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34:第十五場_ホール氏の屋敷 勇気ある撤退

 日が落ちて、薄暗くなった部屋に明かりが灯った。

 そこにそっと忍び込んでくる影がある。


「泣いているの? アデイラ?」


 手にお菓子を持っていた。クラウスだった。彼は使用人の通路を使ったようだ。

 アデイラは突っ伏していた顔を上げた。その頬に幾筋もの涙が流れている。


「君の泣いている顔が見たかったんだ」


 言葉とは裏腹に、クラウスは辛そうだ。


「ヘイブレアンに帰るの」


「君の心を、故郷の美しい湖が癒してくれることを願っているよ」


 クラウスに引き留められなかった。

 彼は自分を“買って”くれない。当然だ。わざわざ面倒な娘に金を出さなくても、彼ならば選び放題だ。

 思えば一度だって愛の告白も受けていないのに、どうして自分は彼に選ばれたと思ってしまったのか。

 しかし、ならばどうして、彼は自分に我儘を許したのだろう。どうして危険を冒して会いに来てくれたのだろうか。

 

「ドレスは……持って行けないの。着るような場面もないし、見せたい相手もいない。

折角、誂えてくれたのに、申し訳ないけど……そちらで処分して下さらない?」


「分かった。そうするよ」


「たくさん作って下さったわね。

母の真珠ではとても賄えなかったはず。

売ったら、少しは返済に回せるかしら?」


「アデイラ……」


 クラウスがお菓子を置いて、アデイラの背に手を回して、その身を起こす。


「君は私の選んだドレスを黙って着てくれたね。

知っていたと思うけど、私は自分が君に着せたいドレスを、勝手気ままに着せていたんだ。

まるで着せ替え人形のように……」


 「ねぇ、アデイラ」クラウスはアデイラの涙をハンカチで拭って、それを彼女の手に握らせる。「着せ替え人形で遊んだ後に、その人形に今まで着たドレスの費用を返せ、なんて言う奴はいないだろう?」


「俺の可愛いお人形さん。だから何も心配いらない」


 クラウスは敢えて、アデイラを“人形”と呼んだ。彼のアデイラへの感情は、人ではなく、人形を愛でるそれだと言いたいのだ。


「私だって……文句の一つも言いたかったわよ。

でも、あなたの趣味、とても洗練されているのね」


 色も形も、アデイラ自身よりも似合うものを知っていた。「着るのが楽しみだった」認めるのが少し悔しい。


「私が口を出したドレスは一着だけだったわね。あのクレアとの観劇用のドレス。酷かったわ……」


「そうだね。あれは売れなさそうだから、手元に残しておこう」


「やめて……!」


 アデイラはクラウスの胸にすがりついて、顔を埋めた。「全部、売り払って。私がここにいた痕跡を残さないで」自分もこのまま消え去りたい。


「アデイラ……」


 彼の手が、空中で迷っていた。

 一度、温もりを感じたら、手離せなくなる。

 だからそっと、彼女の背中に彼の手が触れた時、アデイラは喜びに震えた。

 そうするともっと欲しくなる。


「クラウス」


「駄目だ。これ以上は」


「どうしても?」


 クラウスはアデイラの両肩を掴み、力いっぱい押し離した。


「君は王妃になるんだろう? 男の存在を知られたら、君の立場がなくなる」


 王には愛人が数多いるのに、王妃になる娘には純潔を求められるのだ。

 アデイラには銀色の頭頂部しか見えない。肩に置かれたままの手を通じて、震えているのが分かった。


「王妃にはならないわ。お兄さまが断って下さる」


 震えは止まったが、代わりに手に力がこもった。


「じゃあ、言い直す。君が夫となる男に、だ」


「やめてよ。本当に嫌。そんなこと考えたくない。あなた以外に許したくない」


 クラウスが顔を上げる。両手でアデイラの顔を包む。そのまま唇が近づいて来るが、寸前で止まった。


「――いいや、考えるんだ。舞踏会に出て、立派な男と出会って、結婚する未来を。

それまで自分を大切にしないと」


 そう言いながら、クラウスは耐えきれずにアデイラの唇を自分のそれでそっと触れた。彼の唇は冷たく乾いていた。それなのに、なんて熱く感じるのだろう。

 アデイラの喉から切ない声が漏れた。もっと欲しいのだ。これでは足りない。自分の中にこれほどの欲望があると、生まれてはじめて知った。戸惑いや恥じらいを感じるが、それ以上に、この感情を彼女に与えた相手に満たしてもらいたい気持ちが先立つ。だが、厳格なディモント公爵家で育った彼女には、男女の営みについて知らないことが多すぎて、どう迫っていいのか分からない。クラウスからもらったハンカチを握りしめる。


