幻影
鳥のさえずりが耳の奥にこだまして、その音色が心地よい。ベッドに横たわったまま、シーツのひんやりとした滑らかさを撫でる。体が柔らかい布団に沈むたび、眠りも再び深くなるようだった。いけない、朝だ。起きないと。分かってはいても、頭の中がぼんやりと霧を被ったまま晴れない。思わず寝返りを打つと、窓の隙間から漏れた光がそっと視界を明るく照らした。先ほどよりは意識が戻りそうだ。そして、段々と周囲への感覚が冴えてきた頃、けだるく瞼を開いた先には、いつもと同じ景色があった。
四畳半の敷居に、黄ばんで濁った白い壁。電球がぽつんと組み込まれた天井は、今や僅かに埃をかぶっている。机の上に積み立てられた本からは、少々煙った香りが立ち込め、風になびくカーテンはゆらゆらと戯れた。
少し息を整えて上体を起こし、布団を隅へ寄せる。ついでに深呼吸をすると、胸の裏がじんわりと空気を含むのがわかる。寝起きの髪を手櫛で梳き、はらはらと散る毛先を一つに束ねる。ゴムで結うと顔まわりがすっきりしていい。
とくに今は夏で、べたべたとした熱の刺激は厄介だ。けれど、昨日は夜中ずっと窓を開けていたせいか、ほんのちょっと部屋は涼しい。寝起きで汗ばんだ皮膚の熱をひんやりと溶かしていく。ただ、やはり起きたばかりの朦朧さは拭えず、しばらく呆然としたのち立ち上がった。そろそろ動き出そう。そう足を踏み出した私は、いそいそと朝の支度を始める。
ふと机の上のスマホに手をかざすと、いつのまにかアラームが鳴る時間になっていた。「おはようございます」とホーム画面に表示されている。スマホはいつも律儀だ。なんだか、ありがとうね、なんて変なことを思いながらも睡眠から脱したのを実感する。煌々とした電子の文字はどこか脳にチクチクと刺さった。
今日の朝ご飯は、トマトを煮込み一日熟成させたカレーに、冷製のチャイだ。カレーには刻んだバジルを炒めて入れ、隠し味にクミンを合わせる。チャイは昨日の作り置きで、アッサム茶葉を煮出したミルクティーにシナモン、そして削った生姜をふりかけ、冷やしておいた。
この猛暑で朝からカレーは胃がもたれるようにみえるが、薬味のテイストを加えることで、案外平気だ。大学のために上京してから一人暮らしを始めたが、その分だけ親に頼らず自家製メニューを開発できる。帰ってから課題漬けの日々だと、むしろ、こうして日常のために趣向を凝らす方が楽しみだったりする。
食材をふんだんに使い、盛り合わせや彩りを飾るのは、私にとって自分を高める趣味のようなものと同じだ。そんなことを逡巡しながらもチャイを口に運ぶと、スパイシーのような甘いような妙な味わいが喉をすっと通り越していく。少し生姜のえぐみが染みる。風邪でも引いたかなと思いつつ、疲れもあるだろうと何ら気にはしない。
こうして、またとない不屈な日常であるが、それが繰り返されるときの始まりは憂鬱だよなと思う。だって、まだ寝ていたいし、大学へ向かう準備も面倒だ。これをあと何回ほど繰り返せば卒業するのだろうか。
課題もそろそろ減らしてくれないかな、とボヤきたいくらいには文字数も増え始め、入学当初の希望に満ちた初々しさはどこかへいってしまった。いつのまにか提出期限や成績、単位修得ばかりに縛られている。肝心な楽しさなんて、購買で欲しいものを選ぶ時くらいであって、それも多忙さで影に追いやられたままだ。
いや、たしかに勉強が本分だけれど、それにしても思い出すら切羽詰まった気持ちに埋め尽くされてしまわないか。それに、今どき学歴という肩書き以外の目的で、本当に心の底から勉学を渇望する人も珍しい。どうでもよいことで悶々とする。
そういえば、地方にいる家族は今日もどうしているだろうか。メッセージを確認すると、いくつか朝の挨拶が来ていた。こういう瞬間、私の心は少し浮き立って弾む。おはようとか、おやすみとか、そういうのは、いくつ貰っても収まりきらないくらい嬉しいものだ。
