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20:第九場_ホール氏の屋敷 見直しを迫られる

 アデイラが目覚めた時、側でリーゼロッテが眠っていた。


「お嬢さま! 目が覚めましたか?」


「ええ……」


 素早く室内を見渡すが、二人の他に人はいない。着ていた寝間着もそのままだった。

 

「リーゼロッテ、ずっとここにいてくれたの?」


「そうです! あの……ちょっと寝てしまいましたが……」


「いいのよ。あなたも疲れているのでしょう」


 するとリーゼロッテは首を横に振り、強い否定を示した。

 それから、旅の間中、アデイラが自分の食料をほとんど分けてくれていたこと、寝ずの番をしてくれていたであろうことを、ハリエットから聞いたと言った。「私がついてきたばっかりに、お嬢さまにいらぬ苦労をさせたのですか?」


「そんな風に言っては駄目よ、リーゼロッテ。

あなたがいたから、私、ここまで来られたの」


 リーゼロッテを守らなくては。

 ヘイブレアンの民を救わなくては。

 だって、私はディモント公爵の妹なんだから。

 それがアデイラの原動力……のはずだった。


 その時、「ふうん」とクラウスの呟きが、扉の方から聞こえてきた。

 今日は少し砕けた格好で、濃い緑色の上着に、艶のある灰色のトラウザーを履いている。

 腕を組んで、寝台にいるアデイラを見下ろすように立っていた。


「そうやって、自分に犠牲を強いることが好きなんだ。

そうすれば、自分は素晴らしい人間でいられるから?

君はリーゼロッテを利用している。偽善者だよ」


 思いもかけないクラウスの指摘に、アデイラは言葉を失った。何を言われているのか理解出来ない。

 代わりに、こちらもよく分からないなりにリーゼロッテが憤った。


「何の話ですか? お嬢さまに何を言っているんですか?

偽善者ってなんですか?

お嬢さまはお優しい人です。失礼なことを言わないで!」


「ご主人さまに忠実だね、リーゼロッテ。

彼女は君に優しくしてくれるだろう?

とても侍女とは思えない無礼な言動をしても叱られない。ご主人さまの方が我慢してくれる。

それって本当に君の為になっている?

彼女は君を“善良なる公爵令嬢”を飾るための道具としか思っていないとは考えない?」


「……やめて、リーゼロッテにそんなこと言わないで!」


 震える声でアデイラも抗議した。絹のシーツを握りしめる。

 クラウスはアデイラを無視して、リーゼロッテに語りかけた。


「君は公爵令嬢からたくさんのものをもらっていると思っているけどね、ただ甘やかされているだけで、将来、役に立つような価値のあるものは何一つないよ」


 その言葉に、リーゼロッテは、はっと顔色を変えた。


「いいえ!

お嬢さまは一番大切なものを私に下さいました!」


 その勢いに、クラウスの表情も変わった。彼は自分が入ってはいけない場所に、土足で踏み込んだことを知ったのだ。


「私、ミラース夫人の命をもらったんです!

お嬢さまのお母さまの命です!

これより価値のあるものが、一体、この世にあるのでしょうか?」


 リーゼロッテはそこまで言うと、アデイラの方を見た。


「私はお嬢さまにどんな酷い扱いをされても文句が言える立場ではありません。

それなのにいつも親切にして下さって――だ、だからなんですか?

私に優しくしてくださるのは、本当は私のことがお嫌いだったからなんて……」


 アデイラは何も言えなかった。涙をこらえる為に、唇を強く噛んでいたからだ。

 寝室から飛び出たリーゼロッテを追って、ハリエットもいなくなった。


「すまない……よく、事情も知らないのに、言い過ぎた」


 クラウスが罪悪感にまみれた声で謝罪する。「ただ……」と言い訳しかけて止めた。「申し訳ない」

 アデイラは衝撃を受けつつも、クラウスの言葉を受け止めた。

 リーゼロッテが彼女にとって特別な存在であることは、ヘイブレアンの人間ならば皆、知っていることだった。そのせいで、二人の関係が歪だったことに、誰も疑問を持たなかったのだ。

 けれどもアデイラがリーゼロッテを大事にしていたことは事実なのだ。それを否定されたのは、やはり辛い。

 強く噛んだ唇から、血が滲む。

 

