06:第ニ場_トワーズ伯爵邸 王命が下る
怒りに顔を紅潮させたマッジ氏がスウェンを締め上げていた。
「お前のせいで! お前のせいか!!」
「何を……お前の息子の……せいだろうが!」
スウェンはマッジ氏の手を振りほどこうとするが、上手くいかない。こちらも顔が真っ赤になっていく。
「お前や、お前の妹が余計な真似をしたせいだだろう!」
「――!!」
スウェンがマッジ氏に投げ飛ばされた。マッジ氏はさらにスウェンに馬乗りになる。
ゲルトルートは、さすがにこれまはずいだろうと思いはじめたが、大の男の大人二人の間に割って入れない。父親はと見れば、新聞を片手に、ソファの上に立って、面白そうに見物しているではないか。「いいぞ、もっとやれ!」「お父さま! 止めてよ!」
「ゲルトルート嬢、イーサンと結婚して下さいますよね?
うちの息子はゲルトルート嬢のことが大好きなんです。私になんとかして、あなたと結婚できるようにしてくれと、お願いされたんです。結婚出来なかったら、死んだ母親のところに行くとまで言ったんです。
お嬢さんは優しい娘さんだ。イーサンのことを許してやってください。
ちょっとした過ちなんです。
父親の私が厳しく言い聞かせますから」
マッジ氏は商売人で契約の大事さを身をもって知っていた。商人は約束を守らなければならない。息子の婚約破棄だけではすまされないのだ。これから全ての商取引への信用がなくなる。おまけに、王命が絡んでいるのだ。なんとかして、復縁させようと必死だ。
「ちょっとした過ち?
他の女に目移りして、婚約を破棄するなんて言い出すことが、ちょっとした、だ?」
まったくその通りだ。
思わずゲルトルートは頷いてしまった。
「ほら見ろ! 責任取って、パメラを引き取れ!
じゃなければ、イーサンはパメラを弄んで捨てたと言いふらしてやる!」
「そんなこと知られたら、ノートゼーヘン男爵家の恥だぞ!
金ならいくらでも出す! 大人しく身を引け!」
「うちにも払ってもらえないかな?」トワーズ伯爵がソファの後ろに隠れながら言った。
「この山師!」
マッジ氏が手近にあったインク瓶を掴み、トワーズ伯爵に投げつけた。
「貸した金返せ!」
「マッジ氏は何か勘違いしているようだ。
あなたは私に投資しているんですよ。
損切をするか、さらに投資するか、そのどちらかしか選べないんです」
それからトワーズ伯爵は少し悲しそうな顔で言った。
「あなたは若い頃、愛する奥さんを亡くしましたね」
十数年前、マッジ氏は重い病に臥せった妻のために、貴重な薬を取り寄せた。
しかし、船が港に着岸できないうちに、海が荒れ、荷物を取り出せない内に、妻は帰らぬ人となってしまったのだ。
「だから私の計画に賛同してくれたのだと思っていました。
『自分のような不幸な人間を一人でも減らしたい』と。
それなのに、私を裏切るなんて……君のことを信じていたのに」
トワーズ伯爵が自分こそ悲劇の主人公のように、憐れっぽい声を出すので、ゲルトルートは呆れた。
「私だって、あなたの考えは素晴らしいと思っていますよ! だが、ちっとも成果はあがらないし、金ばかり出て行く。
だったら、可哀想な私の妻が産んだ可愛い息子が、どうしてもあなたのお嬢さんと結婚したいという望みくらいは、叶えてあげたかったんですよ!」
「なんだよそれ! 息子を甘やかしてんじゃないぞ! だから他の女に簡単に靡く馬鹿息子に育つんだ! 大体、結婚したかったら、自分の口で言えよ! 断られるのが分かっていたんだろう? 姑息な真似しやがって!」
「どの口が!! あぁ? どの口が言ってるんだ!? え? もう一遍、言ってみろ!
婚約破棄された直後の、混乱している娘の気持ちに付け込まなければ、求婚も出来ない卑怯者のくせに!
私は知っているんだぞ! お前、次期トワーズ伯爵を名乗って金を借りて、返せないそうじゃないか!」
「トワーズ伯爵の名前で金を貸してくれる所なんて、もうねぇよ! 全部、叔父さんのせいだ!
ゲルトルートくらい寄こせ!」
「私のせいじゃないぞ。
金がないやつにゲルトルートを嫁にはやれん。帰れ」
ゲルトルートはこの場所にいる男たちの一人も、いない一人も含めて、まともじゃないと思った。
そして、手の中の上着を見る。ああ、フリードリヒさんに会いたい。
今はとにかくこの喧騒を鎮めなければ。
マッジ氏はスウェンのクラバットを握ったままだし、スウェンはマッジ氏の薄い髪の毛を掴んでいる。トワーズ伯爵はマッジ氏に投げられたインクを被って、ひどい有様だ。
「もういい加減に――」
「あなたたち、いい加減になさい!!