そんな両親が身を粉にして学費を出してくれていると思うと、やはり大学生活は大切にしようと思い直す。あのキャンパスの空気感が特別なのはそうであるし、今から楽しむ心意気を持つことで多少なりとも背筋は伸びるだろう。そして、身なりやその他を整えると家を出た。
駅に向かう道のりのなか、沢山の家が肩を並べる住宅街を抜け、様々な人とすれ違う。香水の甘さを漂わせた女性、スーツの皺一つないサラリーマン、犬を連れながら背筋をかがめたお爺さん、それぞれが自分達の生活を送っている。
初夏の日差しは人々をやんわりと包みながら、まるで少しずつ息を締め上げるようだ。暑くて意識が遠のきそうになる。のどにかすかな渇きを覚えながらも、緩やかな斜面の坂を登る。息が上がると同時に動悸が波打ち、汗の水滴が唇を伝った。思わず指で拭うと、すぐそばには蜃気楼のせいで揺らめいた街並みが見える。その歪んだ風景は、まるで抽象画のような異質さを感じさせた。遥か遠くまで透ける青い空に、鱗のような網目を刻んだ入道雲、そのどれもが夏のものだった。
そして、電車の滑走路が横切る道路に近づいていき、それに沿って歩く。すると、数分後には目的の駅に着くが、改札を通ろうとした頃には電車が止まっていたため急ぐ。通学中の私は乗り遅れないようにと必死に後を追う。同じように会社や学校を目指す人々で溢れかえっていた。
もちろん、私は焦って周りに気が回るわけもなく、途中で誰かのカバンにぶつかったのか鈍い音がしたものの、平然と通り越していく。大きい歩幅のまま、たくさんの人を避け、やや前のめりに先を行くと耳に発車のアナウンスが鳴り響いた。
電車の扉付近の人達を肩で押し出しながらも、遠慮気味に体をすぼめ、鞄を前に抱きかかえる。車体が動き出す重力には逆らえず、前方によろけて体制が崩れたが、なんとか平気だ。
その時、隣の人が下に掲げているリュックの紐を私が踏んでいたに気づく。すぐに挟んでいた足を退けたが、まぁ、気にしなくて済むだろう。いつのまにか、電車の窓から映る景色も早々と過ぎていき、スマホを見ると時間はだいぶ進んでいた。
やっと大学に辿り着き、なんとか順調に講義に間に合った頃には、ずいぶん疲れも増していた。教室も全然クーラーが効いていない。とりあえず、ハンカチで汗を抑え、持っていた下敷きで仰ぐ。前髪が風上へと舞い上がった。もうちょっと設備もしっかりしてほしい、なんてモヤモヤする。
全身の筋肉がこわばったせいで、もう足元が重い。座っている後ろの席からは、他の生徒たちの等身大の背中ばかりが重なって見える。喉が乾いたため、バッグからお茶を取り出し、ボトルを捻ると口に注ぐ。冷たい麦茶を飲み込むとゴクっと音がしたが、体の内から安堵した。
一旦落ち着くと、今度はなんだか眠くなっていく。これから授業だというのに、登校だけで一苦労すると怠くなってしまうのだ。はぁ、こんな忙しい毎日を送る私たちは、もはや滑稽なのだろうか。それほどには、もう濡れた服も汗だくの体も不快なものでしかない。
すると、ふと砂利を擦ったような鈍い感覚が足を伝い、私は思わず静止した。ふと下を覗くと、星形のキーホルダーがある。これは誰かの落とし物だろうか。まずい、踏んでしまった。
拾ってよく見ると、半透明で黄色い蛍光ストラップだ。なんとも言えぬ古ぼけた印象なのは、色が退廃しているからであろうか。プラスチックのような素材だが、昔から使っているように見える。持ち主も分からず、どうしようかと悩んだ末、ひとまずバッグにしまおうとしたところだった。
そのとたん、甲高い声で
「待って、それ私の」
と言われ、一瞬のうちに意識が止まる。顔を上げると、かわいらしい幼顔の少女が無垢な瞳で私をじっと捉えていた。この子のストラップだったのか。
