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14:第六場_トワーズ伯爵邸 崩れ落ちる

 フリードリヒの語るヘイブレアンは、湖と山脈に支配された土地だった。しかし、朝夕、湖が輝く様、霧が立ちこめる幻想的な雰囲気、夜には星がきらめき、山には小さな白い花が咲き乱れる花畑があって、近くでは羊が草を食む景色は聞く人間を魅了した。


「素敵な場所ですね。

行ってみたいわ」


 そうゲルトルートが感想を述べると、フリードリヒは厳しい顔で窘めた。


「そんな風に憧れるような場所ではありません」


「……そうお思いならば、どうしてそんな顔で話すのですか?」


 ゲルトルートも怒った風に言った。「フリードリヒさんの語る顔も声も、ヘイブレアンを誇りに思っているようにしか感じられません」

 彼女の指摘にフリードリヒは恥じたように俯いた。


「あなたのおっしゃる通りです。私はヘイブレアンを愛しています。

あの美しい“湖の乙女”に抱かれて、私は生まれ育ったのですから」


「“湖の乙女”??」


「ヘイブレアンの大半を占める湖のことです。

いや、湖こそ、ヘイブレアンそのもの。

そこには“湖の乙女”が住むと言う伝説があって、ヘイブレアンの真の領主は彼女なのです」


 うっとりとした面持ちで、フリードリヒは答えた。ゲルトルートは嫉妬も覚えなかった。

 それは崇高な存在なのだろう。その代わり、思い出す。


「フリードリヒさんが川に飛び込むときに祈った“乙女”って、その“湖の乙女”のことなんですか?」


「……そうです!

お聞きになっていたのですね。

川の水は湖に通じているかと思い、ご加護を期待しました」


 照れたようにフリードリヒが笑った。アレマ夫人が咳ばらいをする。

 ゲルトルートは自分の頬を軽く叩いた。


「どうしましたか?」


「お話を聞くところによると、湖の畔には灯台が必要ですわね」


 神妙な顔で答えたゲルトルートだったが、心の中はフリードリヒの笑った顔でいっぱいだ。


「灯台が?」


「霧が出るのでしょう?

運河が出来たあと、船が通行するときに危険だから」


 するとフリードリヒが、今度は少し悪戯っぽく笑った。


「あなたも私と同じですね」


「え!?」


 ゲルトルートの心は勿論、身体も飛び跳ねるほど驚いた。彼と自分が同じ?


「ゲルトルートさんも、トワーズ伯爵の話をする時、とても尊敬しているという顔をなさいます。

口ではどうしようもない父親などと詰りながらね」


 「あっ」とゲルトルートは口を押えた。その通りだ。


「大変だけど、憎めないの。

あなたにとってヘイブレアンと同じね。

なら、私がヘイブレアンのことよく知りもせず、素敵な場所と言ったこと、許してくれますか?」


「はい。勿論です」


「良かった。

これでお別れするのに、心残りがあったら、冬中、後悔し続けるところだったわ」


「――そうですね」


 ゲルトルートは立ち上がって、フリードリヒに別れの挨拶をしようとしているのに、肝心の彼の方の腰が重そうだ。

 去りがたい、と思ってくれているのならば、ゲルトルートも嬉しい。


 計ったように、実際、そうなのだろう、ゲオルグが顔を覗かせる。


「もう行くのか?」


「帰ります。あなたもお元気で」


「出発は明日の朝だろう?

あれを作って、ゲルトルート嬢にご馳走したらどうだ?」


「あれ……ですか?」


 フリードリヒは思いっきり、嫌な顔をしたが、ゲオルグが「私はあれが好物だ」と言い張って聞かない。


「クレアの宿で食べればよいじゃないですか。彼女の”羊の血と臓物の煮込み”は絶品ですよ」


 “羊の血と臓物の煮込み”――字面だけでも剣呑そうな食べ物だ。

 ゲルトルートは俄然、興味を持つ。「それって何でしょう? 私もご相伴にあずかりたいです。ねぇ、アレマ夫人?」


 アレマ夫人は刺繍から顔を上げ、心底、同意しかねると言った風に首を振った。


「アレマ夫人……!」


 そこをなんとか! とゲルトルートが必死で目で訴えると、夫人は折れた。「困った子ね」

 フリードリヒはゲオルグを伴って、市場に買い出しに出かけた。

 ファニーは自分の厨房をフリードリヒに使わせると知って、困惑し、混乱し、それから猛烈に掃除をはじめた。このところ、ゲオルグが食材を持ってやってくるので、いつになく厨房が汚れていたのだ。「あぁ、ついこの間までは近くで買ってきたパンとハム、チーズなんかを、そのままお茶で流し込むだけの食事で良かったのに、最近では調理をしたり、掃除をしたり――面倒すぎない?」とぶつくさ言っていたが、「だけど手の込んだ温かい食事は嬉しいわ。それも他人が作るのならばね」と言う結論に達した。

