08:第四場_クレアの宿 腑に落ちる
ようやく、ゲルトルートの言っている意味が分かったのだろう。フリードリヒは目に見えて動揺した。
そんな状態で、彼は彼女に言う。
「落ち着いてください。
あなたは今、とても混乱しているんですよ。
ひどい勘違いをしているに違いありません。
一度、家に帰って、ゆっくり考え直した方がいい」
ゲルトルートはフリードリヒの様子に微笑んだ。
「あら、私だって、そんなこと分かっていますわ。
何度も考えました。
少なくともも一日は間を空けたでしょう?」
「たった一日ですよ!」
「だけど、気持ちが急いて、居ても立ってもいられなかったの。
とにかく、あなたに会いたくて。
獲物は遠くに行く前に跡をつけないと、見失ってしまうでしょう?
そうなってからじゃ、遅いと思って」
「獲物? ああ、ええ、そうですね。
いや、しかし――」
フリードリヒの勢いが弱まっていく。困っているのが手に取るように分かった。
「お困りでしょうね、フリードリヒさん。
分かるわ。
そんな気の無い人間に告白されるのは、嬉しくないものよ」
ゲルトルートだって、スウェンに同じことをされた時、同じように思ったものだ。
あの時は、こちらの気持ちを考えもしないで、どうしてそんな勝手なことを言うのだろうかと憤った。今は、彼の気持ちを分からなくもない。だからと言って、スウェンのやったことは許せるかと言えば、それとこれは別だ。
スウェンはゲルトルートに断られるのが嫌で、彼女を陥れて「うん」と言わせようとしたのだから。イーサンもだ。彼は金の力でゲルトルートに「うん」と言わせた。
ゲルトルートは違う。彼女は覚悟を決めてきた。
こちらが勝手に好きになって告白した以上、相手に断られることを恐れてはいけない。恨んだり怒ったりするのも筋違いだ。
「違っ……そうではありませんが……」
「お気遣いしてくださって、ありがとうございます。
でも、いいんです。どうぞ、お断りになって下さい。
ただ、私、誰かを好きになれて……好きになると言う経験が出来ただけで、十分、嬉しいのです。
だからはっきり言って下さい。
私のことなんて好きじゃない。興味がない。二度と付きまとわないで欲しい、と」
沈黙が落ちた。
たまらず「ちゃんと言ってくれないと、困ります」とゲルトルートが訴えると、フリードリヒが呻いた。「困っているのは私の方です」
「どうして困ることがあるんですか?」
答えは、「はい」か「いいえ」しかないはずだ。
「私は……ヘイブレアンの人間なんです」
突然、出身地を告げられた。
サイマイル王国ヘイブレアン州。
隣国・ベルトカーン王国と境を接する辺境の地。
そこを治めるのは――「ディモント公爵の領地ですね」
「そうです。貧しい土地です。
ご存知でしょう? アデイラを売って、去年の冬を越しました。
どれほど美談となっても、あの二人が仲睦まじく幸せであろうとも、その事実を、私は許せないのです」
アデイラ?
ゲルトルートはその名を知っている。
フリードリヒの手紙の宛先であり、領民を救うために、その身を裕福な商人へ売った公爵令嬢の名前だったはず。
苦し気に告げられたその名に、フリードリヒはアデイラのことを愛していたのだろうと思った。でなければ、これほど沈痛で、後悔に満ちた表情にはならないだろう。
「ゲルトルートさん、王都で生まれ育ったあなたに、ヘイブレアンの生活は耐えられません。私は、あなたを養う甲斐性がない男です。
私はあなたを――ヘイブレアンには連れて行けない」
「はい」
遠まわしではあるが、どうやら断られているようだ。ゲルトルートは引き下がろうとしたが、フリードリヒはなぜか、もう一度、同じ台詞を吐いた。
「あなたをヘイブレアンには連れて行けない」
「あの……十分、分かりました」
「いや、全然、分かってないと思うよ」と面白そうに二人のやりとりを見ていたゲオルグが口を挟んできた。
「あなたは口を出さないでください」
フリードリヒは嫌そうに言ったが、ゲオルグはゲルトルートの方を向いた。「こいつは迷っているんだ」
「迷っている?」
「やめて下さい! 怒りますよ!」
「こいつもゲルトルート嬢のことが好きなのさ」
ゲルトルートは意味が分からず、首を傾げた。「でも、私をヘイブレアンには連れて行けないって」
ふんっとルルー嬢が鼻を鳴らした。「ルルー嬢、教えて。どういうこと?」
「あんたの家に、鏡はないのか?」
