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29:第十二場_ホール氏の屋敷 強く反発する

 ホール邸に戻ると、アデイラはクラウスの書斎に向かった。

 どうしても会いたかった。呼びつけるのではなく、自分が会いに行きたい。


「まずはお礼を言わないと。そうだわ、私、一度も、言ってなかった」


 彼を誤解していた。自分のことをずっと大事に守ってくれていたのに。


 しかし、書斎に入ると意気消沈する。クラウスが物思いにふけっていたからだ。ひどく沈痛そうで、それなのにどこか嬉しそうでもある。

 重厚な机の上に、白い封筒が置かれていた。


「クラウスさん?」


「やぁ、帰ったの? おかえり」


「ただいま」


「外は楽しかったかい?」


 アデイラは帽子を脱ぐ。きっちりと結い上げられた髪の毛は、一筋の乱れもなかった。


「疲れたわ」


 多くのことを聞いた。興奮だけが、彼女の身を動かしているのではないかと思うほど疲れている。


「お腹はすいていない? すぐに食事を用意させるよ」


「お腹はいっぱい……食べて来たから」


 クラウスが片方の眉を上げた。公園に出店はない。けれども、追及しなかった。髪型に口を出して、彼女を泣かせたことを後悔しているようだ。ただ、封筒を取り上げるとアデイラに渡した。「チケットが取れたよ」


「え?」


 封筒を開けてみると、夢にまで見た観劇チケットが二枚入っている。


「お望みの席じゃないけど……」


「ううん、嬉しいわ!」


 アデイラが喜ぶと、クラウスの顔に嬉しさと痛ましさがまじりあった笑みが浮かんだ。

 一体、何があったのだろう。このチケットのせいなのだろうか。アデイラは聞きたくなったが、自分が立ち入ってよい領域なのか迷う。

 

「楽しんでくるといいよ」


 それとなく退室を促されてしまった。


「待って! あの、クレアを誘ってもいいかしら?」


 チケットが二枚あるからと言って、クラウスと並んで観劇は出来ないはずだ。アデイラは未婚の娘で、同じく独身の異性と二人で外を歩けはしない。だとすれば、チケットを譲ってもらう以上、誰を誘うべきか、その人選について承認を受けるべきだろう。

 

「クレア? あの宿の女主人と?」


 クラウスが不審がる。「なぜだい? ディモント公爵と行けばいい」


「そうだけど、兄は身体が大きいから、この席だと後ろの人の視界を邪魔するかも」


「それは……仕方がないだろう」


 誰だって、観劇する権利はある。


「そうなんだけど――」


 アデイラにとってクレアは特別な人物だった。

 その話を――彼女はクラウスにすることに決めた。彼もまた、彼女にとって特別な人間になっていた。

 だから、クラウスにだけだ。

 彼の側で立ったまま、せわしなく書類に目を通しているアーチボルトに視線を向ける。「ごめんなさい。大事な話があるの。外してくれない?」

 アーチボルトは書類を取り落とした。「いけません!」外出どころか、家の中だって、アデイラはクラウスと二人きりにはなってはいけないのだ。


「お願い」


「ディモント公爵に殺されます」


 先ほどもうっかり席を外したせいで、二人の間に何かしらあった気配を、アーチボルトは敏感に感じ取っていたのだ。ホール家の使用人は行儀が行き届いているので、誰もが見て見ぬふりをしていてくれている。

 そんな彼に、アデイラは食い下がった。帽子を握り締め、アーチボルトの目を見て、頼み込む。


「どうしても? 駄目かしら?」


 真っ赤になって床に散らばった書類を見るアーチボルトに、クラウスが声を掛けた。「ディモント公爵の怒りは私が引き受けよう。せめて隣の部屋へ。屋敷の人間には、一緒にいるように装ってくれ」

 それから“この我儘娘”と窘めるようにアデイラを見た。

 アーチボルトが続きの間に引っ込むと、クラウスは床の書類を拾い、整えながら聞いた。


「それで? 何を話したいの?」


「クレアは私の姉なの。腹違いの、ね」


 再び書類が散乱した。


「なんだって?