 そして、すぐに撤回されることになる。


「温かくても……これを食べる……食べ物??」


 フリードリヒが作った”羊の血と臓物の煮込み”はその通り、羊の血と臓物を煮込んだものだった。

 ゲオルグは喜色満面だ。


「これこそ、ヘイブレアンの伝統的な料理だ。

見た目は悪いし、臭いもすごいし、味も一癖も二癖もある。おまけに嚙み切れないときたものだ」


「ゲオルグさま……何か、何か一つでもよい点を……」


 ファニーは匙を持ったまま固まっている。今夜はバルトンもファニーも、食事の席に招待されていたのだ。ファニーにしてみると、これだったら厨房の隅で冷たいパンでも齧っていた方が良かった。

 アレマ夫人の皿のように、自分も一口分にして欲しかった。


「よい点? 美味しい所だね」


 簡潔に言って、ゲオルグは”羊の血と臓物の煮込み”を頬張った。「これこれ、クレアの宿のも美味しいが、どことなく王都の洗練さが加わってしまって、物足りなかったんだ。この素朴な野性的な味。最高だ」


 クレアの宿は、ヘイブレアンの人たちが王都で集う場所だと、ゲオルグが教えてくれた。

 そこに行けば、懐かしい故郷の人たちに会え、また、情報を得られる。そして、この”羊の血と臓物の煮込み”も味わえると言う。

 また、ヘイブレアンから来た人たちもまず、クレアの宿を頼る。「ヘイブレアン出身者には安く泊めてくれるのです」とフリードリヒが補足した。

 それから遠慮しがちに、“羊の血と臓物の煮込み”を口に運ぶゲルトルートの様子を覗った。そこには期待と怯えが入り混じっている。ゲオルグもまた、どこか緊張した面持ちで彼女を見ていた。


 ゲルトルートは試されている気分になったが、とにかく食べてみることにした。

 感想としては、とにかく独特な味だった。

 好き嫌いが激しいのも頷ける。美味しいとも言えないが、拒否するほどの味ではない。

 個人的には、昔、森の中で父親と食べた下処理が不十分な獣の味を思い出すが、それと比べれば複雑な味がして、遥かに美味だった。


「滋味深い味ですね。

よく噛む必要があるので、少しでお腹がいっぱいになりますし、脂がたっぷりなので、身体も温まりそうです。

ヘイブレアンの寒冷な環境で食べれば、もっと美味しく感じられるでしょう。

それから……もしかして林檎が入っていますか?」


「……! そうです! お分かりになりますか? ヘイブレアンは林檎がよく採れるので、この料理にも使われるのです」


 フリードリヒはゲルトルートの言葉に、驚きと歓喜の表情を浮かべた。ゲオルグも嬉しそうに見えた。ただし、二人の感情は、表向きにはごくごく微かなもので、ゲルトルートは蝋燭の炎の揺らぎがそう見せたのだろうと思った。


 こうして夜は更け、フリードリヒはクレアの宿に戻り、そして、次の朝、故郷へと帰っていった。


 ちなみに、フリードリヒは羊を一頭丸ごと買い求め、解体からはじめていた。その時点で、ファニーは悲鳴を上げて逃げ出していたので、その後のことは分からなかった。

 どれだけ凄惨なことになっているのだろうか……彼女は腕まくりをし、覚悟を決めて厨房に入った。

 そんなファニーが目にしたのは、綺麗に清掃された台と床、磨かれた調理道具は整理整頓され、そして、彼女でも扱いやすいようにと小さく切り分けられた羊の肉が、部位ごとに塩漬けにされて保管されている光景だった。

 羊の血と臓物を煮込んでいる間に、フリードリヒが全てを片付け、処理しておいたのだ。

 ファニーはありがたさのあまり床に膝をつき、天に感謝した。「お嬢さま、結婚するならあの方ですわ! ええ、勿論、あの方ですわ」

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