「あ、えっと、ごめんね、盗む気はなくて。これ、あなたのだったんだ。返すね。」
私は慌てて言葉が上手く出なかった。
「ううん、こちらこそ、落としてしまった物を拾ってもらってごめん。ありがとう。これ大事な物だから、本当によかった。」
そっか、大事なものなのか。一見なんてことのないものも、誰かにとっては情があるのかと思うと、私はなんだか不意をつかれたような気分だった。
「そっか、大切な物なら、余計ここで渡せてよかった。とはいっても、あとで落とし物として、大学に届けるつもりだったけどね。」
「そうだったの、でも、やっぱり私もここで見つけられてよかった。教室に入ってから、どこに座ろうかと彷徨いてるうちに落としてしまったみたい。」
「そうだね、今度から気をつければ大丈夫だと思うよ。」
私は笑顔で返す。口角を上げたつもりだが、上手く表情を作れているだろうか。
「うん。あ、あなたの名前はなんていうの。」
自分の名前を聞かれ、戸惑う。入学してからもあまり友達付き合いはなく、名前を知ってもらう機会はまたとないからだ。ああ、でも、自然な流れか。
「私の名前はミキ。あなたは。」
ここは礼節的にも私は聞き返す。そう、私の名前はミキ。きちんと育ってほしいから、そして、その努力が実ってほしいという意味も込められ、名付けられたのが「実樹」だ。
「そっか、ミキちゃんか。かわいい響きの名前だねぇ。私は、ふたば。」
ふたば。やっぱり艶やかな容姿も兼ねて、絶対ふたばちゃんの方が可愛いと思うのだが。そんなことが頭のなかに反響したまま呆けていると、
「ミキちゃん、私、隣座っていいかな。いつも一緒にいるような子がいなくて。」
と、声をかけれられる。こんな可愛い子が放っておかれるなんて、なんだが不思議だ。いや、むしろ、その無垢さに周りは引け目を感じるのだろうか。その意外性ゆえか、つい驚いてしまった。もちろん、答えは決まっている。
「全然いいよ。隣来なよ。私も他の人から声かけられなかったから、嬉しいよ。」
「えっ、そうなの。ミキちゃん、こうして話すだけでも、いい子な感じが伝わってくるのにね。」
「はは、ありがとね。褒め上手なふたばちゃんは漢字でどう書くの?」
「褒め上手じゃないよ、本当だもん。えっとね、双子に葉っぱ。」
双葉か。そんなこんなして、互いの自己紹介を済ませた後は、他愛もない話をしあって仲良くいた。
あれから、また数ヶ月した頃。初夏は乗り越えても、その暑さは重く足跡を引きずっていた。まだまだ怠い日々は続く。ただ、いつもと違うことも出来た。通学路を双葉と共に行くことだ。いつもの駅も道のりも、なんだか足浮立った気分に塗りつぶされ、世界が逆行したみたいだ。誰かのそばにいること、それはこんなにも時間をあっという間に越えていくんだ、と驚いてしまう。お揃いの歩幅、交わされる笑い声、弾んだ気持ち、これらは私の明るい側面を引き出した。双葉が笑うたび、私の心の奥に、なにか暖かいものが流れ込んでいく。
でも、それはむず痒くて気恥ずかしくて、どこかビターだ。でも、正体は掴めなくとも快い。その感覚だけは、なんとなく分かる。いうならば、私という一つの在りどころが居場所を定め始めたようだ。
あの教授は変だよね、とか、購買のこれがおすすめだよ、など、若くないと浮かばないような話題について語る。きっと、今だけにしかない、かけがえのない空気だ。この特別感は大人になるほど、また違う何かへとひっそり姿を変えるのだから、逃してはいけない。そっと心で掬い、胸の奥にしまっておかないと。
友達は、いや、双葉は、こうした人との繋がりを決して憎いものではない、愛として与えてくれている。なんだか感情が溢れて、私の感覚は既にない豊かさで満たされていた。