「頼む、アデイラ。君の将来をこの手で壊せと言うのか?」


「どうなっても構わない」


「いいや、駄目だ!」


 クラウスはアデイラから決然と離れた。ソファに置き去りにされたアデイラに、彼は告げる。


「君を俺の母親と同じ目には合わせられない」


 ああ、とアデイラも水をかけられたように冷静になった。無知な娘でも、理解出来た。

 

「……ごめんなさい。私、もう我儘は言わない」


「アデイラ……!」


 クラウスがアデイラの元に戻ってきた。先ほどよりも強く、彼女を抱きしめる。


「はじめて会った時、君はなんて気高くて美しいのだろうと思ったんだ。

こんな気持ちははじめてで、それを否定する為に、君の高潔さを疑い、欺瞞を暴こうとした。

だから君に我儘を言わせるように仕向けたんだ。貴族のお嬢さまなんて、所詮、そんなものだと思わせて欲しかった。

そうすれば、君に惹かれていく自分を押しとどめられるはずだった。

だけど君の我儘を言う姿も魅力的だった。

君の我儘を全部叶えてあげられる人間だったら良かったのに。

金では解決出来ないことばかりだ。公演チケットも生い立ちも」


 アデイラは信じられない想いで彼を見上げた。はじめから? ケネスが見抜いた通りだった。

 クラウスは見てはいけないものを目にしたように、顔を背ける。


「俺は君に相応しくない男だ。不義の子で、恩義ある育ての親を裏切った。挙句に、復讐の為とは言え、血の繫がった妹と婚約までした。復讐! ……アレマ氏が知ったら、どんなに嘆くだろう。父は……そう父だ。あの人こそ、俺のたった一人の父だった。その父に、人を恨むよりも、許すことを教えられたと言うのに」


「あなたは、ちゃんとお父さまの意思を受け継いでいたわ。

あなたは復讐しようとはしていなかった。

君主に協力して、悪徳商人を追い詰めたら、それが実の父親だっただけの話だわ。

私が……あなたに復讐なんて余計なことを言ったせいで、苦しめてしまったのね」


 あの「復讐なの?」と問いかけられた時のクラウスの驚いた顔。思ってもいなかったことを指摘されたという表情だった。


「いいや、あれは復讐だった。

君に指摘された時、気が付いた。

正直、あの話を持ち掛けられた時、面倒だと断ろうとしたんだ。

どうして俺にそんなことを命じるのか分からなかった。俺は商人だ。そういうのは官憲がすることじゃないか? って」


 イルタリア帝もサイマイル王も、クラウスがクレイスフォルツの子と知って、利用しようとしたのに、当の本人はその意識が薄かった。


「それなのにいつの間にか躍起になっていた。

心の中で、ずっと復讐の機会を窺っていたんだろうな。

君こそ、俺の欺瞞を暴いてくれた」


 「最低な人間なんだ、俺は」と自嘲するクラウスに、アデイラはもどかしくて堪らない。


「どうして? あなたは立派な人よ。

たくさんの人が苦しんでいるのを知って、懸命に使命を果たしたの。

クラウス、私を信じて。あなたはアレマ氏の息子。他人の為に自分を犠牲に出来る。誠実で優しい人よ」


 あの「復讐なの?」と問いかけられた時と同じような表情が、クラウスの顔に広がった。


「アデイラ。俺の美しい真珠。君は俺を救ってくれたのに……これ以上、俺は君に何もしてやれない」


 クラウスはアデイラに別れを告げて身を離し、元来た使用人用の通路から、音も立てず去って行った。

 アデイラはソファに崩れ落ち、自分の身を抱きしめた。クラウスの与えてくれた温もりを、失いたくなかったからだ。

 しかし、時は無情に、彼女から彼の気配を消していく。涙を拭こうとしたハンカチはクラウスのものだった。


「忘れられるかしら? あなたを――クラウス。愛しているわ」

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