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07:第三場_橋の上~クレアの宿 帽子が落ちる

 ゲルトルートは彼女なりに飛び切りのお洒落をして、橋の上に戻ってきた。

 亡くなった母親の新婚時代のドレスだ。少し直して、今風に見えなくもない。大事なことは、ゲルトルートによく似合っていることだ。

 風が強く、帽子を飛ばされそうになった。

 

「今日は大きな船が来ているかしら?」


 フリードリは荷下ろしの仕事をすることがある、と言っていた。大きな船が着けば、人出が必要になる。

 布袋の中に、彼の上着があった。ただ不思議なことに、その上着からは、どこか甘い香りがした。それから手紙が出てきた。宛名として『親愛なるアデイラへ』とある。


「恋人がいるんだわ。

川に飛び込むときも、“乙女”に祈っていた」


 足取りが重くなる。


「でも、上着は返さないと!」


 それからお礼も言わなくっちゃ、あと――。

 足元に林檎が転がって来た。


「ルルー嬢、砂糖が落ちましたよ」


 ゲルトルートは袋から、円錐形の赤い包みを取り出す。


「あんた……あの時のお嬢ちゃんかい!?」


 ルルー嬢がゲルトルートが差し出した砂糖の包みを開け、少し舐めた。目が輝く。「これは上等な砂糖だ」


「お願いがあるんですけど」


「――お断りだよ」


 砂糖の包みはしっかり抱き締めたまま、ルルー嬢はけんもほろろに言った。


「もう一つどうぞ」


「あんた、こんな上物、どうやって手に入れた?

私は厄介ごとはごめんだからね」


「ドレスを売ったお金なの。この間、着ていたあれ」


 パメラは「このドレスをあげる」と言ったのだ。だから貰ってあげたのよ、ゲルトルートは開き直った。


「ああ、あのひどいドレス」


「でも、高く売れたわ」


「ま、生地とレースはいいものだった」


 ゲルトルートとルルー嬢は顔を合わせて、にやりと笑った。


「だからルルー嬢、お願い! 

私たち、“お仲間”なんでしょう?」


「――いや……私の見間違えだったようだね」


 どこか羨ましそうな目つきで言ったあと、ルルー嬢が立ち去ろうとしたので、ゲルトルートはさらに引き留める。


「待って、もう一つ、砂糖をあげるから協力して……あ!」


 ゲルトルートの帽子が石畳の上に落ちた。それを横目に見たルルー嬢の動きが止まる。


「この帽子、少し大きいのよね」


 拾って、軽く土埃を払うゲルトルートを、ルルー嬢はずっと見ていた。「どうしたの? この帽子、欲しい?」


「いいや!」


 ルルー嬢は私は物乞いじゃないよ! と強く否定したあと、「そのリボンの刺繍があんまり下手くそだったから、驚いたんだ」と言った。


「だって、私が刺したんだもの。

とっても難しい図案だったのよ」


「お嬢ちゃんの腕前じゃ、当たり前だよ。

どうしてそんな難しい図案をやろうとしたんだ」


 帽子に巻いたリボンは、白い林檎の花が咲き乱れる中に、葉と赤い実が覗く複雑な意匠を超絶技巧で刺してあるものだった。もっとも、ゲルトルートのリボンの場合は、“超絶技巧”は省かれる。


「元のリボンがとっても素敵だったから。

だから欲しくて、でも、それは持ち主が大事にしている宝物だったわ。

頼み込んでは時々、見せてもらっていたら、あなたが刺してご覧なさいって図案にして私にくれたの」


 ふんっと鼻が鳴った。そのままルルー嬢は背を向けて、歩き出した。


「え、行っちゃうの? ここまで聞いて?」


「……砂糖があと二つだ」


「え?」


「道案内のお代だよ」


 ルルー嬢を追いかけて、ゲルトルートはその手にもう一つ包みを乗せた。「残りはフリードリさんに会ってから渡すわ」


「そういうところは、しっかりしているんだがねぇ」


「そう? ありがとう!」


「褒めてなんてないよ! 用事が終わったら、家に帰るんだよ」


 ルルー嬢に言われなくても、進むにつれて、ゲルトルートは逃げ帰りたい気分になった。


 そこはいわゆる歓楽街で、昨夜の喧騒の残りが漂っていた。酒臭く、ゴミや吐しゃ物が道に放置されている。ルルー嬢は振り返りもせず、どんどん進んでいくので、ゲルトルートはついていくしかない。

 途中、柄の悪そうな男たちの一団とすれ違う。ゲルトルートはその顔に見覚えがあった。おととい、橋の上で着飾った若い娘に絡んでいた連中だ。共犯と思われる邪悪な顔立ちの男もいる。

