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扉の向こうに彼女はいる  作者: 円坂 成巳
一章 一人暮らしが始まって
5/10

4 相談

 少し気持ちが落ち着くと、わたしはアパートの隣の家の叔父の家を訪れた。

 外はもう明るく、昨日のことは夢だということにしてしまいたかったが、ドアに挟まった黒髪は、あれが現実だったのだと告げている。

 正直、部屋の苦情を言うような形になってしまい心苦しい思いもあった。

 叔父のおかげで、わたしは格安でこのアパートに住めて助かっているのだから。


 数年前、父の勤めていた小さな建設会社が倒産し、父は名ばかりの役員だったにもかかわらず、連帯保証人の一人になっていた。そのため家計は一気に苦しくなった。妹は来年、専門学校に進学する予定で、その資金も必要だ。

 お金のことは頭では理解していたが、母が紙に収支を書き出して見せてくれたとき、現実の重さを痛感した。

 そんな中で、奨学金を頼りに隣県の大学へ進み、一人暮らしを望んだのは、わたしのわがままだった。けれど寮はなく、アパートを探すしかなかった。そこで母の伝手で叔父に紹介されたのが、この部屋だった。

 だからこそ、迷惑はかけたくなかった。——けれど、昨夜のことをそのままにしておくこともできなかった。


 叔父は、わたしを見るなり、いつもの笑顔を見せたが、「あの、実は、ちょっと部屋のことで話があって」と切り出すと、「ああ、そうかあ。やっぱりだめだったか、ごめんよ」と、まるで、予想できてきたかのような返事が帰ってきたのだった。

 わたしが夜中の体験を話し、米村さんから聞いた話も伝えると、叔父は渋い顔で頷いた。

「実はね、前から同じような相談はあったんだ」

 申し訳なさそうな声だった。

 事件があったという三〇二号室だけでなく、隣の三〇三号室の住人も"夜中に変な音が聞こえる"と訴えたことがあったという。

 叔父は「建物が古いからさ、音や声が変に響いてしまうことはあると思う」と言い訳する。


「わたしの部屋の家賃下げてる理由、事故物件の隣ってだけじゃないですよね」


 思わず声がきつくなった。


「事件のことがネット、事故物件のサイトとかにも取り上げられているみたいで、うちの住人にも騒ぐ人がいてさ。仕方なく建物全体である程度は家賃下げてるんだ」


 叔父は苦笑する。


「あくまでも気持ちの問題だとは思うんだけど」


「わたしの見たもの、勘違いだとは思えません」


 叔父は困ったように視線を落とす。少し強く言いすぎただろうか。


「そうだな……おれも完全にそういうことがあると信じているわけでもないんだが、まあ、あるんだよな。そういうことってさ」


 叔父は、しばらく沈黙して続けた。


「祥子ちゃんも、それから出て行った吉田さんも決して騙そうとかそんなつもりじゃなかったんだ」


「騙すとかそこまで言うつもりはないんですけど、やっぱり事前に聞いておきたかったです」


「まあ、黙っていたのは悪かった。ほんと申し訳ない。ただ、ほんとのところ、もう解決したと思ってたんだ」


「解決?」


「お祓いしてもらって、その後は落ち着いていたんだ。おれも試しに両方の部屋に泊まってみたけど、特におかしなこともなくて。だから、また住人を入れられると思って。それでも、三〇二号と、三〇三号室はさすがに特別に安くしてたんだ」


 お祓い。意外な言葉に息を呑む。


「馬鹿馬鹿しいと思うかもしれんが、いるんだよ。そういう仕事を請け負う拝み屋みたいな人が」


「でも失敗だったということですか」


「まあそうだな。暫くは落ち着いていて、周りの部屋からも苦情がなかったんだけどな。でも再発したってことはそうなんだろうね」


 引っ越しすることも考えていたけれど、引っ越さずにすむならその方がいい。

 現実的に、今は敷金礼金を払う余裕はない。叔父はまけてくれるかもしれないが、そういう頼り方はしたくない。引越しもたいへんだし、この近くで探すと家賃だって今より上がるだろう。お祓いなんて、本当に効くのだろうか――。


