11.ちょっと待って、メイドですよ。
―ときめき、ですか?
ふふ、まさか。
……ただの、胸の熱感です。少し、驚いただけ。
あれは“情緒の乱れ”というもので、決して“感情の高ぶり”では――
でも、そうですね。少しだけ、笑ってしまいました。
こんなふうに笑える時間が、また来るなんて。
――ほんの少し、思っていたよりも、嬉しかったのかもしれません。
午後の陽を浴びながら、カトリーヌとグレゴールは芝の外れ、木陰の下に立っていた。
その位置からは、アリシアたちの様子がよく見える。だが、彼らの気配は風に溶け、誰の注意も引かない。
「……講堂の西側、また“調整”が入ったそうですね。審問会用に」
グレゴールが何気なくつぶやいた。視線は木々の先、学園の奥をかすめる。
「ええ。王族派の審官が一名、“視察”と称して先行で入ってきたと。
ヘルムート様の“薬草庫事件”と、今回の騒動を――別件で繋げるつもりなのでしょうね」
カトリーヌは胸元で静かに腕を組みながら、遠くのアリシアたちに目を細めた。
「ラウレンツ様も“関係者”ですから。……ウェステリア家は今、王族派に擦り寄っている。
その内側から、揺さぶってくる可能性もあるわ」
「……“あの貴族”の名も、そろそろ聞こえてきましたよ。あまり表には出ませんが」
「噂のまま終わるとは、思っておりません」
カトリーヌは、淡く微笑んだまま、声の温度だけを冷やした。
「けれど――主の平穏を乱す意図があるのなら、それが誰の策であれ、跳ね除けてみせます」
その瞬間、芝越しに、楽しげな声が微かに届いてくる。
カトリーヌは目を細め、わずかに頬を緩ませる。
「……だからこそ、あの笑顔の一瞬を護ることに、意味があるのです」
隣のグレゴールが、軽く息を吐いて肩をすくめた。
「心得ましたよ。背中は任せてください、ルーン家のメイド殿。
……前は、そっちにお任せしますんで」
「軽口を叩くのは構いませんが、背中は綺麗にしておいてくださいな。斬るのは惜しいので」
くすりと笑みを浮かべながら、カトリーヌは背を向ける。
そのまま一歩、芝を踏む音すら吸い込むように静かに歩き出し――
振り返らずに、片腕をすっと上げた。
“よろしく頼みますよ”とでも言うように。
グレゴールは小さく鼻を鳴らし、その背に向けて片手を軽く上げて応える。
芝の向こうから、三人の笑い声が柔らかく届いてきた。
カトリーヌは足を止めることなく、その空気を遠くから確かめる。
硬さの取れた声、息継ぎのような沈黙、そして――心からの笑い。
芝に沈んでいく足音は、アリシアたちの談笑を乱さぬように抑えられていた。
そして、自然な流れのなかで、カトリーヌの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
やがて、足を止める。
そして、やわらかく、けれどしっかりと声をかけた
「エレーナ嬢。そろそろ、ヘルムート様が試合場での労務を終えられ、鍛錬に戻られる頃ではなくて?」
「えっ……ええ!? もうそんな時間ですか!?」
エレーナの肩が跳ねた瞬間、カトリーヌはさらに一歩進み出る。
視線は一度アリシアたちに残しつつも、声のやわらかさはエレーナへと向けられていた。
「タイミングを外すには、惜しいお相手ですもの。私もちょうど、気持ちばかりの差し入れを届けようと思っておりました」
ふと、視線を戻して、微笑のまま口調を少し落とす。
「……アリシア様の静かな背中を、遮るわけにはいきませんわ。エレーナ嬢、手を貸していただけるかしら?」
「……うぅ、タイミング完璧すぎるんですよ、ほんと……」
渋々としながらも、エレーナは差し出されたカトリーヌの手をしっかりと取った。
「では、アリシア様。少しの間、お嬢様をお借りします」
視線をすっとラウレンツへと移し、悪戯めいたやわらかい声で続けた。
「……後のこと、ラウレンツ様にお任せしても?」
その声音には、どこか含みのある優しさが滲んでいた。
カトリーヌは、二人の間に生まれた静かな空気を壊さぬよう、そっと一歩だけ下がった。
芝の上に控えるように立ち、軽く会釈する。
そして、エレーナの手を引いて歩き出そうとしたそのとき――
エレーナがふいに、くるりと振り返る。
「そうだ、ラウレンツ様――」
エレーナは歩き出しかけた足を少しだけ止め、振り返る。
そして、真っ直ぐラウレンツを見て、静かに、けれどあたたかな声音で言った。
「ヘルムート、言ってましたよね。“勝って礼を返す”って。……あの人、本気になると、止まらないんです。たとえ自分が犠牲になっても、他人のためなら平気で突っ走るところがあって……」
「……かもしれないな」
ラウレンツの言葉は短く、けれど深く頷くような響きだった。
エレーナは小さく目を細めて、言葉を継いだ。
「だから、どうか勝敗だけで受け取らないでください。彼が伝えたかったこと――ちゃんと、見てあげてください」
そこでふっと口調を崩し、軽く笑う。
「……たまに、想像を超えるくらいまっすぐで、笑っちゃうかもしれませんけど」
ラウレンツは、その一言にわずかに口元を緩めた。
エレーナは満足げにうなずくと、今度こそくるりと背を向けた。
カトリーヌに続いて歩き出す――と思った矢先、
「わっ、待ってくださいよ、カトリーヌさん! 一人で先に行かないでくださいってば!」
小走り気味に追いつきながら、声を上げる。
カトリーヌは振り返らず、肩だけで笑ったような気配を見せた。
芝の上を踏む足音は、風に溶け、やがて聞こえなくなる。
残された二人のあいだに、静かな余韻が降りた。
彼女の言葉が、まだ空気の中で揺れている。
――想像の外。
そこに届こうとした、まっすぐな意思。
アリシアがそっと視線を上げた。
ラウレンツのほうへと、言葉ではなく、問いかけるように——。




