1.貴族の娘としての、平凡な朝
——これは、私にとっての最後の学園の日々。
しかし、そのことを私はまだ知らない。
視界が、白に染まる——まるで、何かを覆い隠すように。
瞬きすると、光の輪郭がぼやけ、ゆっくりと世界が形を取り戻していく。
柔らかな白い光が、カーテン越しに滲み、静かな朝の部屋を包み込んでいた。
「お嬢様……」
耳元で、優しく、穏やかな声がする。
アリシア・フォン・ルーンは、銀の髪を枕に広げたまま、微かに瞬きをした。
琥珀色の瞳がゆっくりと開かれると、ふわりとしたシーツの感触が肌に心地よかった。
彼女がいるのは、セレスティア王立学園の貴族寮の一室。
侯爵家の令嬢に相応しいこの部屋は、広々としており、朝の光を受けて静かに輝いていた。
高い天井には、繊細な彫刻が施されたシャンデリアが吊るされている。
壁には淡い金色の装飾が巡らされ、窓際には分厚い絨毯が敷かれていた。
調度品はすべて上質なものばかりで、特に大理石のテーブルには、侯爵家から送られた銀細工のティーセットが並んでいる。
しかし、それらを見慣れたアリシアは、ただ当たり前のものとしてしか認識していなかった。
そんな中で、目の前に立つカトリーヌ・ミルフォードの存在だけが、唯一の温もりを感じさせた。
「おはようございます、お嬢様」
栗色の髪を後ろでまとめたメイドが、優しく微笑んでいる。
淡い緑の瞳が柔らかに細められ、穏やかな光を湛えていた。
「朝食の時間ですよ」
アリシアは、ふっと小さく息をつくと、シーツに顔を埋めた。
「……もう少し」
小さく呟いた声は、わずかに甘えた響きを帯びていた。
カトリーヌはくすりと笑い、ベッドにそっと腰を下ろす。
「お嬢様? そんなことを言っていては、朝食の時間が終わってしまいますよ」
「……今日くらい、いいじゃない」
「それはお嬢様らしくありませんね」
カトリーヌはそう言いながら、銀の髪をそっと撫でた。
「厨房の方が、お嬢様のお好きなハニーフルーツを添えた朝食をご用意しているそうですよ」
アリシアの指が、ピクリと動いた。
一瞬——本当に一瞬だけ、琥珀色の瞳がぱっと輝く。
「……本当?」
言葉がこぼれるより早く、シーツの上に手をついて、わずかに体を起こしかける。
しかし、次の瞬間、自分の反応に気づき、ハッとして動きを止めた。
慌てたように、ふわりと掛け布を引き寄せ、顔を覆うように隠してしまう。
「……別に、それが食べたいわけじゃないわ。ただ……その、厨房の者たちが気を利かせたのなら、無駄にはできないだけよ」
掛け布の奥から、ぼそぼそと聞こえる声。
カトリーヌは、その様子にくすりと微笑んだ。
「ええ、お嬢様。では、朝食へ参りましょう」
シルクの布の山は、ピクリとも動かない。
「……お嬢様?」
「今、準備してるの」
微かに震える声が、掛け布の中からこもって聞こえた。
カトリーヌは微笑を深めながら、静かに待った。
アリシアがようやくシーツから顔を出し、身支度を始めると、カトリーヌは窓際へと歩いた。
カーテンを開き、朝の光を部屋に取り込む。
柔らかな風が、ふわりとカトリーヌの栗色の髪を揺らした。
アリシアが髪を整えながら、ちらりと彼女の横顔を盗み見る。
「……何よ、その顔」
カトリーヌは静かに微笑んでいた。
まるで、何かを思い出すように、優しく、どこか懐かしさを帯びた表情で。
そして——
「お嬢様……私は、いつまでも一緒ですよ」
アリシアの動きが、一瞬だけ止まる。
「……急に、どうしたの?」
「いえ」
カトリーヌは変わらぬ微笑みを浮かべたまま、アリシアの銀の髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でた。
「お嬢様は、いつも強くあろうとされますから」
「……」
アリシアは、何かを言いかけて口を閉じる。
外から小鳥のさえずりが微かに聞こえ、カーテンの隙間から差し込む光がゆっくりと揺れた。
カトリーヌの瞳が、ふと扉の方へ向けられた。
深みのある木目が走る、艶やかな扉。
磨き込まれた表面には、朝の光が静かに反射している。
しかし——扉の向こうの空気は、わずかに揺れていた。
誰かが、そこにいる。
扉越しに感じる気配。
遠慮がちではあるが、どこか弾むような雰囲気を帯びた”何か”。
カトリーヌは、一瞬だけ思案するように目を細めた。
プロローグからの、学園編です
アリシアの風呂敷を広げすぎるとどんな感じになるか、ハラハラしています