「泣きたいのならば、泣けばいいじゃないか。

血ではなく、涙を流すべきだ」


「――ヘイブレアンの人間は泣かないの。

泣くとお腹が空くでしょう?」


 廊下でリーゼロッテが泣き叫ぶ声が響いてくる。アデイラは微笑んでみせた。クラウスがたじろぐ。


「ねぇ、クラウスさん。

さっき私に謝ったわね。あなたは私だけじゃなく、リーゼロッテも傷つけたのよ。

悪いと思っているのなら、償いにリーゼロッテにお菓子か何か食べ物をあげて。

ヘイブレアンではそうするの。

渡す時、『泣くとお腹が空くでしょう?』って言うのよ」


 アデイラの方は喉までせり上がってきた嗚咽を堪えた。


「分かった。そうする。

君は何か食べるかい?」


「いいえ、いらないわ」


 ヘイブレアンに居た頃、食事を拒絶するなんて罰当たりなことをアデイラはしたことがなかった。

 それでも、悲しみ以外のものを、今は上手に飲み込めそうにない。


「きっとまた戻してしまう。

もったいないわ……その分、他の誰かが食べた方がいいわ」


 「ふうん」と、クラウスから聞こえる。興が失せたようだ。


「ならば、もう少し眠ると良い」


 またあの薬が入った水を差し出されたので、アデイラは両手で口を押える。しかし、あっさりとその手は外された。

 クラウスが冷たく言う。


「ちゃんと食べないから力が出ないんだ」


 返事はしない。口を引き結んで薬を拒絶したアデイラの鼻を、クラウスが摘まんだ。


「んー!!」


 アデイラの顔は赤くなったが、結果、青い顔になったクラウスの方が先に根負けした。


「君は……! どれだけ強情なんだ!?」


 素直な驚きだったので、ついアデイラの口元が綻ぶ。


「あなたの気が短いだけよ。これくらいの時間、何ともないわ。

私、息を止めるの得意なの」


「何のために?」


「素潜りをするためによ」


「素潜だって!? 一体、何のために?」


 いちいち驚くクラウスに、アデイラの気持ちが解れた。彼が、あの嫌な「ふうん」という反応をしないのが嬉しかった。


「ヘイブレアンの真ん中には大きな湖があるのはご存知でしょう?」


 そう口にすると、目の前に湖が広がるようだ。

 輝く銀色の湖面。

 アデイラは銀髪の青年を見た。クラウスの澄んだ灰色の瞳に、何か不思議な感情が、さざ波のように広がった。


「ああ……」


 クラウスの喉がごくりと鳴った。


「そこで泳ぐの。

ヘイブレアンの民は泳ぐのが上手よ。

……リーゼロッテは小さい頃に溺れて以来、水が苦手になったけど。

だから、あんなにたくさんお湯を使ったお風呂は、怖かったでしょうね」


 アデイラが全てを語らなくても、クラウスには分かったようだ。

 溺れたリーゼロッテを、アデイラの母親が自分の命と引き換えに助けたのだ。

 クラウスはそれ以上、聞かなかったし、アデイラも話すことはなかった。

 それが事実で、全てだからだ。


「湖の深い所にね、真珠を吐く貝が住んでいるの」


「真珠を吐く貝……そう言えば、ヘイブレアンでは真珠が採れると聞いた」


「採れると言えば、採れるけど。採れないと言ったら、採れない」


 貝から真珠が出て来る率は極めて低いのだ。


「私、一度も真珠を見つけたこと……ないのよね」


「ねぇ、怖くないの?」


「何が?」


 首を傾げるアデイラに、クラウスは少し遠慮したように言った。「湖が――」彼女の母親の命を奪った存在だ。

 

「そんなこと言っていたら、ヘイブレアンじゃ暮らせないわよ。

それにあなたも湖を見たら、考えが変わると思う」


 ヘイブレアンの湖は人に畏怖を感じさせる。その前で、人はただ自らの運命を任せるしかないのだ。


「とても美しいのよ」


 アデイラは目を瞑った。息が上がり、胸が大きく上下する。


「顔が赤いよ……熱があるかもしれない。測らせて欲しい」


 そう断ると、クラウスの手がアデイラの額に触れた。「やっぱり、酷い熱だ」

 火照った顔に、ひんやりとした感触が気持ちよかった。

 まるで夏の日に、湖に潜った時のような気分だ。

 アデイラがそう言うと、クラウスはそっと彼女の背中に手を添え、横たわらせてくれた。

 

「ヘイブレアンの湖のことをもっと話せるかい?」


 求められるまま、アデイラは話をした。

 湖には力のある妖女が住んでいて、“湖の乙女”と呼ばれている。彼女は醜く、それを恥じて、湖の奥底に身を隠しているとされる。


「時々、湖から霧が湧くの。そういう時は、“乙女”が姿を見られないようにして、地上を散歩をしていると言われるわ。

だから、その霧は“乙女の吐息”と呼ばれている。

ヘイブレアンの真の領主は彼女なのでしょうね。あらゆるものが“乙女”の恵みとされているの。

私が特に好きなのは、山に咲く小さな白い花で、それは“乙女の髪飾り”と言うのよ」


「“乙女の髪飾り”?」


 クラウスの声が震えているようだが、アデイラはとにかく話すのに必死だった。


「そう……銀色の葉に、白い小さな花が……“乙女”の髪飾り……似ているの……」


 “乙女”は銀と真珠で出来た髪飾りをつけているから――。


 アデイラがそこまで言うか言わないかの内に、再び、眠りに落ちた。

 ただ、夢にしては妙にはっきりと、クラウスの声が聞こえる。


「君はもっと、我儘になってもいいと思うよ」


 次に目が覚めた時も、同じようにリーゼロッテが側にいた。

 ただ、リーゼロッテはもう、以前の彼女ではなくなっていた。

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