14.閉場後、試験構文が発火した件——おまけの六分間に、僕らは全力を込めた
魔術は、“意志を形にするための構文”だと教わった。
意志があっても、形がなければ世界には届かない。
だから、術者は構文を組み、波形を整え、魔力の流れを制御する。
効率も、再現性も、必要だ。
だけど、それだけじゃ足りない。
どれだけ理論が整っていても、
ほんの少し、感情が揺れただけで術は歪む。
逆にいえば、術式は――
組んだ人の“今の心”を、容赦なく映し出してしまうものなのかもしれない。
だから私は、魔術を使う人を、尊敬している。
成功した術式だけじゃない。
崩れてしまった構文にも、
そこに“その人の想い”があれば、ちゃんと意味があると思ってる。
……今日、ある生徒たちが閉場の後に、
誰にも知られない構文を、空に放った。
あれが成功だったのか、誰が記録したのか、私には分からない。
でも、魔術ってそういうものなんじゃないかな。
世界を変える力じゃなくて、
その人の“在り方”が、そっと刻まれる構文。
そんな魔術を、私は信じてる。
西側訓練場の空は、夕陽にゆっくりと染まりはじめていた。
石畳の上、魔力の残痕が風にさらわれるそばから、新たな準備が繰り返されている。閉鎖時間にはまだ少しあるが、整備エリアからは「板三、次!」「締めが甘いぞ!」と声が飛び交い、金属音があちこちで鳴っていた。
“帰れ”とは言われていない。だがあの音は、「そろそろ片付けてくださいね」とでも言いたげな、無言の合図だった。
「ユリウス、la8、接続どう!? 干渉してない!?」
「してるかもしれないけど、もう流し始めた! 止めたら、点火からやり直しだぞ……!」
「やり直したくない! ていうか、これ、私のせいになったら絶対イヤだから!」
チョークで描いた輪と矢印が、三人の足元に幾重にも交差している。
魔力を通す前の、予定線――構文の展開予測を地面に描いたものだ。余裕はもうない。試行回数も、護符も、そして時間も。
「ヴィル! そっちの立ち位置、三歩下がってって言ったよね!?」
「君の“歩幅基準”に合わせるのが、そもそも無理あると思わない?」
「はいはーい、あとで反省会やります! いまは集中!」
三人の声が交錯する。次の瞬間、背後から低く乾いた声が飛んだ。
「……なあ、お前ら」
振り返った三人の前に、整備道具を肩にかけたヘルムート・クロイツが立っていた。
片手を軽く挙げ、やれやれと肩をすくめる。
「財布の中、確認しとけよ。これ、あと少しで夜間料金になる」
その一言で、場の空気が止まった。
誰かが呑み込んだ息が、空気に引っかかる。
「ま、まだ時の鐘、鳴ってない……!」
──その瞬間、遠くで鐘が鳴った。
ゴーン……..ゴーン…..
それは、学院が定めた“時の鐘”。
だが生徒たちは知っている。この音が鳴れば、夜間使用の申請がなければ強制終了だと。
「でも……! あと一回だけでいいから……!」
マルグリットが叫んだ。目を見開き、息を詰めたまま、護符を胸に抱える。
「最後の通し。これ逃したら、もう調整できない。お願い、お願いっ……!」
ユリウスも視線だけで同意を示し、ヴィルヘルムは何も言わず頷いた。
ヘルムートは整備エリアのほうにちらりと目をやる。
作業の手を止めていた整備士たちの中、管理整備士が片手を挙げた。
「そっちは、お前と俺で片付ける。……残りは任せとけ」
「了解。6分だけ。……それ以上は俺の首が飛ぶ」
そう言って、ヘルムートは工具袋を下ろした。
そのときだった。空気が変わった。
マルグリットが護符を掲げ、三人が同時に息を合わせる。合図は要らない。もう何度も繰り返した手順だ。
「主軸ライン、通過中。……構文、展開する!」
空の一角に、細くまっすぐな光が立ち上がる。
それは煌めきではなかった。演出を削ぎ落とし、構文の“骨”だけを記録する、無装飾の発火だった。
光が旋回し、枝分かれし、再び交差する。空中に描かれるのは、幾何の輪郭。
それは細く、静かに――けれど確かに空を編み始めていた。
「……可能。パターン固定、la5通す」
マルグリットが目を凝らし、確認の声を上げる。
「la6、補助構文、同時点火。マル、視覚補正要る?」
「ヴィル、足元注意! 斜めの起動ライン、踏まないで! ──いける、次!」
ヴィルヘルムがそっと位置をずらす。構文の光が、彼の靴の縁をかすめて流れた。
「la7、準備完了。ユリウス、回転起動どう?」
「すでに開始。la7からla8、回転軸と連動してる」
ピシッ、と宙で火花が弾ける。構文の交点が交差し、薄く音を立てた。
だが誰も騒がない。呼吸すら削るようにして、動きは続く。
「la8、発色確認!」
「青寄り、正常。形状も指定通り。ユリウス、続行」
「la9、あと二層。密度は?」
「均等。詰まりなし。ヴィル、出力そのまま、予備はまだ使わない」
空を這うように広がる線の群れが、やがて天幕のような網を描いていく。
その端で、外套を揺らす一人の男が見上げていた。
イグナーツ。元王国騎士団の副指揮官だった魔術講師。残された片腕を顎に当て、黙って構文の軌道を追う。
「……面白い作り方をするな」
その独白に、整備士たちの何人かも空を見上げた。
「最終接続、la10。通れば……完成する」
ユリウスが息を止める。手元のノートに走る文字が、線を補足していく。
「──行こう。ここが山だ」
声は抑えめだったが、その奥に確かな熱が宿っていた。
その瞬間、構文全体がわずかに脈を打つ。
淡い光が、訓練場の空ににじみ出す。
──シュウッ……
直線だった光の骨組みが歪み、回転しながら枝分かれする。
幾何の軌道がねじれ、複雑に絡まり、やがて輪の連なりとなって空を埋めていく。
「構文密度、C6。最終ラベル接続、E8、F3、G1……展開、入った!」
マルグリットの声が急く。
その目は既に、次のラベルを追っていた。
「回転比、正常。斜軸、整列中……ラベルG3、構造認識!」
ユリウスの声が追いつく。だが構文は、もはや手順を超えて“空間の律”として膨張していた。
無数の細い光が、空を這うように走り、重なり、連なり、
訓練場を覆う網のような天幕を成していく。
──パラ……パラ……
その一部が、粒のように崩れはじめた。
糸のような構文が、複雑な重なりからふっと剥がれ、
光の粒へと変わって宙を舞い始める。
「……星屑化、早い。ユリウス、制御域、残り5層!」
「見てる! G5、H2、I1……層内安定、まだ保てる!」
どこかの整備士が、作業の手を止めた。
「……なんだ、あれ……」
誰かがつぶやいた。
その声に応じるように、数人の首が空へと向けられる。
透明な軌道が、天に浮かぶ設計図のように輝いていた。
発火構文――ただの試験のはずなのに、その光に、誰もが言葉を失っていた。
「マル、次の層ラベル、Jラインまでいけるか?」
「確認中。Gラインが飽和気味……でもまだいける。精度、保ってる!」
ユリウスが短く息を吸い、構文全体の膨張を見つめる。
その瞬間。
──ピン。
糸を弾いたような、鋭く、小さな音が響いた。
「……今の、何?」
マルグリットが息を詰めた———
構文線が、わずかに震える。
時を知らせる鐘は、五分間鳴り響く。
その音は、今も静かに空気を震わせている。
——なのに、全員の心拍は、もう限界まで追い詰められていた。