4.クールなつもりが、大混乱
侯爵令嬢アリシア・フォン・ルーン。
気品と冷静さを宿した彼女が、今朝はほんの少し、甘い誘惑に心を傾ける。
導いたのは、庶民の少女エレーナ。待っていたのは、ざわめきと——ハニーフルーツ。
朝の食堂では、貴族と平民の生徒たちがそれぞれの席に分かれ、思い思いの話題で談笑していた。しかし、貴族席の一角では、アリシアとエレーナの存在が密かに注目を集めていた。
ちらちらと向けられる視線。ささやき声が広がる中、二人は気にする様子もなく、特別に用意されたハニーフルーツを口にしていた。
「やっぱり美味しいね! こんな豪勢なハニーフルーツ、めったに食べられないよ」
エレーナは満足そうに微笑み、瑞々しい果汁を楽しんだ。
「……そうね。甘すぎず、ちょうどいい熟し具合だわ」
アリシアは静かに応じながらも、どこか満足げな表情を浮かべる。そんな彼女の様子に、エレーナはくすりと笑った。
「お嬢様は甘いものに目がないんだね」
「別に、特別好きなわけでは……」
そんな会話を交わしていたところ、一人の貴族生徒が静かに立ち上がり、アリシアとエレーナのテーブルへと歩み寄る。その動きに気づいた周囲の貴族生徒たちも、さりげなく耳を傾け始めた。
「おはようございます、アリシア様。エレーナ様も」
その声の主は、クラリス・フォン・エルゼンだった。
彼女が席に座ると、給仕が慣れた手つきでティーカップを準備し、温かな紅茶を静かに注ぐ。クラリスはそれを当然のように受け入れ、淡い金色の髪を揺らしながら、優雅にカップを持ち上げた。
一口飲むと、微笑を浮かべ、柔らかな声でエレーナに話しかける。
「エレーナさん、どうしてそんなに遠慮なさるの?」
エレーナは、スプーンを持つ手を止め、クラリスを見た。
「え? 遠慮って……?」
「だって、わざわざアリシア様と距離を取るように座るなんて」
クラリスはくすっと微笑む。
「ごく自然に隣に座ればいいのに」
エレーナは一瞬、目を泳がせたあと、ちらりとアリシアを伺う。
アリシアは特に気にする様子もなく、静かにハニーフルーツを口に運んでいた。
「……でも、私、貴族じゃないし」
「そんなこと、アリシア様は気にしていないわ」
クラリスはさりげなく手を伸ばし、エレーナのトレーを軽く押すように促した。
エレーナは迷った末に、小さく息をつきながら、そっとアリシアの隣へと席を詰める。
「……じゃあ、失礼して」
「そう、それでいいのよ」
クラリスが満足げに微笑む。
アリシアはちらりとエレーナを見たが、特に何も言わず、ただ静かに紅茶を口に運ぶ。
しかし、その目の奥にはわずかに和らいだものがあった。
こうして、三人の会話がゆるやかに始まった。
「さて、今度の闘技大会では、どのような者が頭角を現すのでしょうか? アリシア様はどのようにお考えでいらっしゃいますか?」
その言葉をきっかけに、周囲の生徒たちの関心が一気に高まり、ざわめきが広がり始めた。
「そういえば、闘技大会の優勝者は学園祭の舞踏会で好きな相手をエスコートできるんだよな?」
「そうそう。だからみんな本気になってるんだ」
その言葉を聞き、エレーナの表情がぱっと明るくなる。
「あ、そういえば、今回の闘技大会、私の推しが出るの!」
エレーナは嬉しそうに声を弾ませながら、ハニーフルーツを頬張る。その目は輝き、無邪気な興奮に満ちていた。
「彼、毎日遅くまで練習してるんだよ! 仕事の合間を縫って、誰よりも必死に鍛えてるの。すごく真面目で、努力を惜しまないタイプなんだ」
自然と熱がこもる口調。彼女の言葉にアリシアはスプーンを止め、ちらりと視線を向ける。
「貴族の人たちは生まれつきの才能で戦ってるけど、彼は違う。全部、自分の力でここまで来たの! それがすごくカッコいいの!」
彼女は身を乗り出し、力強く語る。
「だから、試合が始まる前から、すでに注目の的なんだよね。私も見てるだけでワクワクする!」
しかし、その熱意とは裏腹に、周囲の貴族生徒たちは冷ややかだった。
「平民の生徒が白熱……ねぇ」
どこか嘲るような声が漏れ、貴族席の一角では互いに視線を交わす者が現れる。
エレーナは一瞬、表情を曇らせたが、すぐに肩をすくめて言い返した。
「でも、平民の生徒だって実力で勝ち進むのでしょう? なら、貴族だろうが関係ないじゃない」
言葉に力を込める。しかし、数人の貴族生徒は鼻で笑い、周囲には微妙な空気が流れた。
そんな中、クラリスは静かに紅茶を一口含む。
「……あら、エレーナさん」
優雅な微笑みを浮かべながら、ゆっくりと視線を向ける。
「あなたの”推し”というのは、もしかして……働きながら学ぶ、あの平民学生——ヘルムート・クロイツのことかしら?」
エレーナの手が止まった。スプーンを握る指が、わずかに強張る。
「えっ、そ、そんなこと言ってないよ!」
反射的に否定した。しかし、その声はどこかぎこちなく、自分でも違和感を覚える。
だが、そのわずかな間に、周囲の貴族たちの間でざわめきが広がり始めていた。
