03:第一場_橋の上 身を落とす
フリードリヒは軽く目を見張った。内心はもっと驚いているようだが、それを表に出すのは抑えたようだ。
「あなたを-―ですか?」
「ええ、私を」
「あ、そうですよね。
それはさぞやお辛いことでしょう。
お相手には何か、深い事情があったに違いありません」
最初の反応こそ、想像とは違ったが、その後は、思った通り、フリードリヒはひどく同情してくれた。
「そんな難しい話じゃないわ。
ただ、イーサンがパメラを私よりも好きになっちゃっただけ」
「イーサン? パメラ?」
「私の婚約者……っと、元婚約者とそれを奪った私の従姉よ」
ゲルトルートは簡単にことのいきさつを話した。
父の企みについては口を閉ざしたが、フリードリヒの言葉に、つい驚いて叫んでしまった。
「え! 婚約破棄されない!?」
フリードリヒはゲルトルートの思わぬ大声に、周囲を見回す。
「少し声を抑えてお話しした方がいいですよ。
婚約破棄について、知られてはいけません」
「そうですよね、こんな話、恥ずかしいですよね」
それでなくても貴族と裕福とは言え平民の結婚は、あれこそ言われる組み合わせだ。
ゲルトルートは川の上流に目をやった。
この先の、ずっとずっと先にあるディモント公爵領の令嬢が、一年前、やはり商人と結婚し、「金のために売られた」などと散々な言われようだった。
それを聞いたパメラは最初、「いくら貧しい領地を助ける為とは言え、平民なんかに嫁ぐなんて、よくも出来たものね」と軽蔑を露わにしたが、結婚した公爵令嬢、今はホール夫人と呼ばれている彼女が、夫から溺愛され、莫大な資産を好きに使わせてもらっているという話を耳にし、「公爵令嬢は賢いわ。私も名誉なんかよりも、自由になるお金が欲しい」と目を輝かせることになる。
そうなった経緯には、パメラ自身の環境の変化も大きく影響していた。
父親のノートゼーヘン男爵が亡くなり、先妻の長男がその跡を継いだのだ。兄は妹のパメラに対し、一家の長として相応しい態度で接することにした。すなわち、彼女の過度の浪費を戒め、使えるお金を制限する。
そして、名誉ある結婚を望んだ。相手は爵位はあるが、兄に似たしまり屋のようだった。
そこから逃れる方法として、パメラは公爵令嬢に倣うことにする。
彼女の視線が、また海の方に向いた、その目に、小さな船が我先にと移動しはじめるのが映った。
沖合に新しい船が着いたのだろう。
フリードリヒは、ゲルトルートの視線があちこち動くのを見て、自分が余計なことを言ったせいで、周囲の目を気にしはじめたと思ったようだ。
「私はそうは思いませんが、いろいろ言う人間が多いのも事実ですから。
まったく、無関係な連中ほど、好き勝手に言うものです。
自分の暇つぶしで他人の不幸を消費し、傷つけた挙句、少し経てば、すっかり忘れてしまう。
無責任なんですよ」
彼の口調に、憤りが滲んでいた。ゲルトルートはその怒りの強さに引っかかる。
まるで彼も過去に、あれこれ言われたことがあるようではないか。
改めて、目の前の青年を見上げる。
髪の毛は灰色で短く刈り込んであって、瞳は青く、目の下にうっすら傷があった。そのせいもあって、強面なのだが、笑うと愛嬌があって素敵だ。
性格は真面目そう。ただ、ルルー嬢にしたように、全く融通が利かない堅物でもないようだ。
そんな彼に、どんな不幸があったのだろう。
「あの――」
フリードリヒの顔が赤くなっている。
「ごめんなさい、不躾な真似をしました」
ゲルトルートは急いで目を伏せた。彼のことを知りたくてたまらない。
「とにかく、国王陛下から特別な許可を得る申し出はしてあるのですよね?