クレアが君の……姉? しかし、公爵家の娘がなぜ王都で宿屋の主人なんてしているんだ?」


「クレアは私の姉だけど、父の娘じゃないから。

私の母が後妻なのはご存知?」


「ああ、そうだったね。そうだ、君とディモント公爵は母親が違ったね」


 クラウスの淀みない受け答えに、アデイラは彼は自分のことを……ミラース家のことを、ある程度、調べていることを悟った。


「もしかして“マルガリータさま”のお話も……?」

 

 アデイラは恐る恐るその名を口にした。


「“マルガリータさま”?」


 さすがにその話までは知らないようだ。安堵と同時に、そこまで話して良いのか迷う。


「言いたくないのなら、別に――」


「いいえ! いいえ……聞いてもらいたいわ」


 アデイラは帽子を胸に抱いたまま、ソファに座り込んだ。「私も“マルガリータさま”のことをはっきりと聞いたのは、去年だったのだけど……」


「え?」


 ”マルガリータさま”とは、フリードリヒの母親で、王都の伯爵家出身の令嬢だった。

 公爵に見初められ、ヘイブレアンに嫁いで間もなく、子を身籠り、産み、そして死んだ。憐れな公爵夫人。

 それがアデイラの知っている“マルガリータさま”の話の全てだった。


「でもそうじゃなかった……私がはじめて王都に出て、不意に聞かされて驚かないようにって、ばあやが話してくれたのよ」

 

 マルガリータは、それこそ真珠のような令嬢だった。屋敷と言う殻の中で大事に育まれた、輝く美しさを持つ娘。

 先代のディモント公爵は一目で恋に落ちたが、マルガリータは求婚を拒んだ。両親も難色を示す。娘は神経質な性質だった。厳しいヘイブレアンでの暮らしに耐えられるか不安である、と。

 諦めきれない先代のディモント公爵は真珠を使った。大切に貯めていたヘイブレアンの真珠を、これまた先代の王に贈り、仲を取り持ってくれるように頼み込んだ。

 王は「マルガリータをディモント公爵に嫁がせるように」との命を下す。


「マルガリータさまは自分が買われたと思ったのでしょうね」


 マルガリータは泣きながらヘイブレアンに嫁いだ。先代のディモント公爵は彼女を深く愛していたので、必死に妻の歓心を得ようと努力した。いつしか心を通わせられると信じていたのだ。

 しかし、儚げな印象で流され易いと思われたマルガリータだったが、その意思は強かった。夫に歩み寄ろうとも、その気持ちを汲もうともする素振りも見せない。

 そして、ヘイブレアンを憎んだ。王都から遠く離れた陰気で貧しい土地。絶望の地。

 マルガリータがヘイブレアンの食べ物は吐き気がすると言うので、先代のディモント公爵は別の土地から口に合うものを取り寄せることまでしたらしい。


 そうこうしている内に、彼女は身籠った。

 マルガリータは妊娠が分かると、ますます頑なになる。我が身に宿った命すら呪い、ほとんど何も食べようとしない。

 それでも月日は満ちた。

 あらゆる怨嗟の言葉の果てに、子どもは産まれた。


 それがフリードリヒだった。


 マルガリータは我が子を抱くことも、乳を含ませることも拒絶して、三日後に亡くなる。


 「ああ」とクラウスが悲痛な声を漏らした。


 亡骸は生前の彼女のたっての願いで王都へ運ばれ、実家の伯爵家の墓に入った。

 フリードリヒは王都へいく度に、必ず母親の墓参りをする。ただし、母親の実家である伯爵家とは疎遠だった。彼らにとって、“ディモント公爵”は愛しい娘、姉、妹……を責め殺した人間なのだ。

 とは言え、お互いに貴族である以上、舞踏会で顔を合わせることは必至でもある。去年、社交界で披露された時、アデイラはフリードリヒによって、彼らに紹介され、慇懃無礼に対応されていた。ばあやから予め聞かされていなかったら、アデイラは酷く傷ついただろう。