「え? あるわよ!」
「じゃあ、一旦、家に帰って、鏡をよく見てみるんだね」
「それって、体よく、私のことを家に帰そうとしていない?」
「――どうして、そういうところはお頭が回るんだろうね、このお嬢ちゃんは」
「とにかく、帰るよ」とルルー嬢はゲルトルートを引っ張った。
「あ、待って!」
ゲルトルートは袋の中から、フリードリヒの上着を取り出す。「これ、お返しします」
上着を受け取ったフリードリヒは「ここを、繕って下さったんですね」となんとも言えない顔で言った。
なぜならば、「さっきのリボンといい。あんたの裁縫の腕前は最低だね。何もしない方がマシだったよ」というものだったからだ。
「いえ、何もしないよりは……その、悪くないと思います」
そうは言ってくれたが、とても素直には受け取れなかった。
ヘイブレアンでは裁縫が得意な娘の方が重宝するだろう。なにしろ、仕立屋やお針子に頼むにも、お金がかかるからだ。
「フリードリヒさん、無理をしなくてもいいです。
――これで用事は済みました」
「さようなら」と、ゲルトルートは精一杯、優雅に礼をすると宿を出た。
少し歩くと、違和感を覚える。
「どこに行くの? 私たち、あっちから来たような気がしたんだけど……」
ルルー嬢は「そうだったかな?」と言いながら、歩いて行く。ゲルトルートはいつの間にか、男たちに囲まれてしまっていた。
橋の上でも見かけ、先ほどもすれ違った、あの男たちだ。
「何か御用ですか?」
気丈にもゲルトルートが問いただしたが、男たちはニヤニヤするばかりで、距離を詰めて来る。
隙間から逃げようとしても、すぐに塞がれてしまう。ルルー嬢の姿はとっくにない。まさか騙されるとは思わなかったと言うのは、甘いのだろうか。
「お嬢さん、可愛いね。俺たちと遊ばない?」
「そんな気分じゃありません」
「冷たいこと言わないでさ」
どうすればこの場から逃れられるのか、ゲルトルートは急いで頭を巡らせた。あることを思い出して、ポケットに手を入れるが、その中には何も入っていない。「あ……! そうだ、あの時、川に投げちゃったんだわ!」
「これでしょうか?」
男が一人、吹き飛ばされて、その間からフリードリヒの顔を覗く。手にはあの細い糸がついた錘があった。
「私も、これを返すのを忘れていました」
「あ、ありがとうございます」
なるほど、これは胸がときめく。フリードリヒがより一層、素敵に見えるではないか。
ゲルトルートは錘を受け取った両手を、胸の前で握った。
「やはり心配なので、家まで送らせて下さい」
「でも――」
名残惜しくなってしまう。
躊躇するゲルトルートの視界の端に、ルルー嬢が見えた。手で何か合図している。
そうか……と合点がいった。男たちの方へ行くように仕向けたのはわざとだったが、それはフリードリヒに自分を助けさせる為だったのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
帰ろうとしたものの、「こっちを無視すんなよ!」と言う声と共に男たちが襲ってきた。もっともフリードリヒの前では赤子のようだ。いつのまにかゲオルグが加わっている。二人とも、恐ろしく強かった。
「この――!」
最初に倒された男が、フリードリヒを後ろから襲おうとしたのを見て、ゲルトルートは戻ってきたばかりの錘を投げつけた。今日も綺麗な軌道を描いて、男の眉間を直撃する。
ゲオルグがひゅーっと口笛を吹いた。「お見事」
見れば、ほとんどの男たちは逃げて行き、残っているのはすぐには動けない者ばかりだ。フリードリヒは物陰に隠れていた、あの邪悪な顔つきの男の方に歩いて行く。男は逃げ足早く、いなくなった。しかし深追いはしなかった。すぐにゲルトルートの方に戻ってきた。
「お怪我はありませんか?
助かりました。ありがとうございます」
「いいえ、それはこちらの台詞です。
助けに来て下さって、ありがとうございます」
「ルルー嬢が……」とまで言って、フリードリヒも彼女の策略に気がついだのだろう。「次またこんなことをしたら、絶対に許しません」と怒った。
ただし、ルルー嬢は全く痛痒を感じていないようだ。「お嬢ちゃん、私の砂糖を忘れないでおくれ」
「私を最後まできちんと道案内してくれたらという約束ですよ」
「勿論だとも。
さぁ、橋はあっちだよ」
ルルー嬢は今度こそ、正しい道へと歩き出した。それにゲルトルートが続き、フリードリヒとゲオルグが従った。