27. 止めに入っただけなのに、場の空気が全部こっちに来ました
伸ばした腕のまま、エレーナは一度だけ唇を噛んだ。
指先が震えかける。
それを、動かさずに留める。
空気を押しとどめているはずの腕が、わずかに重く、呼吸が浅くなっているのを自分でも感じた。
鼓動が大きくなり、胸元でリボンの結び目が、かすかに揺れた気がした。
押さえようとして、逆に手を離してしまう。
緊張すると、いつもこうだ。
目を伏せれば、逃げになる。
逸らせば、場はまた動き出すだろう。
エレーナは、視線を上げた。
最初に映ったのはヘルムートで、
声をかけた瞬間に視線が合い、すぐに離れた。
彼は腰をわずかに落とし、焦げた木剣を握り直していた。
「……おい、おい」
低く漏れた声。
それが誰に向けられたものなのかは、分からない。
勝った顔でも、負けた顔でもない。
苦さだけを無理に貼りつけたような笑み。
その様子を見て、エレーナは喉の奥に言葉を留めた。
――違う。
今、向き合うべき相手は。
視線を横に滑らせると、白い指先と、穏やかすぎる笑みがそこにあった。
カトリーヌ。
首筋の紋は、まだ完全には眠っていない。
愉悦の名残が、薄く皮膚の下に滲んでいるのが見て取れた。
それを確かめてから、エレーナは息を吸う。
深く――胸の奥へ、言葉を沈めるために。
「……勝ち負けの話をするなら」
声が零れた瞬間、自分でも驚くほど静かだった。
震えは、喉の奥で押し留められている。
「それは、最後まで……殴り合った後で、いいと思います」
言葉の余韻に、風が触れた。
栗色の髪が揺れ、頬にかかる。
そのまま視線を、もう一度ヘルムートへ向けた。
願うというより、確かめるように。
「あなたは……」
名前を呼びそうになって、飲み込む。
ここでは、まだ。
「勝ちに行ったわけじゃ……ないですよね。
ただ、応えたかっただけ」
口角を上げようとして、途中で止める。
それが笑みになったのかどうか、自分でも分からなかった。
「それで……十分です」
ヘルムートの指が、木剣の柄を握り直す。
乾いた音が鳴ったのは、力を込めたからではない。
彼の視線が、ほんの一瞬だけ伏せられた。
――届いた。
その反応を胸に留めたまま、エレーナはゆっくりと視線を横へ移す。
次に向き合うべき相手は、もう決まっていた。
カトリーヌ。
「あなたも……」
声の高さを、ほんのわずかに落とす。
「相手を倒すだけなら、
あの瞬間で、もう終わっていました」
最後の光が沈み、
大空に残った黄金が、ゆっくりと深蒼へ滲んでいく。
「それでも、続けたのは……
彼が、前に出てきたから。違いますか」
カトリーヌの睫毛が影を落とし、
その影が、わずかに揺れた。
そして――
すぐに、笑みが戻る。
「……まあ」
愉しげな吐息。
否定は、しない。
エレーナは、その隙に息を吐いた。
胸に溜めていたものが、軽くなる。
「だから……」
腕は、まだ下ろさない。
「ここで勝ち負けを決めてしまうと」
「お二人が、今……確かめたものが、なくなってしまいます」
言葉の最後に、力を込める。
「終わりにする、というより。
……結び目を、ここで作りたいんです」
沈黙。
木剣が、わずかに下がる音。
「……君は」
言葉が切れる。
「そこまで……見たんだな」
エレーナは、思わず視線を逸らす。
鼓動が跳ねるのを、胸の奥で押さえた。
「……見てました」
小さく。
でも、誤魔化さず。
カトリーヌが、その様子を眺めて、くすりと笑う。
「ふふ……面白くて、つい幕を下ろしそうになりましたわ」
頬の大樹紋が、ゆっくりと解けて引いていく。
淡く残っていた熱が、皮膚の内側で名残を主張する。
指先で、軽く仰ぐ。
「今は、アントラクト。
次の幕は……あなたの番ですものね」
言い終えた途端、カトリーヌは小さく息を吐いた。
首元に指をかけ、襟をわずかに広げる。
「……ふぅ」
熱を逃がすように、指先で軽く仰ぐ。
その仕草はどこか気取らず、戦いの余韻を素直に残していた。
「若いのに……嫌いじゃありませんわ」
肩をすくめると、体の力が少し抜ける。
エレーナは、ようやく腕を下ろした。
下げた指先に、ゆっくりと血が戻ってくる。
痺れの感覚と、訓練場の匂い。
遅れて、音が輪郭を取り戻す。
——ああ。
ここに、戻れた。
エレーナは、思わず小さく息を吐く。
胸の奥で張りつめていたものが、ほどけていく。
肩の力が抜けて、視界が、ほんの少しだけ滲んだ。
……まずい。
今、ここで――
ちゃんと立っていられる気が、しない。




