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12:第六場_トワーズ伯爵邸 産み落とす

 二人が帰った後、アレマ夫人はゲルトルートに折り入って話があると申し出た。


「なんでしょうか?」


 まだ残り火がある暖炉を前に、二人は身を寄せるように座った。

 アレマ夫人の手にはあの林檎の意匠のリボンがある。


「少し前に、林檎が好きな娘の話をしたわね」


「はい」


「今こそ、あなたに話すべきだと思ったのよ」


 ゲルトルートは居住まいを正した。これからとても大事な話を聞くのだと分かったからだ。


 アレマ夫人がまだ若い頃、王都にすばらしい腕前のお針子がいた。

 娘は様々な貴族や商人の屋敷に呼ばれては、夫人や令嬢たちのためにドレスを縫った。


「お得意様の一つに、ある商人のお屋敷があった。

何度も呼ばれている内に、娘はそこの息子と恋に落ちたの」


 しかし、商人の息子には貴族の令嬢との縁談が持ち込まれた。若者は娘と別れることを拒んだが、彼の両親は許さない。


「ある日、あの娘は商人のお屋敷に呼ばれ、そこで盗人の汚名を着せられた」


 屋敷にある宝石が無くなり、娘の裁縫道具から出てきたと言うのだ。

 娘は必死になって否定したが、最初から仕組まれていたのだから、誰も信じようとはしなかった。

 正直に白状しろとひどい折檻を受けた娘は、「お願いですから許して下さい。お腹に子どもがいるんです。私が盗みました。認めます。だからお腹は蹴らないで」と訴えたのだ。

 その瞬間、夫人は娘の腹目掛けて足を蹴り上げようとした。


「そんな! だって……!」


「そうよ。彼女は自分の孫を殺そうとしたの。

もっとも、彼女の中では、孫と認められなかったのでしょうね」


 間一髪、娘は逃げ出し、外に飛び出した。


「その日、私の夫はその商人の屋敷に来ていたの。

本当にたまたまだった。

夫妻だって、部外者に知られたくなかったでしょう。

急用だったのか、手違いだったのか、とにかく夫は来訪の旨を告げたが、断られた。

それで馬車に戻るところだったわ」


 助けを求められたアレマ氏は、すぐさま事情を察した。

 そこの息子とお針子の仲は、すでに広まっていたからだ。両親が反対していることも。

 アレマ氏は素早く娘を馬車に乗せ、そこから逃れた。


「夫は娘を連れて来たわ。

私もあの娘には何度かドレスを仕立ててもらっていた。

商人の屋敷で受けた暴力で心身ともに傷つき、それを見ていたのに助けもしなかった恋人の不実を恨み、そして、身に宿った子の将来を悲観していた」


 アレマ氏は懸命に娘を看病し、励ました。


「アレマ夫人はそれを見て、その……」


「トゥルーデ、あの人は本当にいい人だったのよ。

あの人こそ、善人というべき人でした」


 ゲルトルートはアレマ氏を少しでも疑った自分を恥ずかしくなった。

 アレマ氏はただ傷ついた人間を見捨てられなかっただけなのだ。


「私、あの人の子どもを産んであげたかったわ」


 結婚して八年、アレマ夫妻は子に恵まれなかった。

 

「だから私、あの娘に提案したの。

あなたの子どもを私にちょうだい。

きっといい子に育てるからって」


 娘は泣きながらその提案を受け入れた。嬉しくもあり、悲しくもあっただろう。


「そして無事に、元気な男の子が生まれたのよ」


 子を産んだ娘は、赤ん坊を抱くことを拒んだ。乳もやらなかった。「あなたの子どもです。私の子じゃない」情が移るのを恐れたのだろう。

 そして、どこかに行ってしまった。


「赤ん坊と、この林檎のリボンを置いてね。

……あの娘は、私のことを赤ん坊を奪う酷い女だと思ったに違いないわ」


「そんなこと、ありません!