ゲルトルートの前で、恥ずかしくないのですか!?」
扉から女性が入って来て、三人の男たちを一喝した。
「アレマ夫人!」
トワーズ伯爵邸はその維持費と、頻繁に不在になる家主のせいで一人になるゲルトルートの為に、その一部を裕福な貴婦人に貸し出していた。
それがアレマ夫人だ。夫を亡くし、息子は一人、いたらしいが、今はいない。元の家は、夫の後を継いだ遠縁の人間のものとなり、身よりもなかった為、トワーズ伯爵邸に一人、移り住んだのだった。
「ゲルトルート、こちらにおいで。
あなたたちは好きなだけ、そこで大騒ぎしているといいわ」
「でも……」戸惑うゲルトルートにも「あなたは優しすぎるのよ。あんな勝手な人たちは、勝手にさせておきないさい」とぴしゃりと言った。そして、「疲れたでしょう?」と労わった。
「私――」
ゲルトルートはそこで自分はひどく疲れていることに気が付いた。涙がこぼれてくる。
橋の上ですっかり身体は冷え切っているのに、トワーズ伯爵の居間の暖炉には火が入っていなかった。
そこにアレマ夫人の暖かい言葉が沁みたのだ。
「私の部屋に来て。
暖かいお茶があるわ。お砂糖をたくさん入れましょうね」
「砂糖――」
橋の上で出会ったルルー嬢のことが脳裏に過った。彼女は暖かい所にいるかしら?
フリードリヒの上着のポケットに入れた林檎を取り出した。
「あら、林檎?」
「貰ったんです。痛んでしまったけど、食べられるかしら?」
「そうね……」
少し逡巡した後、アレマ夫人は林檎を受け取った。「皮を厚く剥いて、紅茶に入れましょう。香りづけにはなるわ」
そう言いつつ、林檎を眺める。
「やっぱり捨てますか?」
「いえ……林檎を見ると、思い出す娘がいてね。
あの娘は今、暖かい所にいるかしら?」
「アレマ夫人?」
「今は駄目。疲れているあなたに、聞かせる話じゃないわ。
また、いつかね」
アレマ夫人の部屋は暖かく、ゲルトルートはようやく一息ついた。
しばらくすると、林檎の入った甘い紅茶が供され、ついでに、マッジ氏とスウェンはノートゼーヘン男爵家へ行ったことが報告された。
「どうなるのかしら?」
膝に置いたフリードリヒの上着を無意識に撫でながら、ゲルトルートは不安に思った。
「今日はもうお休みなさい。
明日、また考えましょう。少しでも、あなたを取り巻く状況がよくなるように祈っているわ」
王命がある以上、ゲルトルートはイーサンとの結婚は逃れられないと覚悟することにした。
トワーズ伯爵はさすがに悪いと思っているのだろう、ゲルトルートの部屋の暖炉に火を入れてくれた。
寝る準備をしながら、ファニーは泣いていた。
次の日、引き続き、暖炉に火が入った自室で、フリードリヒの上着を繕っていると、ファニーが駆けこんでくる。
その顔は涙でぐちゃぐちゃだったが、笑っているではないが。
「ああ、お嬢さま! 王命が下ったんですよ!」
「王命が?」
ついに正式な許可が下りた。それなのにファニーはなぜ嬉しそうなのだろうか。その理由はすぐに分かった。
「そうです! ノートゼーヘン男爵家とマッジ家の婚姻を許可するという王命です!
ノートゼーヘン男爵家ですよ! トワーズ伯爵家ではなく、ノートゼーヘン男爵家です!」
ゲルトルートが居間に行くと、トワーズ伯爵とアレマ夫人がいた。こちらの二人とも笑っていたが、面白そうな笑顔と安堵の微笑の違いがあった。
「どうやらグスタフ陛下は、トワーズ伯爵家の娘を、姪と間違えたようだ」
「そんなことあるのですか?」
「さぁ? グスタフ陛下は、若く酔狂な粗忽者という噂だが、国王ともなれば、王族や公爵家あたりの結婚ならともかく、伯爵と平民の結婚の許可など、出来上がった命令に署名するだけだろうからな。
実際、間違ったのは、どこかの役人だろう。
だが、王が署名すれば王命だ」
マッジ氏が国王に結婚の許可を申し出たのは、半年も前のことだったが、王宮にとっては、煩雑な仕事の一つに過ぎず、後回しにしても構わないと軽んじられていたのも事実だった。それどころか、下級役人から上級の役人へと上がっていく度に、マッジ氏は金を要求されていた。
その王命がやっと出たとおもったら、この事態だ。
「王宮の官吏も質が悪くなったわね。
けれどもそのおかげで、ゲルトルートは助かったわ!
ノートゼーヘン男爵は王命を受け取ったの。
平民に嫁がせるのは本意ではないでしょうが、こうなったら、その方がいいわ」
こうして、ゲルトルートは婚約破棄から免れた。婚約すらしていないことになった。
イーサンが婚約を交わし、結婚するのは、ノートゼーヘン男爵家のパメラである。
トワーズ伯爵家のゲルトルートと結婚するという話が、勘違いとされた。ゲルトルートがイーサンに節度ある態度で臨んでいたのも、彼が来るたびに、パメラが同席していたのも功を奏した。二人はトワーズ伯爵家で交流していたと理解されたからだ。
「私のおかげだな!
そうだ、グスタフ陛下は独身だ。なかなかの美男子らしい。
ゲルトルート、王妃を狙ってみないか?
国家予算を私に流してくれ」
「お断りします」
ゲルトルートは自室に戻ると、上着を取り上げて抱き締めた。
あの人に会いに行こう。今の私に、それが許される。