すると、
「あー、もう大学に着くね、私は次の教室行かなきゃ。」
と双葉に声をかけられ、はっとして前を向く
「そうだね、じゃあ、そろそろバイバイ。また帰りに。それか明日によろしく。」
「うん、じゃあね。ミキも頑張って。」
小さく踵を返してから、互いに手を振り、別々の教室へと向き直る。二人とも、自覚できるくらいには笑顔で緩んでいた。
気分を切り替える。私は最初の講義を目指し廊下へ入ると、他の生徒も入り組んでいるせいか、いつのまにか靴底の音が雑踏にかき消された。それに構わず、私は数多の人の横を駆け抜け、颯爽と進む。足先に目をやると、窓からの木漏れ日がガラス越しに地べたを照らしていた。
きらめいた星屑のような光は、溢れんばかりの輝きを纏い、辺りを明るく映す。そして、木陰がはためいては彼方へと遠のいていった。その眩さを眺めていては、だいぶ時がたってしまうだろう。
いけない、視線を取られていた。思わず、さっと顔を逸らし、ぐっと気を引き締める。手のひらのうちに自然と力がこもったが、何も考えず一歩を踏み出す。
けれど、あの光だけは、ゆらゆらと瞳の奥に焼き付いて離れなかった。
次の日のあくる朝。突如、早い時間から一通のメッセージが届く。その正体は双葉からであったが、
「ね、ミキと一緒に入りたいインカレがあるから、あとで学校で詳しく話すね。」
とのことで、いささか謎だった。なにより、急であって、インカレとやらもよく知らない。カレーのことなのか、なんて冗談はさておき、ことの真相を知りたい私は早めに家を出る。
さっそく、双葉と被る講義の教室へ着くと、隣の席の上へ荷物を置き場所取りをした。いつも前の方しか選べない。後ろは他の騒がしい子たちが、講義中も隠れてスマホをいじるために満席にしている。今日は少し早めに来たが、定位置は変わらない。
扉が開いて誰かが踏み入ろうとするたび、私は過敏に反応した。でも、双葉じゃない、という期待との裏腹さを抱えること数分後、やっとのこと彼女が現れる。
相変わらず、可愛かった。栗色の髪の毛をさらさらと靡かせながら、上目遣い気味に、くっきりとした睫毛をカールさせている。黒目は大きいし、なにより純度が高い透明感のある肌は、より繊細な美しさを魅せる。本当に、どうして今まで友達がいなかったのだろうか。
そんな色眼鏡な容姿の評価を繰り返しながら、私は当の彼女に挨拶をする。
「おはよう」
「おはよう」
同じく挨拶を返す双葉の息は少し切れており、ここに来るまで、やや慌てた様子が伺える。 荷解きをしながら、隣できちんと座り直す彼女の背中は汗で滲みていた。
それから双葉は落ち着いた顔色になると、私に解き放った一言が、
「好きな人ができたの。」
という、いきなりの宣告だった。潔くはっきりと聞き取れる言葉だ。
頭がハテナで埋め尽くされながらも、そのままゆっくり話を聞くと、なんと同級生の人が双葉に手を焼いてくれているらしく、それを機に恋をしたらしい。そして、その恋の相手は、私達の大学を相手とした合同のインカレサークルに参加しているそうなのだ。要は、そこに友達である私も混じって、恋の後押しをしてほしいという、そんな協力の申し出だ。
なんだか煮え切らない気分だが、その男がどんな奴か気になるし、ましてや変な性格で女性関係にだらしないなんてものは認めない。いや、過保護すぎるなんてことはなく、双葉は内面も可愛らしい女性のため、無駄に傷がつくことが心配なのだ。まぁ、視察も兼ねて、とりあえず応援することにしよう。
「事情はわかったよ。まぁ、私は双葉の恋を応援するよ。」
「ほんとにありがとう。ミキは優しいな。じゃあ、早速インカレのイベントに参加しようね。」
こう言われた途端、「えっ」と呟いてしまった。まずい、急な展開で動揺しているさまが隠し切れていない。
