21:第九場_ホール氏の屋敷 令嬢の推し活
リーゼロッテはホール邸の使用人になっていた。
「私、お嬢さまに甘えていました。
それでお嬢さまのお気が済むのなら、私はそれでも構いません。
でも、もしかしたらもっと役に立てる存在になれるかもしれない。
そして、その方がずっとお嬢さまにも、自分にも……良いことだと思ったんです。
その為には、まず、ちゃんと一人で生きて行けるようになりたいんです。
ここで働いて、勉強します」
「ごめんなさい」と頭を下げる。
これまでなら簡単に「いいのよ」と言えていたアデイラだったが、今は違う。
「お、脅されたり、していない?」
「? いいえ。それどころかお菓子をもらいました!
あ、いえ……」
ハリエットが咳ばらいをする。リーゼロッテは慌てて居住まいを正す。
「ホール家では使用人とはきちんとした契約を結びます。
お給料がいくら出るとか、お休みがどれだけあるのかなど、リーゼロッテに契約書を見せながら、一から説明をしました。
そして双方が納得した時に、署名するのです」
「この子は読み書きに、計算まで出来るのですね」とハリエットは感心したように言った。
アデイラが一から教えたのだ。
それに――と、ハリエットが続ける。
「リーゼロッテは私たちの説明で分からないところがあれば、物怖じせずに質問をしました」
それは簡単なようで、実は難しいと言う。
「これからたくさんのことを学ぶ必要があります。
そのためには、知らないことは知らないと認め、人に聞く姿勢が大事です。
リーゼロッテにはそれが出来ます。
私たちはそこを評価して、彼女を雇うことにしました」
ハリエットはアデイラに微笑む。
アデイラがリーゼロッテの疑問や質問に対し、丁寧に答えてきたからだ。リーゼロッテは聞けば答えてもらえると言う体験を持っている。自己肯定感が高いので、今後、邪険にする人間に出会っても、そう簡単にはへこたれない強さもありそうだ。
「リーゼロッテのことは心配ありませんよ」
「分かったわ。リーゼロッテが決めたことだもの。
ただ、お兄さまの許可が必要です」
ホール家ほどではないが、ミラース家にも雇用契約は存在している。
「それなら――っ!」
再び、ハリエットの咳払いが響く。
「それならばご心配なく。旦那さまが手配します。
それよりも、お嬢さま、何かお召し上がりになって下さい。
お嬢さまが粗略な扱いを受けているとディモント公爵さまに知られたら、リーゼロッテの就職の件も駄目になってしまいます。
それに私も旦那さまに叱られてしまいます。
食べられそうなものをいくつか用意しました。私たちのためと思って、一口だけでも食べていただけませんか?」
目の前に大小さまざまな食器が並べられた。
これまでのアデイラならば、そこまで言われたら拒絶出来るような性格ではない。
不安そうなリーゼロッテと、毅然としたハリエットを前に、アデイラは深呼吸をした。
「クラウスさんにお目にかかりたいわ。
クラウスさんを呼んできて下さい」
「……旦那さまはお仕事中です」
「今すぐ呼んで。
そうしたら何か口にするわ」
ハリエットの口が開いて、また閉じた。一礼をすると、部屋を出て行く。
「お嬢さま、ホール氏に会ってどうするんですか?」
リーゼロッテに問われたものの、実はアデイラもなぜ彼を呼んだのか分からなかった。
なので、本当にクラウスがやって来て、「私に何か用ですか?」と聞かれた時、どうにも答えられなかった。
ただ鼻の奥がつんとした。
「用があったから呼んだのでしょう?」
仕事中だったはずだ。彼はその手を止めてやって来てくれた。アデイラはその好意を無下にする言葉を告げる。
「いいえ。ただ呼んだだけ」
「はぁ?」
「呼んだら本当に来るのかどうか、試してみたかったみたい。
もう用は済んだみたいだから、お引き取りを」
「なんだって?」
クラウスは信じられない、と言った顔になった。アデイラの口元に笑みが浮かぶ。
「あなた、私に公爵令嬢らしくもっと我儘で、高飛車になれって言ったわ。
だからそうしているだけ」
「私に対してそうしろとは言わなかった」
「あなたが練習相手になってくれなかったら、誰に対してそうすればいいの?
