23:第九場_ホール氏の屋敷 無価の真珠
フリードリヒはアデイラの姿を見ると泣いた。
それはもう号泣した。「良かった。アデイラ。無事で、本当に良かった」
兄が泣くところを見たことがないアデイラは動揺する。
「お兄さま……!
ヘイブレアンの人間は泣かないと教えて下さったのは、お兄さまではないですか。
お父さまが亡くなった時でも、お兄さまは泣かなかったのに」
「亡くなった人間はいくら嘆いても戻ってはこない」
厳しい土地で生まれ育ち、そこを治めるディモント公爵はある意味、冷酷だった。諦観と言ってもいい。しかし、妹に対しては違う。
「だがアデイラには将来がある。
私が不甲斐ないせいで、とんでもない間違いを……私はお前を父上とミラース夫人から預かったんだよ。お前には不幸にはさせられない」
「私……」
こんなにも自分を心配してくれる兄を前に、アデイラは自分の心が冷えたのが分かった。
「そうやって自分一人で重荷を背負って、私には何も手伝わせてはくれないのですね」
「アデイラ……私のことを案じてくれるのなら、こんな馬鹿な真似は二度としないで欲しい」
「馬鹿な真似じゃないもの」
あの夜、散々、自分の愚かさを罵ったはずなのに、アデイラは兄を前にして、それを認め、反省することが出来なかった。新しいドレスのスカートが皺になるほど強く握りしめる。束ねていない髪の毛が顔にかかった。
「いいや、馬鹿な真似だ。
クレイスフォルツ氏なんかに身を任せようとするなんて!
あいつは――」
そこまで言って、フリードリヒは首を振った。アデイラを非難するだけではいけないと思い直したのだ。
「そうだね、アデイラ。
お前は公爵家の娘として、義務を果たそうとした。
立派な心掛けだと思う。
ディモント公爵の自慢の妹だ。けれども、同時に私の大事な妹なんだ。ディモント公爵ではなく、私の、だよ。
分かるか? 分かって欲しいんだ……お願いだから」
アデイラの頑なな心にも、フリードリヒの必死の訴えは、ちゃんと響いた。ここで意地を張っても仕方がない。
「ごめんなさい――」
ようやくその言葉を口に出来た。すると後悔の波が押し寄せアデイラの涙腺も決壊しそうになった――が、視界の端に銀色が映る。
ぐっと涙を堪えた。
ヘイブレアンの人間は泣かないのだ。そうクラウスに言った手前、自分まで泣く訳にはいかないだろう。
おまけに彼はそれを期待していたようだ。「なんだ。君が泣くところを見たかったのに」
ますます涙が引っ込み、頬は膨らんだ。
「兄は、ずっとここに居たんですね」
少なくともリーゼロッテがホール家の使用人になった時には、すでにフリードリヒはこの家に来ていたはずだ。クラウスがクレアの宿に連絡したのだろう。
「やっぱり、気が付いていたんだ」
ヘイブレアンに縁の食事はクレアが作ったのか、もしくは、作り方を伝授したとしか思えない味だった。
「どうして教えてくれなかったの?」
「君が聞けばよかっただけの話だ。
私のことは何度も呼びつけたくせに――そうしなかったのは怖かったからだろう?」
どう考えても、クラウスはアデイラの心身が落ち着くまで様子を見ていてくれたに違いない。彼女には内省する時間が必要だったし、激しい感情の起伏は病身に障った。今だって軽く眩暈がしている。
それなのに、なぜか拗ねたような、責めるような口ぶりになってしまう。
「あなたって酷い人ね」
クラウスは片方の口の端を上げて笑ったが、フリードリヒは妹を窘め、同時に擁護した。
「クラウス殿、申し訳ありません。
普段の妹はこんな我儘で恩知らずな人間ではないんです」
「――いいえ。公爵閣下、お気になさらずに」
妙に満足気な様子のクラウスが、上着の裾を跳ね上げるようにしてアデイラの向かい側のソファに座った。
それから兄妹に座るように促した。
フリードリヒも妹を支えながら、ソファに腰を下ろす。「アデイラ、まずはクラウス殿にお礼を言わなくてはいけないよ」
アデイラが一人でホール邸にいれば、あらぬ噂の的になる。それを防ぐために、フリードリヒが当時王太子だったグスタフに付き添って神聖イルタリア帝国に留学した際、クラウスと知り合いになり、今回の王都滞在中、世話になることになった。一緒に来たアデイラは旅の疲れで寝込んでいる。と言うことにしたらしい。
兄がすっかりクラウスを信用している様子に、アデイラは不安になる。
「この人、クレイスフォルツ氏を騙して、財産を奪ったのよ。
私たちも、ここでの滞在費や何やらを請求されて、家を乗っ取られるかも」