 ルルー嬢がふんっと鼻を鳴らした。「このノロマ、早く歩きな」

 それから数歩もいかないうちに、ようやく目的地に着いたようだ。

 表通りに面したその宿は、まだ治安の良いあたりにあって、これなら普通の旅客が利用することもあろうという佇まいだったので、ゲルトルートは内心、ほっとした。

 宿に入った瞬間、ゲルトルートを迎えた香りに、彼女は心当たりがあった。


 フリードリの上着の香りと同じだった。

 それは、女の人の化粧と香水の匂いだったのだ。


 婀娜っぽい女がルルー嬢を見て、それからゲルトルートに目が行く。呆れたように言う。「あんたもフリッツに助けられた口かい? お礼は結構だそうだよ。帰った帰った」


「フリッツ……フリードリヒさん? いらっしゃるんですね」


 意気消沈していたはずのゲルトルートだったが、彼の名を口にすると心が弾む思いがした。

 女は「だから帰りなさい」と押し返そうとする。


「お願いします! どうしてもお会いしたい用事があるんです」


「いいわ……入りなさい。

フリッツ! まーた、あなたにお客さまよ。

今度は――」


 女の声が終わる前に、奥の食卓からフリードリヒが飛び出してくる。「あなたは! あの時のお嬢さん……!!」


「あ……あの」


 会えたら、ああしてこうして、と何度も考えていたはずのゲルトルートだったのに、彼の姿を見た瞬間、全て消し飛んでしまった。

 フリードリヒにまた会えただけでも嬉しいのに、彼は自分の顔を憶えていてくれた。そして、「どうして! あなたのような娘さんが、こんなところに来てはいけません」と案じてくれた。

 それに関しては、婀娜っぽい女から抗議の声が上がる。「こんなところで悪かったね!」

 周りの女たちからも、不満の声が漏れた。彼女たちはこの宿兼酒場で働いている店員で、夜の仕事を終え、朝食を食べて、これから就寝のようだ。

 ゲルトルートはフリードリヒがこそ、どうして“こんなところ”を宿に選んでいるのか、愉快ではない想いに囚われる。昨夜、この中の女の人と、フリードリヒも愉しんだのだろうかと思うと、堪らなく嫌な気持ちなった。

 もっともフリードリヒが何をしようと、ゲルトルートが批判する立場ではない。


 すると、薄暗い店内と沈むゲルトルートの気持ちを吹き飛ばすようなほど陽気な声が響いてきた。


「ああ、フリッツのことを許してやってくれ。

こいつは昔から無粋な奴なんだ。

私の親友の無礼は、私が詫びよう」


 そうして女一人一人を抱き寄せ、戯れはじめた。最後に、あの婀娜っぽい女性の腰に手を回す。「許してやってくれ、クレア」

 クレアと呼ばれた女は「仕方がないわね」と陽気な男・ゲオルグを軽くいなした。彼はルルー嬢にも愛想のよい微笑を向けたが、ふんっと鼻であしらわれる。しかし、特段気にする様子はなかった。


「で、そちらのなんとも愛らしいお嬢さん。

はじめまして。お会いできて光栄です」


 ゲオルグは続いてゲルトルートの手を取ろうとした。

 そうはさせまいと手を隠そうとしたゲルトルートに気づき、ゲオルグはごく自然に、伸ばした手を自身の胸に置いて、優雅に一礼した。


 太陽のような美青年だ。

 輝く金茶色の髪、琥珀色の瞳。明るい笑顔。

 金糸と銀糸の、それはそれは豪奢な上着を手を通さずに羽織っている。

 上品で優美。かつ軽薄で、無邪気。

 掴みどころのない、と言うか、掴んだら熱くて火傷しそうな、そんな印象だった。


「ところでお名前は? お嬢さん?」


 ゲオルグが尋ねた。

 そこでゲルトルートは、自分がまだ誰にも名乗っていないことに気が付いた。


「私――ゲルトルートです! あの、私、ゲルトルートって言います」


 フリードリの方を向いて、ゲルトルートが言ったので、ゲオルグは唖然とした顔をした後、笑った。 

 フリードリヒは戸惑いながらも、彼女の名を口にした。

 

「……ゲルトルートさん」


「はい!」


「あの――お礼は結構です」


 彼は橋の上で、その他にもおそらくたくさん人を助けたのだろう。フリードリヒにお礼を言いに、クレアがうんざりするほど人が来たのだ。


「……違います」


「え?」


「お礼に来たわけじゃないんです」


 上着の入った袋を握りしめた。

 頭の中で、自分自身が警告する。「何を言っているのゲルトルート! お礼を言って、この上着を渡して、すぐに帰るの!」

 しかし、口からは全く別の言葉が飛び出た。


「私、あなたに告白をしに来たんです」


「は?」


「私、フリードリさんが好きです。

あなたのお嫁さんになりたいんです」


 ルルー嬢がふんっと鼻を鳴らし、クレアをはじめとした店中の女たちは「なんて図々しいの!」と怒ったり、「あらまぁ、なんて初心なお嬢ちゃん」と嘲笑したり様々な反応だ。

 ゲオルグは沈黙している。

 フリードリと言えば、あまりの出来事に、まだ何が起きているか理解出来ていないようだ。

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