「……ヘルムート・クロイツ?」
「平民のくせに決闘で貴族を打ち負かした問題児の?」
「だが、実力は本物だ……」
クラリスは微笑を崩さぬまま、ゆっくりとティーカップを置いた。
「このままでは、彼の快進撃を許してしまうのかしら?」
その言葉が引き金となったかのように、貴族生徒たちは互いに視線を交わし始める。
「いや、誰かが彼を止めるべきだ」
「ならば、ラウレンツ・フォン・ウェステリアこそが相応しいのでは?」
名前を呼ばれ、場の視線がラウレンツへと集まる。
静かに食事を終えていたラウレンツは、一瞬だけ目を閉じ、思案するように息をついた。
ゆっくりと袖口を整え、静かに息をつく。そして、貴族らしい優雅な所作で椅子を押し引きしながら、迷いなく立ち上がった。その動作には、一切の無駄がなかった。
一瞬、右手が微かに動いた。見逃すほどの小さな仕草だったが、アリシアはそこに目を留めた。
(やはり、まだ傷が……)
しかし、ラウレンツは動じることなく、静かに口を開いた。
「アリシア」
ラウレンツの声が響いた瞬間、食堂内が静まり返る。
アリシアはスプーンを置き、彼の堂々とした立ち姿を見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。
二人の視線が交わる。
そして、ラウレンツは真摯な眼差しを向け、はっきりと告げた。
「次の闘技大会で勝利を捧げたい。学園祭の舞踏会で、君をエスコートさせてもらえないだろうか?」
食堂が静まり返る。
アリシアは、ラウレンツの顔をじっと見つめた。
その視線が、彼の右腕へと落ちる。袖の下に隠された傷。数日前の事件——貴族生徒が仕掛けた罠に巻き込まれ、彼がヘルムートを助けようとしたことを、アリシアは知っていた。
(この状態で、大会に出場するつもりなの?)
アリシアは息を整え、静かに言葉を紡ぐ。
「大会には出場しなくても……私は……」
その一言に、ラウレンツの表情がわずかに曇った。
そして、その言葉が食堂内に思わぬ波紋を広げる。
「……今の聞いたか?」
「アリシア様が、ラウレンツ様に大会へ出るなと……?」
周囲の貴族生徒たちが一斉にざわめき、静かだった空気が一変した。
アリシアの意図を知らぬまま、その一言だけが独り歩きし、勝手な解釈が飛び交い始める。
「まさか……ヘルムートに勝てないと判断したのか?」
「いや、ラウレンツ様が敗北するなんてありえないだろう」
「だが、アリシア様がそうおっしゃるなら……」
不穏なささやきが、貴族席のあちこちで交わされる。
アリシアがラウレンツの敗北を示唆した——そう思い込んだ貴族たちは、衝撃を隠せない様子だった。
「なんてことだ……!」
「まさか、ラウレンツ様にあえて戦うなと?」
クラリスは、二人のやり取りを眺めながら、困ったようでありながらも、どこか楽しげな笑みを浮かべ、優雅にティーカップを傾けた。
騒然とする貴族席とは対照的に、クラリスの態度には達観した余裕があった。
しかし、ラウレンツにはクラリスの余裕など届いていなかった。
彼は、真剣な眼差しのままアリシアを見据え、静かに口を開く。
「……つまり、私にはその資格がない、と?」
「……何の話?」
アリシアは怪訝な表情を浮かべるが、ラウレンツの目は彼女の意図をすでに違う方向に解釈していた。
彼の中で、勝手に「アリシアが自分を見限った」という結論が出来上がり、それに対する答えを出していた。
ラウレンツは深く息をつき、静かに宣言する。
「ならば、勝利を捧げる相手を変えよう」
アリシアの眉がわずかに動く。
「……何?」
「エレーナ、君を学園祭の舞踏会へエスコートさせてもらえないか?」
「えっ!? わ、私!?」
エレーナは瞳をパチクリさせ、アリシアとラウレンツの顔を交互に見比べる。そして、状況を飲み込む間もなく、食堂内が一気にざわめいた。
「ラウレンツ様が……エレーナを!?」
「まさか、平民をエスコートに!?」
動揺した貴族生徒たちの声が次々と飛び交い、ざわめきは瞬く間に広がっていく。
クラリスは、目の前のやり取りを眺めながら、肩をすくめた。
「これは……面白くなってきたわね」
優雅にカップの縁に指を添えながら、静かに事の成り行きを見守る。
一方、アリシアは口を開きかけたまま固まっていた。
(ちょっと待って……なんでこうなったの?)
冷静に話そうとしただけなのに、ラウルは勝手に誤解し、決断し、そしてエレーナに申し込んでしまった。
まるで、彼女がラウレンツを拒絶したかのような流れに——。
彼女のクールな対応が、思わぬ事態を引き起こしていた。
食堂内がざわめきに包まれる中、クラリスは静かに目を細め、微笑む。
(ふふ……。さて、この騒ぎはどこまで発展するのかしら?)
アリシアは、ラウレンツに「大会に出なくてもエスコートは受ける」と伝えたかっただけ。しかし、彼の誤解が思わぬ波紋を呼び、騒動の幕が上がってしまいました。このすれ違いの行方はいかに——。