28.レクリエーション(※命がけ)
――場が静まった。
大樹紋の紋が、カトリーヌの肌からゆっくりと沈んでいく。
イグナーツがそっと剣を下ろし、ヘルムートがぐらりと膝を折る。
その間に立っていたエレーナは、微笑みを崩さず、全員の顔をゆっくり見渡した。
「……よかった。無事で、ほんと、よかった……っ」
その一言が、合図のようだった。
ふっと、膝が抜ける。エレーナの肩が震え、片手で口元を覆う。
そして――
「っ……うぅ……よかった、ほんとに、よかったぁ……っ」
涙が、ぽろぽろと零れた。
さっきまで張っていた声は、今やどこにもない。
堰を切ったように、嗚咽があふれる。崩れるように地面にしゃがみ込み、顔を手で隠す。
「だって、だって……ほんとに、死んじゃうかと思ったんだから……っ」
ヘルムートも、イグナーツも、カトリーヌも、その姿を見て言葉を失う。
ただ、エレーナの泣き声だけが、訓練場の夕暮れに滲んでいった。
彼女の肩に、風がそっと吹いた。
――誰よりも、あの場で“命を繋げた”のは、
この、弱さを晒した少女だったのかもしれない。
小さな嗚咽が、訓練場に響く。
誰もすぐには近づかなかった。
ただ――
カトリーヌがふと、静かに視線を横にずらした。
その目が、ヘルムートを一度だけ見た。
言葉はない。だが、それだけで“言いたいこと”は十分に伝わる。
(……あの子に、何かしなさいな)
ヘルムートは、戸惑った。
ポケットに手を差し込む。ない。
胸元も、ズボンの脇も――ない。
ふと顔を上げると、カトリーヌが絶望したような表情で天を仰ぎ、手のひらを額に当てていた。
――まるで、「これだから男どもは……」と言いたげに。
それでもヘルムートは、整備袋をごそごそと漁る。
出てきたのは、作業用のタオル地。油汚れはついていない。清潔な角を選んで、彼は静かに歩み寄った。
「……これでよければ」
そう言って、タオルを差し出す。
エレーナが顔を上げた時、その目には涙の跡が残っていた。
けれど、その奥にある“芯”は、少しも崩れていない。
「……ありがと」
言葉は短く、でもしっかりと受け取られた。
そして――空気がやわらいだことを察してか、カトリーヌがすっと立ち上がる。
破れかけたスカートを直し、両手を広げて芝居がかった声で言った。
「……少し、遊びが過ぎましたわねぇ。あれです、レクリエーションです、レクリエーション♪」
腰をひねって軽くスカートを払うと、スッと一礼。
けれどその仕草の隙間から、視線だけが鋭く、エレーナの様子を探っていた。
「アリシア様には……その、内緒にしていただけると、助かりますわ。ね?」
エレーナはタオルで目元を押さえながら、じっと彼女を睨み返した。
「……誰にも言わないけど、私の寿命は確実に縮みましたからね?」
「まあまあ、乙女の心臓は鍛えてこそ……ですわよ? ふふ」
カトリーヌが笑いながら口元を隠す。だが、その首筋にはうっすらと大樹紋が残っていた。
まだ、熱が冷めきっていないのだ。
その横で、イグナーツが肩をすくめる。
いつものように、片腕で剣の柄を支えながら、視線だけを細める。
怒りではない。けれど、それは“黙して責を引き受ける者”のまなざしだった。
「……たぶん、俺の方が縮みましたよ」
ぽつりとヘルムートが呟く。
エレーナが、ふっと笑った。
その笑顔には、さっきまでの涙と、そしてそれを受け止めた強さが宿っていた。
カトリーヌは、微笑みをそのまま残して踵を返す。
結び直された白いエプロンの裾が、ふわりと風に揺れた。
歩みは軽く、けれど背筋はまっすぐに伸びている。
戦いの余熱をまとうように、彼女の足取りには、まだどこか“戦場の気配”が残っていた。
ヘルムートが、数歩遅れてその背を見送る。
「……ありがとうございました」
声は小さいが、まっすぐに響いていた。
カトリーヌは振り返らなかった。
ただ、右手をそっと横に上げて、手のひらを一度だけ――
ひらりと、払うように振る。
「ご無礼を」
その一言だけが、風に溶けて残った。
彼女の背中はやがて訓練場の暗がりに吸い込まれ、
白い茶葉の香りが、わずかに空気に漂い消えた。
しばらくして、イグナーツがぼそりと呟いた。
「……あれでも、“抑えて”たんだ。分かるか?」
ヘルムートは、うっすらと息を吐く。
「……でしょうね。エプロンで、あれですからね」
ぽつりと続ける。
「本気のときは……どこまで脱いでるんですかね、あの人」
静寂。
そして、隣から――
「ちょっと!」
エレーナが慌てて小声で突っ込んだ。
「アリシア様の前で言ったら、怒るからね! そういうの!」
ヘルムートは肩をすくめ、口元をゆるめた。
「冗談だよ……たぶん」
次の瞬間、イグナーツとエレーナが同時にヘルムートを小突く。
三人の間に、思わず苦笑が零れた。
ほんのひととき。
張りつめていた空気が、ふっと緩んだ。




