12.あなたが歩き出すのを、ちょっとだけ待っていただけ
いつからか、誰かのために言葉を選ぶようになった。
けれど、それがほんとうに届いているのか、ずっと確信が持てなかった。
でも、あのとき。
笑いあえた空気があって。
エレーナが、まっすぐに想いをつないでくれた。
ほんの少しだけ、声をかけてみようと思った。
立ち止まっている誰かに、問いかけてみようと思った。
それでも届かないなら、それはそれでいい。
――けれど、もし、彼が動き出せるのなら。
そのときはもう、“隣にいる”だけで、きっと十分なのだと思う。
中庭の片隅に置かれた木のベンチは、葉の陰に静かに埋もれていた。
「少し、座りませんか。……話しづらいこともあるでしょうし」
ラウレンツが静かに促すと、アリシアは一瞬だけ目を細めてから、うなずいた。
二人きりの空気。
それは、緊張ではなく、重みを伴う静けさだった。
ベンチに並んで腰掛けると、アリシアはそっと顔を向けた。
「……その腕。もう痛みは?」
アリシアの問いは、やさしい声音だった。けれど、逃げ場のないほど真っすぐに。
ラウレンツは短く息を吐き、右の袖をめくった。
包帯の下からは、沈み込むような痣と、未癒の術式痕があらわになる。
皮膚の色はまだらに濃く、完全な治癒には届いていないと見てとれた。
「自分で組んだ構文です。とりあえず“保たせる”ことはできました。……治癒には届いていませんが」
アリシアは黙って、それを見つめた。
目を逸らすことなく、ただ静かに、そこにある痛みを受け止めるように。
やがて、ラウレンツは自ら語り始めた。
父の変節と、王族派との関係。
学園内で起きた事件と、ヘルムートを貶めるために仕掛けられた罠。
巻き込まれた生徒を救うために手を伸ばし、負ったこの傷のこと――。
言葉は簡潔だったが、真実はそこにすべて込められていた。
アリシアは、何も言わず、最後まで聞いた。
途中で頷くことも、表情を動かすこともない。
ただ、その沈黙がすべてを受け止めていた。
やがて、アリシアは懐から護符を取り出した。
翡翠色の紋が刻まれた、治癒の護符。小さな光が脈を打つように揺れている。
「大会での使用に抵触しないよう、構文は調整してあります。
干渉値も低く抑えてありますし、補助判定には引っかかりません。
……もちろん、ヘルムート様にとって不利になる要素も含んでいません」
ラウレンツは一瞬黙り、それから、わずかに眉を下げて苦笑した。
「……そこまで気を遣っていただけるとは。ありがたい話です」
「彼は、“勝って証明する”って、言ってましたものね。」
さらりと返され、ラウレンツの肩がわずかに揺れる。
「……まったく。そういうところ、ずるいですよね。あいつ」
ふと、小さく笑いが混じる。
静かで、けれど確かな信頼の滲む空気。
アリシアは、護符をそっと差し出したまま、ふいに言った。
「……たぶん、ヘルムート様は、立ち止まっているあなたを――どうにかしたいんだと思います。
でも、それでも“勝つ”って言ったのは、あなたがどう動くかを信じたからじゃないですか?」
「もし、いまここで動けるなら……その言葉に、応えられると思いませんか?」
ラウレンツは、その言葉に答えず、護符を見つめた。
その沈黙の中、胸の奥から、いくつかの記憶が浮かんでくる。
グレゴールの静かな声。
──誰かに引きずられるか、何かに反発するか……どっちにしても、自分の足じゃない。
エレーナのまっすぐな目。
──本当は、自分で立ち上がる人を見ていたいだけかもしれません。
ヘルムートの、奮い立つ宣言。
──これは礼じゃない。俺は、勝つ。それが“あの時の礼”だ。
それぞれの声が、今までと違って響いてくる。
何かを示していたのではなく――ずっと、自分に問いかけていたのだと。
ラウレンツは、静かに息を吸った。
「……逃げてたんだと思います。
傍観していれば、自分はきれいなままでいられるって、どこかで思っていた」
言葉を噛み締めるように、ゆっくりと続ける。
「でもそれじゃ、誰も守れない。何も変わらない。
今のままじゃ、あの家の重さからも、私自身の影からも、逃げ続けるだけです」
アリシアは、そっと視線を向けた。何も言わず、ただ見つめている。
ラウレンツは、その視線を正面から受け止め、ゆっくりと護符に手を伸ばす。
「借ります。……歩きたいと思います。自分の足で。
たとえ、あの舞台に立つことが――家の名と向き合うことでも。
今度は、剣を抜く理由を、自分で選びます」
護符に触れた瞬間、静かな光がふわりと浮かび上がる。
痣の周囲に、複数の構文が輪を描くように展開されていく。
まるで層を重ねるように、細やかな術式が次々と重なり――やがて、淡い光が患部を包み込んだ。
傷そのものは変わらない。
けれど、深く刺さっていた痛みが、ほんの少しだけ和らいでいくのがわかる。
けれど、それ以上に――彼の“迷い”が、今まさに剥がれていくのが伝わった。
「……不思議です。
私は、ずっと誰にも頼りたくなかったのに。今は――」
「……頼っても、いいと?」
アリシアの声は淡かった。
けれど、その問いの奥には、言葉にできない重みがあった。
ラウレンツはまっすぐにうなずく。
「ええ。ようやく、そう思えました」
アリシアはふっと目を細めた。
微笑みではない。けれど、確かに空気が少しだけ、やわらかくなった。
護符に残るぬくもりを、指先でそっとたしかめる。
その頬に、午後の光がわずかに滲んでいた。