まさかリーゼロッテやハリエットにやれと? 嫌よ。
じゃあ、そういうことで。よろしく」
あまりのことに唖然とし、立ち尽くすクラウスに対し、リーゼロッテが小さな身体で胸を張った。「お嬢さまはお引き取りを、とおっしゃっています!」
慌ててハリエットが窘める。「リーゼロッテ、あなたはもうホール家の人間です!」「あ……」
「そうはいかない!」
クラウスはアデイラの枕元に歩み寄った。
アデイラは思わず、自分の寝間着の胸元を握る。
「私が来れば何か口にすると言ったな?」
「そうだったかしら?」
アデイラがとぼけると、さすがにハリエットが進み出た。「私は確かにそう聞きました」
クラウスが銀の匙を取り「どれが食べたい?」と聞く。返事をしないと、クラウスは紙のように薄い磁器で作られた椀を取り上げる。縁は金色で、繊細な花の模様が描いてある。そして、アデイラの脇に座ると、その中身を一匙掬った。
「これはすり下ろした林檎にレモン汁を加えて、蜂蜜を足したものだ。
これなら口に合うだろう」
「え……」
目の前に差し出される匙を、今度はアデイラが信じられない思いで見つめた。
クラウスから匙を受け取ろうとしたが、かわされる。
しかたがなく、アデイラはクラウスの手からすり下ろした林檎を食べる。
「どうだ?」
「……もっと酸っぱい方が好みだわ。
ヘイブレアンの林檎は酸っぱいの」
ハリエットが軽く目を瞑った。我儘が過ぎる。
だが、クラウスは気に入ったようだ。にやりと笑う。
「他には?」
その問いかけに戸惑うアデイラに、クラウスは慇懃に続けた。
「他にご所望のものは? とお尋ねしました。
新しいドレスで部屋を埋め尽くしたいとか、首の骨が折れそうなくらい大きな宝石を身に着けたいとか?」
どうやらもっと我儘を言え、と言っているようだ。面白がっている風でもある。
アデイラは唇を噛む。もう精一杯だ。これ以上、何も出てこない。
我儘を言うのは、泣くのと同じくらい疲れるようだ。
目の前の銀色の青年が勝ち誇ったように微笑む。
商人だけど、役者みたいに綺麗な顔ね、と憎らしく思う。
「あ……!」
「何?」
思いついた。
「私、王都で舞台観劇をしたい!
今、王立劇場で公演している劇団の、そこの主演俳優のオリヴィアさまが贔屓なの」
ヘイブレアンには数年に一度、劇団がやってくる。
それを皆、楽しみにしていた。
アデイラがはじめてその劇団を見たのは、まだ五歳の時だ。一瞬で魅了された。特にオリヴィアと言う役者にくぎ付けになった。
「すごかった。
何がどうって、言葉には出来なかったけど、人はあんな風に、全く違う人になれるのね」
リーゼロッテが飛び跳ねた。「私も何度か見たことがあります! もう夢のようでしたわ」
「ヘイブレアンは王都から遠く離れているし、興行をしたとしてもそれほど儲けは出ないの。
父は領民を楽しませようと、必要な経費を手出しをしたり、公爵邸を宿泊のために貸したりして、なんとか彼らを呼んでくれた。
だから私は、公演中はいつでも好きなだけ観劇出来たわ」
そう説明しながらアデイラは、自分はなかなか我儘な娘だったと気が付いた。多くの領民は鈴なりの立見席で人の頭の隙間から見るだけでも、生涯の思い出としていたと言うのに。
それどころか、アデイラはオリヴィアと食事を共にしたこともあるし、彼ら家族向けにちょっとした芝居の一部を見せてくれたこともある。自分もやってみたいと訴えるアデイラに、簡単な演技の手ほどきもしてくれた。
「私、去年、社交界に披露されたのだけれども、その時も王都で観劇したのよ。
国王陛下がお席を用意してくれて、兄と一緒に観たの。
二階の真ん中の桟敷席だったわ。オリヴィアさまがたくさん目線をくれた。
……国王陛下のおこぼれだったかもしれないけど、嬉しかったわ」
「国王……陛下?」
クラウスがどんどん困惑していくのだが、アデイラは止まらない。
熱は下がっているに、顔は紅潮し、瞳が潤んでいる。
「そうよ。兄とグスタフ陛下は同じ大学で学んだ学友なの。
貴族の娘は社交界に披露される前に国王陛下にご挨拶するでしょう?
それが終わった後、お祝いにって誘って下さったのよ」
「お嬢さまは国王陛下に“ヘイブレアンの真珠”と称えられたんですよ!」と、リーゼロッテが我がことのように自慢した。
「そう言えば、そんな話を耳にした……」
「それだけじゃないの!」
アデイラは王の賞賛などどうでもいいとばかりに遮った。
「何が……それだけじゃない??」
「楽屋に挨拶に伺ったの!」
「そ、それは……良かったね」
「ええ。直接、感想を言えて良かった。だって、素晴らしかったんですもの。
見るたびに、オリヴィアさまの演技は磨きがかかっていく……。
何度も思い出しては、新しい発見があって、だからお手紙も書いたの」
サイマイル王国の領主は国王に定期的に報告をする必要があった。その手紙にオリヴィアへの手紙を混ぜたのだ。
「グスタフ陛下にオリヴィアさまにお渡しくださいって頼んだの。
そうしたら聞いてよ、なんと! 返事が――」
「待って、待って!」
「もう! 何よ!」
君、国王陛下を使い走りにしたの? とクラウスが笑った。