「えっと、それ何日にどこで行われる予定なのよ。まぁ、そのイベントに参加はするけど、双葉の好きなそいつ、本当に大丈夫なわけ。」
私は食い気味に問いかける。
「心配しないで、ちゃんと普通の男の子だから。えっと、一週間後には海浜公園でメンバー全員が集まるらしいよ。昼間に集合だって。
「ふーん、じゃあ、またメッセージで予定教えて。その日は現地集合にしよう。」
「うん、ミキほんとにありがとう。当日はよろしくね。」
はぁ。予定を詰め合わせている双葉の様子といったら、嬉しそうなこと、この上ない。夏なのに、この世の春が来たかのように、満面の笑みが溢れている。恋愛は人の心を充満させるのも確かだが、そんな喜びと葛藤に挟まれる恋心なんて、せいぜい中学生くらいが関の山だ。少なくとも私はそういうタイプであって、自分が他の誰かにベタベタされるのも甘ったるくて好きじゃない。
当日はしかと双葉の好きな奴とやらを精査するつもりだ。やはり、こういう時、客観的に判断できる人がいなければ、相手を間違えたまま恋の宴も泥沼と化す。
こうして私達は異なる温度差のまま、インカレサークルのイベントに向け、動き出した。
あれから一週間後。双葉に指定された時間どおり、海浜公園に着いた。昼間の時間帯に集合するといっても一時からなので、まだ暑さはマシな方だ。それに、今日は比較的、涼しめの気温だとニュースでやっていたし、ここも木陰の多い公園なだけ助かる。すぐ近くには楕円を描く海原が覗く。べったりとした海風は塩っけを含みながら木々を揺らし、鼻の先にツンとくる。
周りではしゃぐ子供たちが散らばっており、愉しげな雰囲気を醸していた。ちらほら同い年くらいと思わしき男女も発見できるのだが、声をかけてよいのだろうか。ただ、それぞれ別の方を向きながら立ち尽くしており、いい具合にまとめて話しかけることができない。いかにしようかと悩むうち、急に大勢の弾んだ声色が響いた。
振り向くと、公園の入り口あたりから、十名くらいの男女の集団に双葉も混じって近づいてくる。だめだ、他の顔ぶれを観察していても、誰が双葉の好きな相手か見当もつかない。それくらい、みんな似通ったようなシンプルなシャツにジーパンという、若者風の格好をしていた。
もっと距離が近づくと、双葉だけでない人たちも私に挨拶をし始めた。その中でも、一人だけ対応の慣れた男がいる。どうやら、こいつが双葉の好きな相手のようだ。その人は私の顔を見るなり、
「話は双葉から聞いてます。ミキさんですよね。僕は辻です、よろしくお願いします。」
なんて、流暢に語る。というか、もう双葉を呼び捨てなのも凄いなと、私の嫉妬心をくすぐる。ただ、予想以上に辻は好青年であった。短めの前髪はサラッとして、目元は柔らかく弧を描いている。なにより、静かな佇まいで表情が柔らかい。そして、一つ一つの語彙が丁寧なのだ。
なんだ、意外に双葉の好きな人きちんとしてるじゃん、と思うとわだかまりのあった気持ちも解けていく。この出会いを機に、あとは束の間に会話も盛り上がり、夜になれば花火を楽しんだ。
あっというまに、夕闇が辺りの景色をさらっていった。気づけば日は暮れて、私たちの姿はぼんやりとする。今は手元にある線香花火だけが灯りとなり、私達を暖かい色に染め上げていた。そばにいる双葉と辻の間には、とても甘美な空気が流れており、二人とも恋愛的に意識しているようだ。
夜風で乱れた双葉の髪の毛に辻がそっと触れると、双葉は照れながらも嬉しそうに微笑んだ。それはまるで可憐な綻びのようで、こちらも幸せになる。対になった二人の顔や体格差、優しく抱擁するような辻の手つき、それに応えるように身を引き合う双葉は純真な愛を呈していた。
私まで、まるで夢遊したように凝視していると、突然、名前を呼ばれる。
