かに、ざわめき始めていた。
食堂のざわめきはまだ収まっていなかった。
ラウレンツの突然の申し出、そしてアリシアの曖昧な返答——誤解が誤解を呼び、貴族たちの噂は一気に広がっていた。
そんな中、厨房の扉が開き、ヘルムート・クロイツが姿を現す。
白い作業服の前を外し、コックたちと軽口を交わしながら、手を振って別れを告げる。左手には、丸々と太った黄金色のハニーフルーツをいくつか抱えていた。
「ふう、やっと片付いたな……って、ん? なんだこの空気」
食堂の視線は一点、中央席に立つラウレンツとアリシアに集中していた。
どこか張り詰めた空気が、二人の間に漂っている。
「……どう見ても、ケンカの直後だな」
ヘルムートは眉をひそめたあと、次の瞬間には片手を上げ、快活な声を張り上げた。
「おーい、朝は仲良く! 食事は楽しくが基本だろ? さあさあ、座って、話の続きは後でにしようぜ!」
空気が一瞬動き、ラウレンツは表情を崩さぬまま席に戻り、アリシアもそれに倣った。
ヘルムートは、片腕に抱えたハニーフルーツから一つを手に取り、彼女たちのもとへ歩き出す。
そのとき、平民席の中ほどで椅子がきしんだ。
ヘルムートの友人らしき少年が身を乗り出し、オーバーな身振りでこちらに向かって手を振る。
(やめとけ、あそこは貴族の席だってば……! また何かやらかす気か?)
だがヘルムートは、ちらりとそちらを一瞥し――困ったように眉を下げて、軽く笑みを浮かべる。
「大丈夫、大丈夫」とでも言いたげな、“いつもの笑い顔”。
それを見た友人は、あ〜もう……という顔で小さく肩を落とし、椅子に深く沈み込んだ。
ヘルムートはそのまま段差を越える。
数人の貴族たちが、その姿に視線を向けた。
冷ややかで、見下すような色。だが、彼は気にも留めず、まっすぐ彼女たちの席へ向かう。
「んで、これが最後の一個。朝一番で見つけた、今日いちばん甘いやつだ」
そう言って、ひとつをアリシアの皿へ、もうひとつをエレーナの皿へそっと置く。
「エレーナ、アリシア。朝からお疲れさん。……元気出せよ」
声は明るく、どこまでも気さくだったが、
その瞳の奥には、騒がしさを包み込むような静けさと、確かな強さが宿っていた。
席に着いたヘルムートは、貴族たちを気にする事なく、まずエレーナの様子をうかがった。
彼女は頬を赤らめ、視線をさまよわせながら、か細い声でつぶやく。
「わ、私……お姫様になっちゃった……?」
ハニーフルーツの皿を見つめ、現実感を失っているようだった。
その言葉に、ヘルムートはきょとんとしたあと、ふっと笑う。
「お前が姫様って……あー、あれか。“ぽかぽか姫”って呼ばれてたやつな。厨房の兄ちゃんたちが言ってたぞ」
だが、エレーナは反応せず、ぼんやりと宙を見ている。
「……マジで舞い上がってるな」
軽く苦笑しつつも、ヘルムートは隣のアリシアに目を向け、状況を確かめようと身を乗り出しかけた——そのとき。
「ヘルムートさん」
クラリスがそっと手を差し出し、静かに制した。
声は低く抑えられ、アリシアに聞こえぬよう配慮されている。
「こっちを見て。……説明するわ」
目線で合図を送りながら、椅子を少しずらし、ヘルムートに顔を寄せる。
周囲に聞こえぬよう、静かに耳元で囁いた。
クラリスの簡潔かつ的確な説明に、ヘルムートの表情が徐々に変わっていく。
さっきまでの笑顔が消え、代わりに、静かな苦笑とともに小さなため息を漏らす。
「……まったく、おとぎ話の主役気取りかよ。でもまあ、だったら俺も一役買ってやるか」
椅子を押して立ち上がる。
その背筋は伸び、瞳には冗談めいた光ではなく、まっすぐな決意が宿っていた。
「ラウレンツ!」
食堂全体が一瞬で静まり返る。
「最初、アリシア様に勝利を捧げたいって言ったときの、あんたの覚悟。……俺は、それを否定しない」
そして、ヘルムートはアリシアへと視線を移す。
「俺も、あのときあんたに助けられたことを忘れてない。そして……その礼は、ちゃんと返す」
近くのテーブルにあった果実を手に取り、ひとかじりすると、それを無造作にテーブルへ置いた。
「でも、これは礼じゃない。——俺は、勝つ。それが“あの時の礼”だ」
そして、エレーナの隣へと進み出て、片膝をつく。
陽に焼けた肌。飾り気のない短髪が額にかかり、まっすぐな眼差しには揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……でも、今回俺が勝利を捧げたいのは——」
その声は決して大きくなかった。
だが、食堂中の誰もが、息を止めるようにして聞き入っていた。
ゆっくりと顔を上げる。
その視線は、ただ一人の少女へと、まっすぐに注がれた。
「アリシア様、あなたです」
アリシアの目が見開かれ、息が止まる。
心臓が一拍遅れて跳ねた、その瞬間——
食堂全体が、爆発するようなざわめきに包まれた。
大勢の前で想いを口にするには、勇気が要ります。
そしてそれを受け取る側もまた、心を試されますよね。