そうでなかったら、そのリボンを置いてはいかないはずです」

 

 リボンの刺繍はとても凝っていた。普段は仕事に追われ、自分の好きな物を作れなかった娘が、アレマ夫妻に保護されている間、自由に、持てる限りの技術をつぎ込んで刺した傑作だったはずだ。


「アレマ夫人へのせめてものお礼だったのではないでしょうか?」


「ありがとう、トゥルーデ。

けれども私は、結局、あの男の子を失ってしまったの」


 アレマ夫人は暖炉の火に視線を向けながら、どこか遠くを見つめていた。


「え?」


「あの子もどこかに行ってしまった。

口さがない誰かが、『お前はアレマの家の子じゃない』『本当の母親は盗人なんだぞ』と吹き込んだらしく、あの子は悩んでいた。

そして、ある日、あの子は家からお金を持ち出して、どこかに行ってしまったの」


 なんという恩知らずなんだろう! ゲルトルートは憤ったが、アレマ夫人はそうは思っていないようだ。ただ、自分を責めていた。


「私の愛情が足りなかったのよ。そんな部外者の言うとなんか気にしない強い信頼関係を築けなかった。

可愛そうなあの子。今はどこで何をしているのかしら。

本当の母親と一緒だったら、暮らしは貧しくても、満ち足りた生活を送れたかもしれない」


 「なによりも――」とアレマ夫人は言った。「ルルーに申し訳ないわ」


「ルルー!?」


 ゲルトルートは声を上げた。「ルルー!? 林檎の好きなルルー!?」目の前に、あの痛んだ林檎が転がってくる幻を見た。


「そうよ、トゥルーデ? あなたルルーを知っているの?」


 橋の上で出会ったことを話す。「けれども、いなくなってしまったんです」


「ルルーは私がトワーズ伯爵邸にお世話になっていることを知っていたのね。

だから会わないように姿を消したんだわ」


 アレマ夫人が沈痛な面持ちで言う。「怒っているのね。当たり前よ」


「いいえ……違います。

だって、私を助けてくれたもの。このリボンを見て」


「え?」


「そうだわ! ルルー嬢は、私のこの林檎のリボンを見て、フリードリヒさんの所へ連れて行ってくれたんです。

私がアレマ夫人の知り合いだって……アレマ夫人がルルー嬢のリボンを大事にしていて、その大事なリボンの図案をくれるような、そんな仲だって分かって、私が一人、フリードリヒさんを探して危ない目に合わないように、守ってくれようとしたんです」


 都合のよい解釈かもしれないが、もし、もう二度と会えないのならば、少しでもアレマ夫人の気持ちを軽くしたいという気持ちで、ゲルトルートはいっぱいだった。


「そして、私とフリードリヒさんが仲良くなれるように応援してくれました」


 ルルー嬢は恋人に裏切られた。

 橋の上で、彼女はゲルトルートを“お仲間”と呼んだ。確かに、あの時、ゲルトルートは“恋人に裏切られていた”。そういう意味で、ルルー嬢は間違っていなかった。

 けれどもすぐに、ゲルトルートはフリードリヒに恋をした。そしてフリードリヒは不実な恋人にはならない。アレマ氏に似た、“いい人”だと判断してくれたのだ。

 ふと、ルルー嬢はアレマ氏のことが好きになってしまったのかもしれない――そんなことが脳裏に過ったゲルトルートだったが、すぐに打ち消す。おそらくそれは、誰に対しても失礼な考えだったからだ。


「私、明日にでもルルー嬢を探しに行きます。

これから冬になるのに、橋の上で商売も出来なくなって、どこでどう暮らして行くのでしょうか」


「いいえ、駄目よ!」


 アレマ夫人が即座にゲルトルートを止めた。


「それが言いたかったの。

トゥルーデ、あなたはあの伯爵に育てられて、少し身軽すぎるわ。

この間だって、一人で街をうろつくなんて、貴族の娘がすることではありませんよ。

それこそ、ルルーがいなかったら、どんな目に合っていたか。

あの娘はそれをよく知っているの。だから心配してくれたのよ」


 「そしてね」とアレマ夫人は決然と諭した。「たとえ自分の家の中でも、油断してはいけません」


「それは……フリードリヒさんのことでしょうか?」


「そうよ。

嫌なことを言う女だと思うでしょうが、どうか聞いて欲しいの。

あの方が家を訪れたら、必ず私を呼びなさい。

もし、私がいなければ、家に上げてはいけませんよ。

あの方自身が、たとえどんなに立派な方でも、周りはそうは見ません。

それだけであなたに不利になるの。

イーサン・マッジがあなたと二人で会えたのは、彼が正式な婚約者だったからです」


 その正式な婚約者はゲルトルートを裏切った。

 ルルー嬢の相手だって、あの時は、確かに恋人を愛していたはずだ。

 それなのに――「人の心というものは移ろいやすく、何かのきっかけで、変わってしまうものなのだから」

 アレマ夫人はルルー嬢のリボンをゲルトルートに贈った。

 それは戒めだった。

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