「どうしたの。何かあった。」
二人の間を邪魔していいのかと引け目を感じつつ聞くと、双葉は、
「あのね、今までミキに話せなかったことがあるの。でも、辻と相談して、それを打ち明けることにした。ミキは友達だし、信頼してるから。だからね、長くなるけど聞いてくれる。」
と私に投げかけた。そう話す口調は明瞭で、ただならぬ強い意志を感じ、ことの重大さを察する。もちろん、
「うん、わかった。全部聞くし受け入れるから、話して。」
と答え、しゃがみ込む。
「ありがとう。あのね、私の双葉っていう名前にも由来があって……」
そう口を開いた双葉から次々と事実が明かされるまで、私は彼女の背景を何も知り得ていなかったことを痛感する。
ぼんやりと母の声が蘇る。なぜか、きゅっと胸が締まって、苦しい。
「あなたには、双子の妹がいてね、それで双葉っていう名前なのよ。」
そうなの、じゃあ、私の妹はどこ。なぜ、いつも一緒にお家にいないの。母の声は続けて言う。
「実は、双葉が小さかった頃、私があなたを引き取ったの。いつか言わなきゃと思ってた。けれど、血の繋がりはなくても母親であることは確かだからね。大好きなのよ。」
優しい声色だけれど、どこか怖さが押し寄せる。じゃあ、私の本当のお母さんはどこ。妹にも会いたいよ。みんなを返して。返して。緊迫感の波が大きくなり、息も絶えそうになる、その時だった。
はっと刹那的に目が覚める。心臓の音は生々しく聞こえ、頬には涙が垂れていた。目を見開いたまま、ぼーっと天井を見つめる。何もない。また、この夢だ。私は時々、自分の生い立ちのせいか悪夢にうなされる。
そう、双葉と命名された私には、双子の妹がいたのだ。片方の子は二つの海と書いて、「ふたみ」といった。私達はおそらく捨て子であったようで、物を覚え始める頃には託児所に預けられた。二海の方が先に義理の親に引き取られたのだが、まだ二人が一緒に遊んでいた頃の記憶は鮮明に残っている。
確か、いつも近くの公園で遊んでいて、泥団子を作ってはどちらが綺麗か競った。手を真っ黒にしながら、お互い夢中で砂をいじり、水と混ぜてこねる。
「双葉見てよ、これ、こんなに綺麗にできたよ。」
なんて、二海も無邪気にはしゃぎ、笑い転げながらも片手に持つ泥の球は、見事な磨き上げだった。こっそりベンチの下に泥団子を隠しては、次の朝に来ると崩れていたものだ。
あの時の私達は茫然と日常が続くと思っていたし、何も知るよしはない。だが、その常識は一変する。ある日、二海の方だけが職員さんに呼び出され、別室で何かしている矢先、数日後にはお別れ会が催された。寂しくて何も理解できなくて、泣きじゃくった時の気持ちは忘れたくても消えてはくれない。二海と別れた時の悲しみは、ずっと心の奥に生々しい傷をつける。今なら、引き取り手の家族が見つかったのだろうと分かるが、それだって複雑な気持ちだ。
二海はどうしてるかな、幸せですか。会いたいよ。
思わず、また涙が出そうになるのを堪え、熱い目頭を指先で押さえる。ううん、私だって、今は幸せなはずだ。とても賢明で穏やかな義母だし、不自由はない。けれど、本当の血縁という、バラバラになった根っこへ帰りたい欲求には抗えない。
今日は調子がすぐれない。大学も休もうかと、悩んでしまう。かれこれ、しばらく落ち込んでいると、携帯の着信音が鳴る。誰かからの電話だ。画面を開くと、辻だと判明し、すぐさま出る。
「もしもし、どうしたの。」
「ごめん、今、平気だったかな。もうそろそろ双葉が大学に行く頃だろうと思って。だけど、また体調優れなくて休むなら、見舞いに行こうかどうか確認の電話した。大丈夫か。」
「うん、大丈夫。今日は頑張って行く。そろそろ単位も危なくなってしまうから。」
こんな丁度いいタイミングで電話までくれるなんて、なんて気遣いの利く男性なんだろう。と、安堵したような温まるような気持ちになる。