「君の家の人間は皆、賢明だね」


 クラウスが感心してみせたように、アデイラがこの年まで“マルガリータさま”の話を知らなかったのは、周囲が不用意に口にしないように気を付けていたからだ。

 それはアデイラの為ではない。フリードリヒの為だった。

 “マルガリータさま”の話は、母親に望まれなかった息子の話でもあるのだ。幼い子には決して知られてはいけない、と――。

 フリードリヒには、分別がついた年頃に、父親の先代公爵が話した。彼は自身の罪を、息子に告げると言う罰を粛々と受けた。


 それで“マルガリータさま”の話は終わりだ。

 ここからはアデイラの母親・ミラース夫人の話になる。

 彼女はマルガリータとは反対の性格だった。

 豪快ですっぱりとした決断力があり、襲い掛かる困難を笑い飛ばす胆力があった。


「夫を亡くし、女手一つで娘を育てるために、領主の家に乳母として自分を売り込みました。乳の出がよいので、赤ん坊が二人でも三人だって、お腹いっぱいにさせられます。跡継さまを丈夫に育てますって」


 産声もかそぼいフリードリヒと、元気いっぱいのクレアを、彼女は必死に育てた。

 いつしか、領内から彼女をディモント公爵の後妻に迎えるのが良いではないか? という話が持ち上がる。

 “マルガリータさま”と違って、ディモント公爵によく尽くしているし、幼いフリードリヒは乳母を本当の母親のように懐いている。身分は低いが、後妻ならちょうどいい。


「父は母を愛したから結婚したんじゃないんです。ただ、兄に母親という存在が必要と考えた結果です。

母もそれを承知で求婚を受け入れました」


 そのことは隠されてはいなかった。

 だが、はじめてその話を耳にしたアデイラは戸惑う。まだ世を知らぬ幼い女の子は、夫婦というものは愛し合ってなるものだと思っていたからだ。


「とにかく、父の後妻に納まることになった母は、娘を養子に出すことにしました」


「なんで!?」


 クラウスの驚きに、アデイラは微笑んだ。「母は思い切りのよい性格なんです」


「それは聞いた。思い切りがよすぎる。一緒に育てれば良かったのに」


「私もそう思いました。

けれでも母は、実の娘が近くにいたら、つい可愛がってしまう。そのせいでお兄さまが寂しい気持ちになったり、僻みっぽい性格になってしまうことを恐れたそうです。

もともと、娘を育てるためにディモント公爵家に入りました。娘が元気で大きく育つなら、自分の手元ではなくても構わないと、決めたのですわ」


 それがいずれヘイブレアンを治めるフリードリヒの為となり――ヘイブレアンの民の為になるのだ。


「あなたもまた、公爵家の娘なのだから、と母は娘を送り出しました」


 公爵家の遠縁にあたる王都の家庭の養子になったクレアは母に似て、気風のいい娘に育った。自身の境遇を恨むことなく、王都で宿屋を経営し、ヘイブレアンからやって来る人たちをもてなすまでになった。

 ――アデイラのことを、姉として大事にしてくれる。


「立派な姉です。そして立派な母でした」


 ミラース夫人は夫に愛されなかったかもしれない。「公爵は繊細で儚げな女性が好みなの。それはもうどうしようもないのことなのよ」と、さっぱりしたものだ。「私だって、子ども()()の為に結婚したようなものだし。ねぇ、アデイラ。女には誇りを守り切るか、泥水を啜っても生きるか、どちらかを選ばなければいけない時がくるものよ。どちらが正しいかじゃないの。せめて、どちらを選ぶくらいは、自分で決めたいものね」

 そんな彼女を、公爵が邪険にすることはなかった。愛することは出来ないが、尊重することは出来た。皮肉なことに、狂おしいほど愛したマルガリータとの結婚生活よりも、ずっと穏やかで互いを労わる関係を築けたのだ。

 そして、もう一人、娘を授かった。アデイラはクレアと違った。誰もが人にはばかることなく可愛がれる存在。フリードリヒも妹を目いっぱい慈しんだ。


 「ふうん」と、クラウスからあの呟きが漏れた。


「だから君は、自分だけが幸せになったらいけないと思っているの?」


「え?」


「自分もマルガリータさまやミラース夫人、クレアのようにヘイブレアンの為に“立派に不幸”になるべきだと。

もしそうなら、母親や姉、そして兄からの君への愛情を裏切っている」


 鋭くて胸に刺さる指摘だ。アデイラが簡単にクレイスフォルツ氏の元へ行こうとしたのは、根底にその思いがあったからだと気づかされる。


「私――」


「ああ!」


 突然、クラウスが頭を抱えた。


「俺は馬鹿だ。俺こそ両親の愛情を裏切った大馬鹿者なのに、君に説教するなんて!」

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