表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/40

38:フィナーレA

 アデイラの話を聞いて、ゲルトルートは彼女が兄の件でトワーズ伯爵邸を訪れた訳ではないことが分かった。


「ホール夫人、もしかして、アレマ夫人に御用があったのでしょうか?」


「アデイラで構わないわ。

ええ、そうよ。

あら!? もしかして、兄のことで来たと思った?」


 改めて指摘されると気恥ずかしい


「ごめんなさいね。

私ったら、すっかり自分のことしか考えていなくって……」


 あちらも恥ずかしそうだ。

 しかし、クラウスのことを“自分”のことだと捉えている考え方が、ゲルトルートには微笑ましく、羨ましい。


「ホール氏はお会いになれそうなのですか?」


「クラウスも人の親になって、いよいよ覚悟を決めたようよ。

けれどもいきなり来られても……そちらも心の準備が必要でしょう?

どういう形で訪問したら互いに最善なのか、貴女に相談したいと思ったの。

アレマ夫人が貴女の所へ身を寄せているなんて、不思議なご縁ね。

兄のこともお話出来て良かったわ」


 それからアデイラはゲルトルートにヘイブレアンだって素敵な場所なのよ、と弁明しはじめた。


「イルタリアにだって、いい人もいれば、嫌な人もいたわ。

どこだってそうよ。

そこで生きていける人もいれば、無理な人もいる。

私だって、覚悟してヘイブレアンから離れたけど、故郷が恋しくて気が塞ぐこともあったわ。

どんな美味しいものだって、喉を通らない時もあった。

マルガリータさまの気持ちも――ね。

それでも、愛する人の側こそ、素敵な場所よ。

私は幸せ者だわ。ええ、誰に遠慮もしない。とても幸せ」


 籠の中から泣き声が起きた。その声はどんどん大きくなる。


「ウィル、起きたの。

どうしたの? お腹空いた? それともおしめ? おしめかぁ」


 アデイラは籠から我が子を抱き上げ、ちょっと困った顔をした。「ちょっとごめんなさい」と断って、おしめを替えようとするのだが、手つきがなんとも危なっかしい。


「本当はこの子には、乳母をはじめ三人の世話係がいるの」


「まぁ、三人も!」


「そうよ。この子を見て。とっても可愛いでしょう? 皆で取り合って、私、母親なのに、全然、独り占めに出来ないの」


 それで今日、三人に休みを取らせ、一人でやって来たのだが、彼女の手には余ったようだ。

 赤ん坊は泣き止まないし、おしめは替えられない。母親は途方に暮れた。


「あの……アレマ夫人を呼んできます」


 このトワーズ伯爵邸で子どもを育てたことがあるのは彼女くらいだ。

 アレマ夫人は「私、子育てに自信がないわ」と躊躇したが、「子育てじゃありません。お世話を手伝って欲しいんです」とゲルトルートは頼み込んだ。「それにあなたの息子さんは立派に育ちましたよ」

 恐る恐るトワーズ伯爵の居間に行ったアレマ夫人は、若い母親が四苦八苦しているのを目にした。そして赤ん坊は火が付いたように泣いている。

 その赤ん坊は、クラウス・ホールの……クラウス・アレマの息子だ。

 父親によく似た銀色の髪の毛をうっすらと生やしている。


「まぁまぁ」


 アレマ夫人の母性本能にも火が付いた。手早くおしめを替えると、赤ん坊を抱き上げる。「まぁまぁ、可愛い子」昔歌った子守唄であやすと、赤ん坊は灰色の大きな瞳で彼女を見た。


「ウィルって言うんです」


 アデイラが教えると、アレマ夫人が目に涙を浮かべた。「夫の名前と同じね。私の夫もウィリアムと言うのよ」

 勿論、そこから名付けた。


「ルルー、見て、この子、クラウスの小さな頃にそっくりね」


 部屋の片隅に、銀色の髪の毛の婦人がいた。今ではすっかり小ざっぱりして、苦労の影も大分薄れている。


「ルルー? あ、ルルー嬢だわ!」


 アデイラはクラウスを産んだお針子の名がルルーと後から聞かされ、「もしかして橋で会った人かも?」と思い出していた。

 フリードリヒがあの橋をうろついていたのは、もしかしてルルー嬢の手がかりがあるかもしれないと考えてのことだった。


「林檎を食べたお嬢ちゃん。まさかあんたが……あなた様が……」


 ルルー嬢は絶句した。「もったいないことだよ」こんな良い娘が息子に嫁いでくるなんて。


「ルルーにもこの子を抱かせてあげたいの、いいかしら?」

 

 アレマ夫人がアデイラに頼む。異論などあろうはずがない。しかし、ルルー嬢が断った。


「私はこの子を抱く資格はありません」


「そんなこと言わないで」


 アデイラもゲルトルートも必死で説得したが、ルルー嬢が頑なに拒んだ。ついでに息子に会うことにも同意しなかった。

 今はまだ、仕方がない。

 まずはアレマ夫人との再会をお膳立てしようということで話が決まった。

 しかし、子どもと二人で出かけ、いつまでも戻ってこないアデイラを心配するあまり、クラウスは段取りをうっちゃってトワーズ伯爵邸に突撃してきた。

 ルルー嬢は橋の上での経験を活かしてか、素早く逃げていたが、窓から成長した息子の姿を見ることは出来た。あの小さな赤ん坊が――。


 クラウス・ホールは今や妻と、一人の息子を持つ父親として、アレマ夫人の前に立っていた。


「まず聞かせてちょうだい。

ウィリアムの名に誓って、答えるのよ」


 ウィリアム……父と息子の名に誓うのだ。


「はい、母上。誓います」


「あなたは家を出てから、アレマの名に恥ずべき、人の道を踏み外す真似はしませんでしたか?」


 クラウスは逡巡した。

 血の繋がった妹と婚約していた。これは人道にもとる行為ではないか。

 正直に白状する。


「アレマ夫人、私から言い訳させて下さい。仕方がなかったんです!