「わかった。なぁ、あんまり気にするなよ。まぁ、この言い方もないか。だけど、双葉は双葉だし、俺もいるから。」
「ありがとう、辻……」
思わず、続けて大好きと言いそうになってしまい、口籠る。
「じゃあ。また会って気晴らしにでもどこか行こう。次も連絡する。」
そう言って、辻は電話を切った。
辻には全ての事情を説明しており、彼も分かった上で私を気掛かりにしてくれている。私の暗い気持ちを晴らすために、様々なところへお出かけのお供をしてくれるし、どんな雑談にも乗ってもらう。だいぶ尽くしてもらっているため、感謝しかない。
実は、辻とは高校生の頃から仲が良かった。そして、卒業を機に互いに違う大学へ進学し、離れ離れになるため、同じインカレサークルに入った。辻は私の生い立ちを知ってもなお、好きと伝えてくれる。だけど、私の方が辛くて恋愛に億劫になっており、付き合ってはいない。
それでも、いつも私を支え、焦らなくていいと答えを待ってくれている。本当に素晴らしい人格者なのだが、だからこそ、また二海と同じように別れてしまうのが怖くて、恋愛関係には踏み込めない。
ただ、私の素直な気持ちは、好きかもしれないと感じ始めていた。でも、自分の慎重さが、その好きという言葉を喉元まで抑えてしまう。けれど、こうして微かな恋心が私の中に巡ると、すごく励まされた。また今日も大学へ行かなきゃ。
でも、通えばミキがいる。ミキといると楽しくて、毎日が華やぐ。だから、頑張れるよ。
私たちが仲良くなったきっかけは、落とした星型のストラップだったね。あれは、幼い頃、二海との別れを偲んだ託児所の職員さんが、お揃いでくれた物。
私たちを結んでくれて、ありがとう。これで前を向けるよ。
辻とミキとお世話になった職員さんと、それかれ二海の笑う姿が浮かぶ。
その時だった。
私はついに、たった一筋の光を辿るように、立ち上がれる気がした。あれ、なんだろう、この感覚は。ふっと体が軽いよう。
ああ、そうか。もう私の周りにはちゃんと愛し愛されている人がいるんだ。その触れ合いの中にいる私は、この瞬間をもってして、はたとこの世界が正当なもので満ち溢れていると気付いたんだね。
私、もう過去の悲しみとはさよならしなきゃ。本当にありがとね、二海もみんなも。大好きだよ。ありがとう。
そして、今すぐ、辻にもミキにも会って、気持ちを伝えたいと思った。私はやっと、正面を向いて二人に大好きだと言える気がした。辻には、今まで言葉にせず隠した分、きちんと告白したい。心強い覚悟が脈々と湧き上がると、ようやく自分が正動していることを実感する
その後は、ミキに「好きな人ができた」と伝え、サークルのイベントにも誘うと、夜には辻と会って告白した。
その時、自分の愛するものと手を繋いだこと、そして、それは何色でもない特別な温度と景色だったこと、全ては鮮明なままだろう。
「以上が私から見た世界だったんだけど、今は幸せだよ。その感謝を伝えたかったの。」
そう言って、全て話し終えた双葉は、穏やかな視線だった。辻も双葉の手を握り返して、微笑んでいる。私は二人の姿を見守りながら、恋人と迎える彼方はいかなるものかと、苦しみを超えた先へ行ってみたくなった。
両者の瞳には、恍惚とした花火の炎が反射し、潤んだ煌めきを宿している。いつか見た木漏れ日と同じような眩さを放っていて、それは輝きながら私の心の奥に留まった。きっと、儚くも美しいからこそ記憶に残るのだ。もし別れがきたって、永遠の栄光として讃えられる。
この夜を照らすように、光というのは影のうちに秘められた喜びでもある。そして、双葉と辻は、互いを自分の帰る場所として手繰り寄せたのだ。
私もいつか、愛おしさによって彩られる世界に居られたらいい。