04:第一場_橋の上 川に落ちる
ゲルトルートは父親の提案を呑んだが、心の中で、「そんなこと起きる訳ない」と高を括っていた。
「私、思いあがっていたんだわ。
だって、イーサンは私のこと『君は美しいね』って言ってくれたの」
小さい頃から「美しい」はパメラのものだった。
けれどもイーサンはゲルトルートこそ「美しい」と言ってくれた。
「だからイーサンは私のよい所を、ちゃんと分かってくれていると思った」
人は言う。『女は自分を愛してくれる男に嫁ぐ方がいい』
「イーサンが私を愛してくれているなら、パメラの誘惑なんかに負けないでしょう?
パメラはイーサンに会うたびに、親し気に声を掛け、彼が何か言おうものなら大袈裟に褒めたり、一緒になって怒ったりして見せていた。
だけどイーサンは、煩わしそうだった。そのうち、彼女が顔を出すと、すぐに家に帰るようになっていったのよ。
……私、その度に――あの、嬉しかった」
フリードリヒは押し黙り、何も答えてはくれなかった。
当然だろう。
ゲルトルートは小さい頃から抱いていたパメラへの劣等感を、イーサンで晴らそうとしていたのだ。
「イーサンが最後まで私を選んでくれていたら、私、安心してお嫁に行けたかもしれない。
でも、そんなこと、しちゃいけなかったんだわ。
誰だって、自分が粗略に扱われたら傷つくもの。優しくしてくれる人の方が、好きになるわ」
相変わらずフリードリヒの反応は薄い。しかし、どうも真剣に話を聞いてくれているようだ。肯定もしなければ、否定もしないだけだ。ゲルトルートはそれに勇気を得て、語り続けた。
「イーサンはいい人だったのに、私、なんて酷いことをしたんだろう。
おまけに、あなたのお話じゃ、パメラとは別れさせられて、私と結婚することになるのでしょう?
最初から、愛する努力をすべきだった。イーサンが望むように、もっと恋人らしい振る舞いをするんだったわ」
「……恋人らしい?」
フリードリヒの眉がピクリとあがった。ゲルトルートは真っ赤になって俯いた。「手を握ったり? ……そういうの。男の人なら、お分かりになるのでしょう?」
パメラがイーサンの腕に絡みついている姿が蘇る。おそらくああいうことを求められていたのだ。妙に距離感が近くて、咄嗟に避けてしまうことが、何度もあった。その度に、「ごめんね。嫌だったね」と謝るので、ゲルトルートは彼に応えられない自分を申し訳なく思った。その時は、「イーサンがパメラを好きになるように、ゲルトルートは彼に素っ気なくしなさい」と言う、父の企みがありがたかった。
「だからイーサンは、私が彼のことを嫌っていると思ったのでしょう」
「それは、どうでしょうかね」
なぜかフリードリヒの反応まで、素っ気なくなった。
ゲルトルートは意気消沈し、もうこれ以上、話をすることが出来なくなった。それに、話せることは、ほとんど話してしまった。
「あ、あの、もう帰らなきゃ。
話を聞いてくださって、ありがとう。
もし、あの港が少しでも改修出来て、あなたの荷下ろしのお仕事が楽になったら、私のことを思い出してくれると嬉しいわ」
そう口に出してから、ゲルトルートは慌てて打ち消した。「いえ、やっぱり駄目。何もかも忘れ去って下さい」 自分もそうするつもりだ。
「あの、フリードリヒさん??」
フリードリヒが深刻そうな顔になっていた。「すみません……ただでさえ心乱れているあなたに、こんなこと言って惑わせてはいけないと頭では分かっているのですが、イーサンと言う男は――」
そこまで言って、フリードリヒは一旦、言葉を切った。「なんでしょう?」と聞き返そうとしたゲルトルートだったが、川面で起こった騒動で掻き消えた。
「大変だ! 船同士がぶつかって、何人か川に投げ出されたぞ!」