それをやっぱりやめましたと取り下げするには、よほどの理由が必要です。
王命を軽んじていると思われ、身代を取り上げられてもおかしくありません」
イーサンがなんと言おうとも、婚約はまだ有効だ。
ありもしないことを、あると言ってはいけない。そういう意味だった。
「ですから心配しなくても……いえ、そういう問題ではありませんでしたね」
ゲルトルートの顔が青ざめていた。不意に絶望が襲ったのだ。彼女はこれから、自分を裏切った男と結婚し、人生を共にしないといけない。
けれども、その結果を招いたのは、ゲルトルートだった。
「私がいけなんです。
私が……イーサンの愛情を試してしまったから。
私は罰を受けて当然だわ」
「どうしてそんな……」
フリードリヒが困惑しているのを見て、ゲルトルートは彼に嫌われてもいいから、本当のことを話そうと決めた。彼がかつて得たであろう苦しみは、自分とは共有できないものだからだ。それなのに共感してもらうのは、申し訳ない。
「私、父から、無理に結婚に応じなくとも『一旦、婚約してから、うまいことパメラにイーサンを押し付けてしまえばいい。そうすれば、こちら側は被害者なんだから、賠償金代わりに借金をチャラにしてもらえるかもしれないぞ』と言う提案を受けたんです」
ゲルトルートの告白に、フリードリヒはさすがに遠い目になった。
「イーサンは父の開く勉強会にたびたび、顔を出していたんです。元は父親のマッジ氏が参加していたんですが、最近は、一人でも来るようになっていました。
パメラも私に会いに来ていたから、もともと、顔見知りではあったんです」
パメラはイーサンのことを「金はあるけど、野暮ったくて、気の弱そうな男ね」と見下げていたはずなのだが、先述の通り、お金のある御しやすそうな男だ、と考えが変わったようだ。
「いつの頃からかしら、イーサンがトワーズ伯爵邸に来ると、パメラがやって来るようになっていたんです。最初は偶然だと思っていました。本人も『あら偶然ね』って、言ってましたし」
けれども、考えてみれば、パメラがゲルトルートを訪ねて来るのは、新しいドレスが仕上がったとか、とにかく何か自分の持っているものを見せびらかしたい時だけだったはずだ。
「そして、頻繁だったわ。
さすがに変だとは思ったの。
そしたら、父は『トゥルーデ、パメラはイーサンに気があるんだよ』と。
だから、婚約の話がもちかけられた時、すぐにあんな計画を思いついたんです」
フリードリヒがようやっとのこと、口を開いた。「あなたの父親という人は、一体、どういった方なんですか?」
「ねぇ、フリードリヒさん? この川を見てどう思いますか?」
突然の質問に、フリードリヒは面を食らったようだが、先ほどのゲルトルートのように川の上流を見てから、下流に目をやった。「そうですね……川幅が広くて、真っ直ぐだったら、と思います。上流の湖には豊かな水が湛えられているのに、蛇行しているせいで、中流では洪水が起きがちで、下流では水量が足りない。上手く調整出来れば、もっと有効に水を農地などに利用できるはずです。それから、港が一つしかなく、狭いせいで、荷下ろしに時間がかかる上に、物資を内陸に届けるにも、小さな船しか使えないのも問題です。……私は日雇い仕事で、船からの荷下ろしの仕事をすることがあるので、よく分かります」
今度はゲルトルートが驚いた。想像していた以上の回答だったからだ。
「父は、この川をそういう川に、いいえ、運河にしたいと考えています。
それでいろいろな人に自分の考えを広めようと、勉強会を開いているんです。
王さまに、何度も建白書を出しました。
でも、興味を持ってはいただけないようで――」
マッジ氏は荒唐無稽と笑われることもあるトワーズ伯爵の壮大な計画に賛同している人間の一人だった。彼はトワーズ伯爵に心酔しているようにすら見えた。
「だからたくさん“投資”してくれたんです。
一度に大きなことに挑戦するのではなく、まずは小さな実績を作って、世の中に、その有用性を知ってもらうのがいいではないか、と提案してくれて。
それで、港の一部を改修することになりました」
他の商人たちも同じ不便を感じていたことから、マッジ氏の呼びかけに多くの資金が集まった。
「でも、現地調査の結果が思わしくなくて……その数倍のお金が必要なことが分かったんです」
計画は休止され、それまでの費用も回収できない。
マッジ氏は商人たちからも突き上げをくらっただろう。
「そんなマッジ氏から父はまだ、お金を巻き上げようとするんです」
それでこれ以上、金を出して欲しかったら、娘を寄こせ、という考えに至ったに違いない。あるいは、最初から、それが目当てで、トワーズ伯爵に近づいたのかもしれない。
ゲルトルートは結婚には及び腰だったが、仕方がないと思ったのだ。
「いつかは誰かと結婚しなければいけなんですもの。
もし、あの港の小さな改修工事が成功すれば、少なくとも、私の結婚には意義があると信じられるかもしれない」
ゲルトルートも、ディモント公爵令嬢の在り方に、パメラとが別の意味で、感銘を受けていた。
あのディモント公爵家の令嬢ほど大きな意義ではなくても、ね――。
声にならないほどの小ささで発せられた言葉に、フリードリヒの身体が、一瞬、震えた。