09:第五場_道中 錘を落とす
「それにしても、君は面白い武器を扱うんだね」
歩きながら、ゲオルグが興味津々でゲルトルートに尋ねた。
「武器じゃありません。
これは錘です。
垂直を測る道具です」
立ち止まり、細い糸の先を持って錘を落とす。錘はゆらゆらと動いてから、止まった。
「こうすると地面に対して物が真っ直ぐ立っているか、傾いているか分かります。
……あら? このガス灯、ちょっと斜めになっているわ」
試しに近くのガス灯を測ってみると、錘に付けられた糸と柱の間の間隔が等しくない。つまり鉛直になっていないのだ。「直した方がいいわ。危ないもの」
ゲオルグは「ゲルトルート嬢は、真っ直ぐなものが好きなんだね」とフリードリヒの方を見て、ニヤッと笑った。
「ゲルトルートさんをからかうのは止めて下さい。
……この人の言うことを、いちいち気にしない方がいいですよ」
「疲れるだけです」とフリードリヒはうんざりした様子だ。彼はゲオルグのことになると、砕けた様子になる。
「お二人は仲が良いのですね」
「大学で共に学んだ仲なんですよ」
「そうでしたか。学友と言うのは、特別なもですね。
父も随分と助けてもらいました……」
ゲルトルートの語尾が消えた。彼女は父親が学友たちに散々迷惑を掛けたことを思い出した。
父親はオルグよりもずっと“疲れる”人だ。
「あなたはトワーズ伯爵のご令嬢ですね」
「父のことをご存知なんですか!?」
ゲルトルートは驚き、警戒した。彼女はトワーズ伯爵の名を出していない。
フリードリヒが申し訳なさそうに弁明した。「私が彼にあなたのことを話してしまいました」
「私がフリードリヒに無理矢理吐かせたんだ。
ずぶ濡れで宿に戻ってきたと思ったら、様子がおかしい。何があったか気になるだろう?
フリードリヒは口が堅いが、私は別だ。私は特別だからな」
出会ってから短い時間ではあるが、ゲルトルートもゲオルグの性格が分かった。面白そうだと思ったら、食いついて離さないのだろう。そして、彼のすることは“なんとなく、まぁ、仕方がない”と許してしまう不思議な魅力があった。
「私としたことが、口止めするのを忘れていましたわね」と、フリードリヒが気にしないようにゲルトルートは悪戯っぽく笑いかけてみせた。フリードリヒは申し訳なさからか、耳まで赤くして、身体を小さくした。「恐縮です」
「……でも、どうしてお分かりに?」
「ここで建白書の話をしてくださったでしょう」
ちょうど橋の上にたどり着いた。
「トワーズ伯爵だって!? あんたトワーズ伯爵のご令嬢だったのかい」
ルルー嬢が驚いたような声を上げた。それから「とても伯爵家のご令嬢には見えないね」と取って付けたように言った。
「そうです。
私の父はトワーズ伯爵です」
ゲルトルートは正直に認めた。父はいろいろな所で自説を披露している。フリードリヒがそれを耳にしてもおかしくない。
「とても興味深い話でしたので、覚えていました」
「――? 本当に? 父の話、荒唐無稽な夢物語だって、思いませんか?
何度、建白書を出しても、国王陛下は興味を持って下さいません」
マッジ氏の婚姻の許可の申し出と同じように、国王に届くまで幾多の人間の手を経る。その間に、トワーズ伯爵の建白書は握り潰されている可能性の方が高いので、国王自身が無視している訳はないのは、ゲルトルートも分かっていた。
「私も知っているぞ。あれは面白い話だったなぁ」
ゲオルグも感心しているようだが、どうにも珍しいおもちゃを前にした子どもにしか見えないのが、ゲルトルートには不服だった。「父は、この計画に関してだけは、真面目に考えているんです」
「勿論だとも。
是非とも話が聞きたい。私にトワーズ伯爵を紹介してくれないかな?」
フリードリヒも頷いたので、ゲルトルートはその気になった。
「でも、あなた方って……失礼ですが、どのような方なんですか?」
大学に通わせてもらっている。身なりも良い。特にゲオルグの服は、相当な贅沢品だ。
「今更?」とゲオルグは笑った。「ゲルトルート嬢。あなたは、どこの人間かも知れない男に求婚したんですね」
「フリードリヒさんは、フリードリヒさんだわ」
その答えに、ゲオルグは満足そうに、やっぱり笑った。
「私はこう見えて、王宮勤めなんですよ。まぁ、働いていると言うよりも、賑やかしで、そこにいるだけ……いうなれば、道化のようなものかな。
こいつは、ヘイブレアンで軍人と、その他のいろいろな仕事をしています」
「いろいろ?」
「……ヘイブレアンでは、一人でたくさんの役目をこなさないといけないのです」
フリードリヒが重々しく答えた。
