02:第一場_橋の上 恋に落ちる
橋の上ではまた騒動がおきる。着飾った若い娘が、何人かの男に取り囲まれ、あの青年に追い払われていた。
その顛末を見て、どこからか「ちっ、余計な真似を」という声が聞こえた。
ゲルトルートが見ると、整った顔に邪な表情を浮かべた男がいるではないか。
どうやら、悪漢から助け出して、若い娘から好意……もしくはそれ以上を得たいと企んでいたようだ。
だが、あの青年に阻止された。
迷子も。暴れ馬も。それから、ちょっとしたいざこざも。
全てあの青年が間に入って、納めている。
お節介な人。
ゲルトルートは面白くなってきた。次は誰を助けるのだろう。この橋で困っているように見える人は……「あら、もしかして、私じゃなくって?」
そしてまた、あの老婆の声が響く。
「私の砂糖をどこにやったんだい!」
今回、転がった林檎を拾ったのは、地方から出てきたばかりの、人の好さそうな男だった。
男が慌てふためいて、今にも懐からお金を出してしまいそうだ。
世の中には、あんな風に押しまくられると、動揺して相手の言いなりになってしまう人間が一定数いる。
ゲルトルートの脳裏に一人の姿が浮かぶ。
イーサンもそうだった。可哀想なイーサン。パメラに押し負けてしまった。
もう一つの林檎を拾う。さっきりよもさらに痛んでいる。
「私も林檎を拾ったわ」
「また、あんたかい」
老婆はうんざりした様子だ。
「一体、いつまでここにいるんだ。
馬鹿な娘だね。男に騙されたことじゃなくて、そんなことで橋から飛び降りようとしていることがだよ」
「まさか、そんなことはしません」
否定したものの、ゲルトルートが気落ちしていているのは事実だ。そう見えても仕方がない。
「そうかい。
じゃあ、なんだっていつまで愚図愚図してるんだい」
林檎を拾った男は、老婆の注意が逸れたのをこれ幸いと、逃げて行く。
捨てられた林檎は大きくて頼もしい手が拾う。
「おばあさん、林檎と、それから砂糖を見つけましたよ」
「なんだって?」
あの青年が袋に入った砂糖を老婆に渡す。
「これで今日はもう商売は終わりにしなさい」
威厳はあるが、何とも言えない優しい口調だ。老婆だって、やむにやむれぬ事情で、こんなことをしているのだと、分かっているのだ。
ゲルトルートは泣きたい気分になった。
が、老婆の方と言えば、感じ入った様子はなく、袋の中の砂糖を確認すると叫んだ。「なんて酷い砂糖なんだい! まるでこのお嬢ちゃんのドレスみたいだ」
青年がゲルトルートのドレスを見たので、彼女は途端に、恥ずかしくなる。思わず「私のドレスじゃないの!」と口走って、さらに赤面する羽目になった。
老婆はふんっと鼻を鳴らした後、青年から砂糖を買った店を聞き出した。
文句を言いに行くらしい。
「危ないですよ」
「危ないもんか! あんたもついてくるんだ!
騙されたのは、あんたなんだからね!」
「フリードリヒと言います」
「あ? ああ、私のことはルルー嬢とお呼び」
ルルー嬢は白髪を振り乱し、歩き出す。フリードリヒは老婆の名乗りに虚を突かれたせいか、彼女が石畳につまづいた時、反応が遅れた。代わりにルルー嬢を支えたのはゲルトルートだった。
「おっと、お嬢ちゃんの割に気が利くじゃないか。
あんたもおいで。この男じゃ、私の杖代わりにはデカすぎる。
なんでも限度ってものがあるだろう?
何を食べたらそんなに大きくなるんだ、えっ!?」
理不尽な言いがかりをつけながら、ルルー嬢はフリードリヒとゲルトルートを引き連れて、橋の上にある砂糖を取り扱っている店に行った。
そこで猛然とまくし立てはじめる。
「なんだい、この詐欺師野郎め!
上の見本にだけ上等な砂糖を詰め、下の売り物は混ぜ物かい?
それにしたって、いくらなんでも限度ってもんがあるだろう。
これじゃあ、ただの砂だよ、砂!!」
店主はルルー嬢を追い払おうとしたが、青年が厳めしい顔をして背後に立つものだから、すっかり恐れ入って、これはもう降参するほうが早いと計算して、隠していた砂糖を出してきた。
それを受け取ったルルー嬢は至極ご満悦で、「これで嫁に甘い林檎煮をたらふく食べさせられる」と喜んで見せた。
「あら、お孫さんじゃなかったですか?」
ゲルトルートが指摘すると、「あぁ? 孫にやるなら、その母親にも食べさせないとね。あんたも母親が待っているだろう。とっとと帰りな」と言った。「母は亡くなりました」と答えると、ルルー嬢はふんっと鼻を鳴らすと、痛み切った林檎を、ゲルトルートとフリードリヒに一個ずつ渡し、自分は砂糖の包みだけを大事に抱えて去って行った。
「お気を付けて」
フリードリヒが、やっぱりそう声を掛けた。
すでにゲルトルートは彼が気になってたまらなくなっていた。
橋の上から川面を覗き込み、物思いにふける若い娘。
親切な青年にしてみれば、見逃せない存在だろうに、どうして自分は無視されるのだろう。
試しに頬に手を当て、ため息をついてみた。
すると、ようやくフリードリヒは彼女に声を掛けてきてくれた。
「あの、何かお困りですか? もしよろしければお話だけでも聞きましょうか?」
ゲルトルートは嬉しくなる。
調子に乗って、からかうような口調で聞き返した。
「やっと私の番?
ねぇ、あなた、私がここにいる間、何人、人助けをしたかしら?
こんな見るからに失意に打ちひしがれて、今にも身を投げようとしている娘を、随分と長く、放っておいたのね」
するとフリードリヒが答える。
「もしそんなことがあれば、すぐにでも助けられるように、気を付けていました。
あなたが随分と長くお悩みのようでしたので、その間に、いろいろなことに巻き込まれたんですよ」
それから焦った様子で付け加える。「いえ、そのずっと見ていたわけではなくて、いえ、ずっと見ていましたが、変な意味ではなくーーあの……何かお困りでしょうか?」
彼の真心に、嘘偽りがないのは、これまでの行動を見れば分かる。
ゲルトルートはフリードリヒへの態度を反省した。そして、彼の心配に応えなくてはいけないと思った。
「私、婚約破棄されたの」
「え……」
「私、婚約を破棄されたんです、ついさっき」