さすがに腹違いの妹と婚約していたことは伏せた。
クラウスがすぐに兄を呼んだと言うことは、「自分を高く売って欲しい」というアデイラの提案は却下されたのだ。
それならばこの親切の理由を知りたい。彼との初対面がお家乗っ取りだったのだ。アデイラの疑惑は無理もない。
「それに関しては心配するな。お代はちゃんと払っている」
「お代? まさかお兄さま、あの真珠を渡しちゃったの?」
フリードリヒは頷いた。
「駄目よ! あれは小麦を買うための資金なのよ。
私が――」
「アデイラ!」
制止する兄の言うことなど聞かず、アデイラは部屋の隅にまとめられていた彼女の旅の荷物を漁った。
荷物はそっくりそのままで、薄汚れたままだ。よくハリエットが窓から投げ捨てなかったなと思うと同時に、あの辛い旅を思い出す。
荷物の中から出て来た手の平に納まる木箱を握り締めた。
「クラウスさん、兄と私の滞在費はこれで払います。兄の真珠は返して下さい」
アデイラから受け取った木箱を開けたクラウスはやれやれと言った風に肩を竦める。片手で木箱を弄ぶのを見て、アデイラは焦れたように催促した。「開けてみてよ」
木箱を開けたクラウスは目を見開いて、しばし絶句した。
「これは……これが“ヘイブレアンの真珠”?」
木箱の中には、限りなく球状で、親指の爪ほどの大きさの真珠が入っていたのだ。
自然が生み出す真珠で、これほどまでのものは、滅多に出てこない。
「これは……」
さすがのクラウスも言葉が上手く出てこない。
「それはアデイラの母上の真珠だ。形見なんです」
フリードリヒがクラウスに訴えた。「ミラース夫人が亡くなった日に……」視線を巡らせ、リーゼロッテがいないことを確認する。「最後に採っていた貝から出て来た真珠です」
ヘイブレアンの湖で採れる真珠は、ある例外を除いて、ディモント公爵の所有物と決められていた。
アデイラの持つ真珠は、その例外には当てはまらなかったが、母親の形見として持つことを許されたのだ。
彼女が公爵家の娘であることが大きかったのは言うまでもない。
「ふうん」と、クラウスが呟いた。彼はフリードリヒの話に感銘を受けた様子は見せず、木箱の蓋を閉じた。
「この価値がどれくらいあるか、君は分かっていない……いや、分かっているかな。
今後一切、ここでの暮らしにかかる費用についてあれこれ言わないと約束すれば、これを受け取ろう」
「いいわ。
貸し借りはなしよ。
お兄さまの真珠は返して」
「それは出来ない」
「どうして!?」
アデイラがクラウスに詰め寄った。クラウスはそれを無視して、フリードリヒに話しかける。
「私としては、先だってお話している通り、サイマイル国王と知己があるディモント公爵と親しくなれることは利益になります。
私は異国人で、この地で新しく商売をはじめたばかりなので、そういった人脈は大事です。
ですので、これも必要経費ですが……」
木箱を見る。それから公爵家の兄と妹も。皮肉っぽく笑った。
「あなたたち誇り高い兄妹は、私のような商人に借りを作りたくないようなので、アデイラ嬢の真珠を受け取りましょう。
そしてディモント公爵の真珠は、私が適正な価格で引き取って、小麦に替える。いかがですか?」
フリードリヒはクラウスに握手を求めた。
「まずは不快な気持ちにさせてしまったことをお詫びします。
ですが私はサイマイル王国の国防を担う人間です。異国の方との付き合いには慎重にならざるを得ません。ご理解いただきたい」
「心得ております。こちらこそ、失礼な物言いでした」
「その上で、感謝いたします。
あなたと、そして慈悲深きイルタリア帝に」
なぜそこに神聖イルタリア帝国の皇帝が出て来るのか、と首を傾げるアデイラにフリードリヒが教えてくれた。
「お前が寝ている間に、小麦の価格が落ち着く目途がついたんだよ」
サイマイル王国の同盟国であり、大陸の盟主を自認する神聖イルタリア帝国が、今年も豊作だった自国の小麦の輸出を大幅に許可したのだ。
「ちなみに、私がその小麦を取り扱っている。ホール家は帝室の御用商人なのでね」
神聖イルタリア帝国は小麦の輸出入を厳しく管理していた。輸出する数量、配給方法などついては両国の役人が決めるが、その運搬や保管に関しては、常に商品を扱っている商人が携わった方が効率が良い、と言うことらしい。
「これで安心しただろう?」
フリードリヒは労わるようにアデイラの頭を撫でた。
しかし、アデイラの表情は浮かなかった。