ヘイブレアンの暮らしが、いかに過酷か、ゲルトルートに教えるようだ。そこで暮らすことを諦めさせるように。
「もし、父の計画が実を結べば、ヘイブレアンの生活も変わるかもしれませんわ」
「そう思います」
負けじと言い返したゲルトルートの言葉に、フリードリヒは同意した。その眼差しには希望があった。ゲルトルートは嬉しくなって、「父を紹介しますわ。今は珍しく王都にいるから」と案内することにした。
「あら? ルルー嬢は? 姿が見えないわ」
いつの間にか、ルルー嬢がいなくなっていた。「お砂糖、まだ渡していないのに……」
フリードリヒとゲオルグも焦った様子で周囲を探しはじめたが、見つけられなかった。
「どこに行ってしまったのかしら?」
ゲルトルートは後ろ髪をひかれる思いだったが、フリードリヒが「ルルー嬢にも何か事情があるのでしょう。また明日になれば、橋の上に戻って来るはずです。私が気を付けておきます」と言ってくれたので、その場を離れることにした。
こうして三人になった一行は、トワーズ伯爵邸へと歩みを進める。
話はゲルトルートの婚約の話になった。
「確認しておきたいのですが、ご婚約の件は無事に解決したのですね?」
「はい。それもご存知なんですか?」
「毎朝、新聞に載っている王命の一覧を確認していますので。
その中に、ノートゼーヘン男爵家とマッジ氏の結婚の特別許可もあったので、あれ? と思ったのです。マッジ氏というのはあなたの口から聞いていましたし、ノートゼーヘン男爵家の娘の名がパメラと知って、これはもしかして、あなたのご婚約に何か大きな事件があったのではないかと推測しました」
「おっしゃる通りですわ」
自分の話に耳を傾けてくれていた。おまけに、そこから得られた少しの情報で、多くの事実を導きだしている。
勇気があって、賢くて……きっとヘイブレアンでも、皆に頼りにされている存在なのだろう。
ゲルトルートは首を傾げて、フリードリヒの顔を見つめた。
「あの……それに、そうでなかったら、私に、あのようなことを申し出る方ではないでしょう?」
フリードリヒは顔をさらに赤くしている。
そうだった。ゲルトルートは婚約者のいる身で、他の男に求婚していると誤解されるところだったのだ。
「なんと言うか、婚約してたと思ってたのは私だけだった? みたいな……??」
「え?」
パメラは自分の思い通りになったと知るや、勝ち誇ったように「ゲルトルートったら、自分がイーサンと婚約しているって思い込んでいたみたいなのよ。イーサンは私に会いに来ていたのに。恥ずかしい子」と言い出したのだ。
「でも、傍から見たら、そうとしか思えないわ。
だって、王命はノートゼーヘン男爵家に下ったんですもの」
「――すみません」
「? どうしてフリードリヒさんが謝るの?」
「あ、いや……嫌なことを思い出させてしまいました」
フリードリヒは心配そうにゲルトルートの顔色を伺う。
「嫌じゃない訳じゃないけど――それよりもイーサンと結婚せずに済むのが嬉しくって。
あの人、“いい人”じゃなかったわ。
フリードリヒさんは分かっていたのでしょう?」
彼が川に飛び込む前に、その話をしようとしていたことを思い出す。
少ない情報で多くを知ることの出来るフリードリヒは、ゲルトルートの話の時点で、イーサンの本性を見抜いていたのだ。
「もし、私が彼の立場なら……そうしたら婚約破棄なんてしないと思いますが……仮に、仮にですよ?」
「知ってますよ」
ゲルトルートが笑った。ゲオルグも笑っている。
「もし、婚約者の他に好きな人が出来たら、そのことを正直に申し出て、ますは謝罪します。そして、これからどうすればよいのか、話し合うべきだと思います。
あんな騙し討ちのような真似、あなたを二重に裏切っています」
錘で測らなくても真っ直ぐだと分かる物言いだ。フリードリヒは義憤にかられているのだろう。やっぱり顔が赤かった。
「それが出来る人って、実は多くないと思います」
イーサンは、パメラと浮気していても、黙っていれば、ゲルトルートと結婚出来ると思っていたのかもしれない。しかし、パメラはそれを許さなかった。それについては、ゲルトルートも同感だ。
「イーサンとパメラはお似合いですわ。
国王陛下は正しい王命を下されたのよ」
ゲルトルートは王宮に向かって、膝を折ってみせた。「まるでご存知だったみたい」
ゲオルグが噴き出した。「そうだね、さすがは王さまだ。なあ、フリードリヒ?」
「――そうですね。こればっかりは、あなたの言う通りですよ」
フリードリヒがやけくそ気味に同意した。
※注)錘を人に向かって投げてはいけません。