「なんでもいい、浮く物を投げ込め!」
「船は離れろ!」
川が狭いので、隙間なく船があると沈んだ人間が浮かび上がってくるのに邪魔になるのだ。
すでにほとんどの人間が助け上げられはじめているが、不運な一人が、足を捕らわれ、もがき苦しんでいる。
助けに飛び込む者がいないのは、誰もがそこを危険な箇所だと知っているからだ。
「あそこは特に浅いのよ。泥が溜まっていて、足を取られたら抜け出せないわ。
船も迂闊に近づけないし……」
ゲルトルートも橋の上の人間は見守ることしか出来なかった。
そんな中、フリードリヒが上着を脱ぎ始めたので、周囲はざわめき、口々に彼を制止しようとする。
「兄ちゃん、危ないから止めとけ」「一緒に沈むだけだ。あんたは溺れる人間の力を知らない」「しがみつかられたら終わりだぞ」
「その時は、私が責任をもちます」
静かに宣言すると、フリードリヒはゲルトルートに上着を預けた。
それから「“乙女”よ、どうか私をお守りください」と祈ると、橋から川に飛び込んだ。
川へ飛び込んだフリードリヒは、溺れた男に近づいた。恐れていた通り、男はフリードリヒに必死にしがみつこうとしたので、彼は躊躇なく、一発殴りつけて大人しくさせる。
しかし、そこから男を引き離せないようだ。
橋の上から縄が投げ込まれるが、距離が遠くて、男たちの手でも上手く届けられなかった。
フリードリヒは男を抱きかかえていたが、徐々に沈んでいくのを止められない。
「誰か錘になるものを持っていないか!?」
何人かが、橋の石畳を剥がそうとしているのだが、こういう時に限って、妙に頑丈で時間がかかる。
川面では、フリードリヒが諦めたようだ。男を沈めようとしているではないか。
「フリードリヒさん、もうちょっと粘って!」
ゲルトルートは叫びながら、細い紐がついた円錐形の小さな錘を取り出した。
それを力なく垂れる縄に結びつけて放り投げた。錘は綺麗な弧を描き、フリードリヒの近くに落ちたので、彼はそれについていた細い紐を手繰り寄せ、縄を手にすることが出来た。それを意識を失った男に括り付けると、合図を送る。
「今よ。皆で引っ張って!」
ゲルトルートの号令一下、橋の上で男たちが縄を引くと、ようやく男は浅瀬から抜けた。
フリードリヒが遭難者の顎に手を掛け、水面から顔を出させたまま泳ぎ出すと、船が一艘、近づいていく。
「すげぇな、助かったぜ!」
「あの兄ちゃん、いざとなったら、あいつ殺すつもりだったな」
「どっちにしろ助からないなら、苦しまない方がいいんだろうが……いや、おっかない兄さんだ」
周囲から感嘆とひそひそ声が漏れる。つまりフリードリヒの言う『責任』とは、そういうことだったのだ。
ゲルトルートは彼がただ優しいいい人だけではない一面を知った。
川に飛び込む前に預かった上着を、強く握りしめる。
救助された船の上から、フリードリヒがゲルトルートを見上げたようだ。彼女はそれに応え、上着を届けようと走り出そうとした。
――が。
「お嬢さまーー!!」
トワーズ伯爵家の数少ない使用人である、ゲルトルート付きの侍女・ファニーと、その父親で家令のバルトンが探しに来たのだ。
「お嬢さま、やっと見つけた。
ああ、ご無事で」
ファニーは溺れる男もかくやという力と勢いでゲルトルートに抱き着いた。
「ゲルトルートお嬢さま、とにかくお屋敷に戻りましょう」
バルトンも穏やかに、しかし、有無を言わせぬ強引さで娘に加勢する。もともと人通りの多かった橋だったが、川の事故とフリードリヒの活躍のせいで、さらに大混雑が起きていた。ゲルトルートはもみくちゃにされながら、その場から引き離された。「待って、困るの、これをあの人に返さなくっちゃ――」