代わりにたくさん人を助けました。

だからどうかクラウスさんを許して下さい」


 アレマ夫人の腕の中で、ウィリアムも声を上げた。「あー、あー」


「まったく、困った子ね。

もう二度と、家族を捨ててはいけませんよ。

それは誓える?」


「はい! 誓います。決して違えません」


 「おかえりなさい」とアレマ夫人は我が子を許した。「ウィリアムもきっと喜んでいるわ」


 「折角だから、お食事を」とゲルトルートは誘った。「ちょうど“羊の血と臓物の煮込み”があります。

私が作ったものですから、クレアさんの味には劣りますが……」


「ゲルトルートさんがお作りになったの?」


 アデイラは戸惑ったような声を上げた。彼女はヘイブレアンにあっても厨房に立つことはなかった。貧しい公爵家でも、令嬢として遇されていたのだ。第一、親を亡くした子や、夫を亡くした妻などを積極的に使用人として採用していたので、財政に反してディモント公爵邸は使用人がやたら多いと言う。

 フリードリヒが料理や清掃を行うのは、やはり軍隊経験が大きい。少数精鋭で野営訓練をする時などは、部下と共に煮炊きをし、仮想の敵に見つからないように、その痕跡を消すのだから。


「だから貴女が料理を覚える必要はなかったのよ」


「いえ……ただ私が好きで食べたかったからなんです」


 けれども伯爵家の令嬢がクレアの店を頻繁に訪れるのは外聞が悪い。忙しいバルトンに持ち帰りを頼むのも憚られた。トワーズ伯爵邸には使用人が二人しかいないのだ。

 最たる理由は、ゲルトルート以外は誰も食卓に“羊の血と臓物の煮込み”を上がるのを歓迎しないことだった。

 アデイラの側でウィルをあやしているクラウスも同じようだ。あの後、クレアの宿で試してみたらしい。「この人、二口で降参したのよ」駄目な人間は一口だって無理なところ、それでも二口は食べたのは、アデイラへの愛情がなせる業だった。

 アレマ夫人も息子に同意した。

 そんな同胞がいない中、食べたくて仕方がないゲルトルートは自身で作ることにした。


「量りと時計を持ってクレアさんの宿に通いました」


「量りと……時計……?」


「はい。

最初、見せて頂いた時、申し訳ありませんが、あまり理解出来なかったので」


 クレアの説明は「この材料をこれくらい」とか、「この調味料を一つかみ」「グツグツいってから、しばらく煮込んで」と言うものだったのだ。料理初心者のゲルトルートは「これくらいってどれくらい!? 一つかみって、どれくらい!? しばらくってどれくらいなんですか!?」と終始混乱して終わった。


「それで考えたんです。

材料は重さを量ればいいし、時間は計ればいい――と」


 ゲルトルートは“はかる”のが得意なのだ。

 工程の途中で、いちいち手を止めさせられたクレアは発狂しそうになりながらも、根気強く付き合ってくれた。「だけど私、毎日、同じ量で作ってないわよ。時間だって、適当だし」


「その通りでした。

けれどもそれは当たり前だと思います。

測量も同じです。

測量道具に使っている木や金属は、気温や湿度の影響を受けて、伸びたり縮んだりするんです。

だから必ず補正を行う必要があります。

材料も調味料も同じものではない以上、何かしらの調整が必要なはずです。

暑い日は塩気を多くしたり、寒い日は脂を多目に使ったりも……クレアさんは体感として分かっているのでしょうね」


 代わりにゲルトルートは数値化して、繰り返し実験することにした。


「野菜や肉を切ったのもはじめてでしたが、私、縫うのは不得手だけど、切るのは得意だったみたい。

そこは問題ありませんでした」


 ホール夫妻の視線がゲルトルートの前に置いてある灯台の模型に注がれた。

 刃物の扱いはお手のものなのだ。


「何度か作っていくうちに、自分の好みの味に近づけられるようになったんですよ」


 それがフリードリヒが作って御馳走してくれた、本場中の本場の味なことを、ゲルトルートは恥ずかしくて、打ち明けなかった。

 食べれば分かることだろう。

 ただし、この場で“羊の血と臓物の煮込み”を好んで食べるのは、アデイラとゲルトルートだけだ。クラウスなど、どう角を立てないで辞退しようか考えはじめているようだ。


「よろしければホール氏には、私が開発した新しい“羊の血と臓物の煮込み”を試していただきたいですわ。ちょうど今日、アレマ夫人やファニーたちに振る舞おうと思っていたんです」


「「「新しい“羊の血と臓物の煮込み”?」」」


 ホール夫妻とアレマ夫人が、ゲルトルートの自信満々な提案に声を合わせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