9.黙ってるつもりだったのに、バレました
沈黙は、正しかったと思っていた。
言葉にしなければ、誰も傷つけない――そう信じていた。
でも、それで誰かが迷ったのなら。
遠くから見ているだけじゃ、もう足りないのかもしれない。
だから私は、ここに来た。
彼の目を、まっすぐに見て、立つために。
(場を作ってくれて、感謝するわ)
カトリーヌはそっと視線を送り、メイド服のまま、騎士の礼を示す小さな仕草を見せた。
視線の先――ラウレンツの隣で控えるように立つグレゴールが、それを受け止めるように小さく頷く。
互いに言葉はない。ただ、それだけで十分だった。
カトリーヌの隣に立つ二人の少女。
アリシアと、エレーナ。
午後の陽を背に、三人は静かにラウレンツのもとへ歩みを進めていた。
そのなかで、ただ一人――アリシアが際立っていた。
冷静で、無表情。
ラウレンツの胸に、かすかな棘が刺さる。
――あれは、拒絶の顔だ。
舞踏会の申し出に、彼女から“戦えない者”として見限られたのではなかったか。
あのときの沈黙が、父の声と重なった――「無様な真似はするな」と。
「……どうして」
思わず、声が漏れていた。
そのとき、アリシアが一歩、芝を踏み出す。
そして、深く礼をした。
「こんにちは、ラウレンツ・フォン・ウェステリア様」
過不足のない完璧な礼節。
温度も抑揚もなく、洗練されすぎた所作――その“整いすぎた距離”に、ラウレンツは息を詰めた。
「……なぜ、君がここに?」
「来るべきだと思ったから」
表情も変えず、アリシアはそう返した。
「……私は、誰かに会いたくてここにいるわけじゃない」
声は淡々としていた。
けれど、それは強くはねつけるようなものではなく――静かに線を引くような応えだった。
アリシアは目を伏せ、わずかに呼吸を整える。
口元が動きかけ、けれど沈黙を選んだ。
彼が選ぶなら、それを見守る。
アリシアは、一歩、後ろに下がりかけた。
――そのとき。
「あぁ、もう! ラウレンツ様ったら……っ!」
芝が小さく揺れた。
勢いよく踏み出したのは、エレーナだった。
アリシアの腕に、そっと触れながら言う。
「ごめんね、アリシア。でも――ここは、黙っちゃだめなところでしょ?」
アリシアは、目を見開き、咄嗟にエレーナの手首を軽く押しとどめようとするが、止まらない。
「アリシアは、本当は――エスコート、受けるつもりだったんですよ!」
芝を踏み出しながら、エレーナの声が響いた。
「でも……伝え方が、すごく不器用で。だから、誤解が生まれて……」
ラウレンツの肩がわずかに揺れた。
視線が、そっとアリシアへ向く。
彼と目が合ったアリシアは、淡い笑みを浮かべながら目を伏せ、小さく頷いたあと――そっと、静かに首を横に振った。
“あれはもう、大丈夫です”
言葉にはしない。けれど、その仕草は確かにそう伝えていた。
彼女は静かに歩み寄り、エレーナの背にそっと手を添える。
そして、耳元に顔を寄せ、静かに囁いた。
「今は……あなたの想いを、まっすぐに届けてあげて」
エレーナは一瞬だけ目を見開いた。
すぐに、アリシアの手に自分の指を重ね、小さく頷く。
「――それで、ラウレンツ様は、私を誘った。そう、思ってます」
ラウレンツを見つめ、少しだけ視線を伏せる。
「そのときは……戸惑って、嬉しくて、頭が真っ白になって。
舞い上がって、何も考えられなかったんです」
語りかけるように、声の温度がわずかに下がる。
「でも、お茶会のあとで、ようやく気づきました。
本当は――目的が私じゃなかったって」
一拍の静寂。
ポケットに入れていた小さな包みに、そっと指先が触れる。
「……でもね、それでも、私は勝ってほしいと思ったんです。
関わってしまったから。ラウレンツ様が、どう立つのか、知りたくなって」
そう言って、包みを開く。
中から取り出したのは、一枚のハンカチ――
銀糸の術式が刺繍と一体となり、光を受けて淡い文様を描いていた。
「“勝利に導くハンカチ”のつもりで作りました。
ウェステリア家の刺繍も、ちゃんと入ってますよ」
照れを隠すように笑みを浮かべながら、彼を見上げる。
「……君は、本当に不思議な人だ」
ラウレンツはふっと息を吐き、視線を伏せた。
「勝敗の話ではなく、“どう立つか”を見ているなんて――」
その想いが、なぜか、少しだけ胸に刺さった。
「……申し訳ない。私のことで、そんなふうに悩ませてしまって」
エレーナは目を丸くし、それから肩をすくめた。
「もう、謝るのは反則です」
そう言って、そっと包みごと差し出す。
「なら、使ってくださいね。魔術構文は私のものです。
……ちょっと特殊なんです。ちゃんと、あなただけに効くように織り込んでますから」
そして、まっすぐに目を見て続ける。
「……本当は、自分で立ち上がる人を見ていたいだけなのかもしれません。
この護符で背中を押せるなら、それでいいと思ってます」
ラウレンツは、差し出された護符を見つめたまま、しばらく動かなかった。
指先がゆっくりと動き、護符の縁に触れる。
その瞬間――紋が淡く光り、鼓動に似たリズムで脈打ち始めた。
まるで、“選べ”と問いかけてくるかのように。
この構文、ただの支援魔術じゃない。
どこかに、自分の“在り方”を見透かすような制約が編み込まれている……そんな気がした。
エレーナは笑っていた。何も言わず。
けれど彼女は、最初から分かっていたのかもしれない。
――自分がどう立つかで、魔術の意味すら変わるのだと。
その護符が、わずかに熱を帯びていた。
アリシアの沈黙と、エレーナの言葉。
そしてラウレンツの心に灯った、“まだ言葉にならない問い”。




