37:第十七場_クレアの宿 結束と同調圧力の功罪
クレアは着飾ったままの三人が自分の宿に入って来たのを見ると、目を丸くした。
事情を聞くと「グスタフの野郎、今度こそ、出禁にしてやる!」と怒りをあらわにし、「そんなことよりも、結婚するの!? アデイラ!」と喜び、同時にクラウスに「うちの妹を粗略に扱ったら承知しないわよ」と脅しながら、フリードリヒには「なんて顔しているの。寂しいだろうけど、アデイラの為なんだから、我慢しなさいよ」と慰めつつ、皿に“羊の血と臓物の煮込み”をよそっていく。「イルタリアへ行くのでしょう? アデイラ、食べていきなさい」「フリッツも。あなた何も食べていないって顔しているわ」「クラウスさんは――止めとく?」
お玉を引っ込めようとしたクレアに、ちょうど店に集っていたヘイブレアン出身者たちが文句を言い出した。
曰く。公爵令嬢を娶るならば、我らがヘイブレアンの“羊の血と臓物の煮込み”ぐらい食べられて当然だ。
「あなたたち! アデイラが破談になってもいいの!」
クレアは憤慨し、無責任にはやし立てる客たちを叱責する。
すると「クラウス殿」とフリードリヒが立ちあがり、「これがアデイラをすぐに嫁がせる訳にはいかない理由です」と言った。
「お兄さま、どういうことですか?」
ヘイブレアン出身の客たちは、公爵のただならぬ様子に口を噤む。
フリードリヒは周りに聞こえるように、はっきりとクラウスに説明し出した。
「私は先だって、あなたとの関係について、アデイラに時間を置くように言い含めましたが、諦めさせるためではありませんでした」
「そうなの!?」とアデイラは驚きの声を上げた。てっきりそうだと思っていた。しかし、兄の真意を聞くと、彼女は自分が浅はかで思いやりのない人間だったと痛感する。
「その時間で、アデイラにはイルタリアの言葉を教えるはずでした。それから文化や風習についても。
私は短期間でしたがイルタリアに留学していたので、少しは役に立ったはずです。
あなたからも情報を得ようと思っていました」
異国へ嫁ぐことになるであろう妹に、フリードリヒは出来るだけ多くの知識を授けたかったのだ。
そして、心構えだ。
「いきなり言葉も通じない異国に嫁ぎ、右も左も分からない中で、家政を取り仕切ることが出来るでしょうか?
あなたのアデイラへの愛情は疑ってはいません。
ですが、アデイラが異国で生きていくのには、あなたとの関係だけでは済まないのです。
何も知らないアデイラが、何も知らぬうちに相手を傷つけ、誤解されてしまうかもしれない」
その場のヘイブレアンの事情を知る人間たちは、次第にフリードリヒが誰のことを思い浮かべているのか分かってきた。苦い記憶が蘇る。
「イルタリアにはヘイブレアンの“羊の血と臓物の煮込み”に似た食べ物はありますか?
アデイラは食べらないかもしれない。
人は同じものを食べることで、仲間意識を高め、結束を強めます。
私は軍務中、自分の手で“羊の血と臓物の煮込み”を作って、部下たちに食べさせるのは、それがあるからです。
ですが、苦手な人間には辛いでしょう。
食べられないだけでなく、それによって生じる疎外感が――」
フリードリヒは鼻をすすった。クレアが彼の背中をさする。「マルガリータさまはお可哀想だったわね」
クレアはアデイラに言ったではないか。
――ヘイブレアンだって彼女に優しくなかった。
王都で暮らしているクレアは、異なった視点でマルガリータを評価していた。
マルガリータがヘイブレアンへ嫁いだのは、アデイラとさほど年の変わらない頃だった。
王都であれば、実家を頼ることも出来ただろう。勝手知ったる礼儀や風習の中で、それなりに結婚生活を送れたはずだ。
しかし、ヘイブレアンはサイマイル王国ではあったが、辺境ゆえのやり方があった。
マルガリータはそれに慣れていない。“羊の血と臓物の煮込み”は口に合わない。
公爵が真珠で買ってきた嫁だから、自分たちに寄り添うつもりがないのだ。
公爵に真珠で買われてきた嫁だから、皆、自分に冷たいのだ。
先入観はすれ違いとなり、それは修復されないまま、あらたな亀裂を生んだ。マルガリータは自分を受け入れようとしないヘイブレアンを拒絶し、ヘイブレアンもマルガリータを認めないという悪循環を生みだす。
先代のディモント公爵がマルガリータを庇えば庇うほど、断絶は深まるだけだった。
そして取り返しのつかない結果となる。
ヘイブレアンの人間が口を噤んだのは、フリードリヒの為だけではない。自分たちの非を知っていたからだ。
“マルガリータさま”の話は、彼らの犯した罪でもあった。そして、そうさせた“マルガリータさま”をやはり憎んだ。そうすることで、彼らは結束を深める。“羊の血と臓物の煮込み”と同じだ。口に出来ない者は、仲間ではない。
フリードリヒが自身の嫁取りに消極的なのも、妹を何の準備もなく異国に嫁がせることに不安を抱いているのも、そのせいだった。
「お兄さま……でも、私……私は――」
それでも、アデイラは言わなければならない。が、その前に、あっけらかんとした声が静まり返っていた店内に響く。
「フリッツ。何を言っている。ミラース嬢はマルガリータさまじゃない」
クレアが即座に反応した。“羊の血と臓物の煮込み”をよそっていたお玉を振りかざす。「あんた! グスタフ!!」