「半信半疑ではありますけど、解決するんだったら試してみたいです。お金って……かかりますよね」


「いやいや、さすがにこっちで負担するよ。いずれ解決しないと人に貸せないからね」


「ありがとうございます。お願いします」


 胸の奥が少し軽くなった。拝み屋なんて信じられるかわからないけど、今のわたしには、その曖昧なものに頼るしかなかった。


 午後、大学の図書館でわたしはため息を付いていた。

 午前中の講義はさぼったが、午後の〝教育心理学〟」だけは出席した。内容はほとんど頭に入らなかったけど、脳の錯覚という話題に引っ掛かった。幽霊を見るということは脳の誤作動だと考えるべきだろうが、しかし、住人たちが同じような体験をするということは、アパートに説明のつかない何かがあるからなのではないか。

 叔父が電話した拝み屋は、どうやら、遠方で仕事をしていて都合がつかないようだったが、代わりに、知り合いを紹介するとのことだった。早めに連絡すると言っていたそうだが、いつになることか。

 図書館で、〝心霊〟〝お祓い〟〝魔除け〟などのキーワードで検索し、本を探してみる。しかし、民俗学的な専門書はみつかるものの、期待するお祓いの方法が具体に載っている本は見つからない。それはそうだろうなと思い、パソコンで、事故物件や、拝み屋を雇った経験など検索して時間を潰した。

 そうしているうちに鞄の中の携帯が震えた。叔父からだった。


「都合ついたよ、拝み屋さんの件。今日の夕方には一度見に来てくれるんだけど、祥子ちゃんどうする。立ち会いは俺だけでもいいけど」


「もちろん、行きます!」迷うことなく答える。


 ようやく何かが動き出す気がした。


◆◆

 

 外は、午後の日差しが眩しく、穏やかな風が、わたしの胸を締め付ける重苦しさをほどいてくれる。

 アパートに帰る途中で、公園の中を通る。

 まだ少し時間が早いし、部屋に帰る気にもならない。ちょっと時間を潰そうとして、公園の真ん中のベンチに腰掛ける。

 のどかだった。小学生ぐらいの子どもたちが鬼ごっこをして遊び、母親に見守られた小さな子どもがブランコをこぐ。きいきいという音が、穏やかな空気のアクセントになっている。

 そんな様子をぼおっと見ていると、ひとりの少年がじっとわたしを見つめているのに気がついた。スケッチブックを手に持っており、一生懸命何かを書いては、またわたしをちらっと見た。

 なんだろう。少年と目が合うと、少年は目を逸らしスケッチブックを慌てて閉じる。随分と内気なようだ。

 少年は、まだ私の様子を窺っている。なんだろう、話をしたいことでもあるのか。

 わたしは、できるだけ和かな表情を意識して、「こんにちは」と声をかけた。


「あ、あの」


 少年は、緊張した様子で、でもやはりわたしに話しかけたいようだ。


「どうしたの」


 少年はわたしを見つめたまま、何も言わない。

 公園の風が止まった――。


「気をつけて」


 一言、少年が言葉を発した。


「え、気をつけてって、何に」


「女の人」


 その言葉は、あえて考えないようにしていた昨晩の記憶を呼び起こす。壁の向こうで這いずる音、扉を叩く音、採光窓の下からせり上がってくる人の頭部、女の顔。


「……それって」


「こら尚、知らん人にちょっかい出すんじゃない」


「じいちゃん」


 じいちゃんと呼ばれたのはきちんとした身なりの老人だった。少年は、老人のもとに走っていく。


「じいちゃん、人助けだよ」


 老人は、そうかそうかと頭を撫でながら、「みんなびっくりするからな。人助けはおれがいいといってからだ」少年を諭す。


「すみませんな。孫がご迷惑を。失礼なことでも言いませんでしたか」


 丁寧に頭を下げられる。特に迷惑を被ったわけでもないし、こちらも「いえ、大丈夫ですよ」と言うだけ。


「部屋に入れちゃだめだよ」


「尚、無闇にそういうことを言うものではない。時間だ、行くぞ」


 老人は、少年を引っ張って公園から立ち去ってしまう。

 いつの間にか、公園のざわめきは消えていた。風も、子どもたちの声も、どこか遠くへ行ってしまったようだった。

 部屋に入れるなって、あれのことなのか。少年の見た顔というのは、やはりわたしが見た女の顔なのだろうか。女は、今もわたしの近くで見ているのか。そんな想像をしてしまう。

 いつのまにか公園から人が消えている。後ろには、あの女が立っていて、肩越しにわたしの顔を覗きこもうとしているのではないだろうか。

 ぶるっと身震いする。もう叔父のもとに行く時間だった。

 公園を出る頃には、空が少しずつ夕焼けに染まり始めていた。

 わたしは、胸の奥でざわめくものを押さえつけながら、叔父の家へと向かった。

 ——また、すぐに彼らに出会うことになるとも知らずに。

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