国王陛下のご来店だった。
こちらも舞踏会から抜け出してきたばかりだ。豪奢な衣装。それに負けない輝く容姿。そして、まったく反省の色のない笑顔。
クレアのお玉を笑いながら避けている。
「下手に言葉が通じない方がいいかもしれないぞ。
こいつは言葉が分からないとなれば、多少の無礼もまぁ仕方がないな、と思ってもらえるかもしれない。
……クレア! 汁が飛んでいる。汚れて帰ると、女官長に叱られるんだ。
フリッツが教える中途半端な語学じゃ、逆に誤解の種にしかならん。
下手な小細工はせずに……あぁ、クレア、そんな怒ると美人が台無しだ……とっとと嫁に出せ。
出せばなんとかなる」
最終的にグスタフはクレアの手首を掴んで、軽く捻った。動きが止まる。そのまま軽く背中を押す。クレアは悔しそうにグスタフを見たが、口を噤んだ。
グスタフがクレアから奪ったお玉をフリードリヒに向けた。
「そしてフリッツ。お前は俺を殴るといい」
王宮では出来ないだろうからな、とばかりにグスタフは腰に手を当てて、ふんぞり返った。
それに対して、フリードリヒはグスタフを殴る素振りすら見せない。
「一晩でも経てば、怒りを鎮められたかもしれませんでしたのに」
「遠慮するな。俺とお前の仲じゃないか。我慢は身体に悪い。一発、殴っておけ。すっきりするぞ」
殴られる側が詰め寄るが、殴る方は全く気乗りがしないようだ。
「あなたを殴るつもりはありません」
「なんで?」
まず第一に。
殴られたがっている人間を殴るなんて悪趣味なことはしたくありません。
次に、殴られたら全部、許してもらえると思っている考えが面白くありません。
さらに言えば――。
「何?」
「私が本気で殴ったら、あなたを殺してしまします」
小麦の大袋を四つ、一気に運べる怪力なのだ。
「そ……それは困るな」
「ええ。困りますよ。
あなたが亡くなったら、次の国王がエルンスト殿下かと思うと、あなたであっても生かしておいた方がいい」
グスタフがあの悲しそうな顔をした。「弟のことは勘弁してやってくれ。あいつは俺が母親のお腹の中に置いてきた真面目さも一緒に持って出てきてしまったんだ」「融通が効かないところがあるが、あれはあれでいい所もある」
思いもかけない弟想いの言葉に、フリードリヒは憤った。
「その優しさをアデイラに、少しでもいいから分けて欲しかったですよ」
「――ごめんねっ」
全然、反省してないな、コイツ。
その場の全員が思った。ある意味、感心する。そんな性格ならば、最初からあんな真似はしない。
「その代わりと言っちゃあ、なんだけど。
私が直々に特別結婚許可書を書いてきてやったぞ」
「朝は寝ていたいからな」と余計な一言も忘れない。「それだけじゃないぞ」グスタフはクラウスに王命の他に、もう一通、書類を渡した。「イルタリア帝への手紙だ」
神聖イルタリア帝国の商人が、サイマイル王国の公爵令嬢を連れ去るのだ。下手な誤解があっては困るし、イルタリア帝からも特別結婚許可書を得る必要があるはずだ。その口添えとなる手紙だった。
そういう所は抜かりがない。
「クラウスもいきなりイルタリアへ連れ去られた口だろう? だったら、ミラース嬢がどこで何に躓くか傾向と対策を教えられるはずだ」
グスタフの暴露にフリードリヒはそれまでの確執を一旦、置いておいて「どういうことですか?」と聞いた。彼はクラウスがサイマイル王国で生まれ育ったサイマイル人だということを知らなかった。
手短に説明すると、唸った。
「どうだ? 少しは安心したか?」
グスタフが返したお玉を、クレアは素直に受け取った。
「フリッツ、アデイラを信じてあげて。
お母さまの娘なのよ。どこでだって幸せになれる。
まして、愛する人の所へ嫁ぐのですもの」
「そうね、多少は苦労もしてみなくっちゃ」と冗談めかしたクレアに、アデイラは劇場で彼女が囁いた言葉を改めて思い出した。
――ヘイブレアンだって彼女に優しくなかった。お母さんにも……。
アデイラは母がどんな気持ちで父と再婚し、ヘイブレアンで暮らしていたか、本当の気持ちを知ることは出来ないが、クレアを外に出したことは、一つの答えとなるだろう。
ただ、母の人生が全て不幸だったとは思いたくなかった。彼女は最後まで、幸せでありたいと願い、そうあろうと生きたはずだ。
クレアもまた、そうしてここにいる。
自分で幸せになることを選ぶのだ。
「お兄さま、私、頑張るわ。
お母さまの娘だもの。きっと大丈夫よ」
アデイラの決意に、フリードリヒは目を伏せた。「そうだな。お前は“マルガリータさま”じゃない」
母は――弱い人間だった。
その呟きに、グスタフが「なに言ってるんだ」と即座に否定する。
「“マルガリータさま”は強いぞ。最後まで自分の意思を貫いたんだぞ。並大抵の精神力じゃない。
フリッツ、お前も頑固で強情だな。そういう所は、似なくてもいい」
フリードリヒは人生で一度も、産みの母親に似ていると言われたことがなかった。グスタフの指摘に苦笑する。どこか照れくさそうなのは、それでも嬉しいからだろう。
それからくれぐれもアデイラを頼みますと、クラウスに託したのだった。
※第一幕から読みはじめた方はこのままフィナーレまで読み進めて下さい。第二幕から読みはじめた方は、ここで終わるか、第一幕に戻ってからフィナーレに進んで下さい。




