11:第六場_トワーズ伯爵邸 味が落ちる
翌日、屋敷を訪れたゲオルグの後ろに、フリードリヒの姿もあったので、ゲルトルートは驚いた。
「申し訳ありません。ルルー嬢は見つかりませんでした。
お父上の件は手配しましたので、ご心配ならさずに」
「わざわざ知らせに来て下さったんですか! ……あ、ありがとうございます」
フリードリヒは、ヘイブレアンから冬の間、出稼ぎにやってくる領民たちの警護を担っていた。また、ヘイブレアンで採れた羊毛を売り、冬を越すための小麦などを仕入れる仕事もあった。王都の狡猾な商人相手に、出来るだけ有利な取引をしなければいけない。それらを任されていると言うことは、やはりそれなりの人物のようだ。しかも、その合間に、自分の滞在費を稼ぐため、日雇いの荷運びの仕事までしているのだ。
この日も、朝に一仕事終えてきたらしい。
かすかに汗と海の香りがする。「申し訳ありません。臭いますか?」
ゲルトルートは首を振った。女の人の化粧の香りよりもずっといい。
しかし、よく見ると、ゲルトルートがかがった上着が、綺麗に手直しされていた。あの宿にいた女の人に頼んだのだろうか。
「あ! これは、せっかくゲルトルートさんが直して下さったのに、また破いてしまって、粗忽者で申し訳ありません。自分で縫いました」
「……ご、ご自分で??」
自分に気を遣ってそう言ったのかとゲルトルートは思った。もっとも破れたのは本当だと思われる。彼女の繕いは甘く、フリードリヒが少し無理な動きをしたら、すぐに解けてしまったに違いない。
そして、彼は当然のように「ええ、そうです。自分でやりました」と答えたので、こちらも本当のことのようだ。
「この男は働き者だろう? 私とは正反対だ」
ゲオルグは欠伸をしてみせた。「ようやく起きてきたよ。いやぁ、日が暮れる前にここに来られて良かった」
「あの? 今日は何の用でしょう?」
フリードリヒにまた会えて嬉しいが、その度に想いが募っていくのは辛いことでもある。
そんな彼女の都合など、ゲオルグが考えるはずがない。彼は自分の興味の赴くままに動く人間だ。ある意味、トワーズ伯爵と似ている。
「トワーズ伯爵の計画の話を聞かせてくれるはずだった」
「でも、父はおりません」
「ゲルトルート嬢は説明出来ないのか?」
「で……出来ますが。
あ! 父の友人を呼びますわ」
ゲルトルートの提案はあっさり却下された。「ゲルトルート嬢で十分だ」
そして、今日はあらかじめ燃料と食料を持参してきた。「私は自分の居場所を快適にする権利がある」とのことらしい。
二日続けて、アレマ夫人を呼ぶのは気がとがめたが、当の夫人は、自分の部屋にいても、トワーズ伯爵の居間にいてもやることは同じだから遠慮しなくていいと言う。
「私はここで刺繍をしていますからね。
トゥルーデ、変な気を遣って、私抜きで殿方と会ってはいけません。
トワーズ伯爵が不在の間は、私があなたの監督者なのです。
何か間違いがあってからでは遅いのですよ」
そんな間違い、望んでも起きそうにない。
ゲルトルートはフリードリはちらりと見たが、その視線に気付いたゲオルグは笑った。「そうでもないさ。男というものは、基本、信頼出来ないものだ。どんな男でもだ。勿論、そこの男もだ。むしろゲルトルート嬢が油断する分、一番、性質が悪い」
「まぁ!」とゲルトルートは気恥ずかしくなって、逃げるように父の書斎に行った。
書斎はトワーズ伯爵がいる時は、勉強会の会場になっており、王都の商人や学生たちが集っているのだが、今は人の気配はない。
壁にかかっていた運河の計画図を外し、トワーズ伯爵が書き記した新たな建白書の案文、参考にした書物などを集める。
「模型も――あった方がいいけど」
すでに両手がいっぱいだ。
そこにおずおずとフリードリヒがやって来た。「お手伝いします」
「あら、じゃあ、この模型を運んでください」
ゲルトルートは努めて愛想なく言った。「気を付けて持って下さいね」
「とても繊細な作品です。心しましょう」
「それ、私が作ったんです……」
つい、そんなことを言ってしまった自分の口を、ゲルトルートはつねりたくなったが、残念ながら両手は塞がっている。
フリードリヒは感心した。「見事なものです。細かく作られているだけでなく、要点が抑えてあって、とても分かりやすい。ゲルトルートさんは、トワーズ伯爵の計画をよく理解しているのでしょうね」
自分こそ、父親の一番弟子と自負しているゲルトルートは誇らしくなった。同時に、今の状況のもどかしさも襲ってくる。
「私、男の子に産まれれば良かったわ。
そうしたら、今でも現地調査に同行出来ただろうし、他の人たちに混じって勉強会にも参加出来た。
もっと役に立てたのに……女の私に出来ることは、これくらいよ」
「あとは顔も見たことのない男の愛人になるくらい」とゲルトルートは呟いた。
父の危機を救うためらな、ゲルトルートはそうするしかない。けれども出来れば、そんな事態は避けたいのも事実だ。
「それもあって、イーサンとの結婚を決めたのかも。だって少なくともイーサン・マッジは顔を知っているんですもの」
いずれどこかでトワーズ伯爵は二進も三進も行かなくなって、娘を手離すことになるだろう。それならば、まだ自分が“選択”出来るうちに、済ませてしまいたかったのだ。
「……もし、ディモント公爵が鉱山の調査を許可する代わりに、あなたを欲しいと要求したら、どうしますか?」
「えぇ?」
ゲルトルートは笑ってしまった。「フリードリヒさんもそう言うこと、言うんですね」
「例えばの話ですから」
「お断りするでしょうね」
フリードリヒが立ち止まった。
トワーズ伯爵の居間の扉が見えてきた。ゲルトルートは急いで付け加える。
「もしフリードリヒさんに会う前だったら、承諾したかもしれないわ。
だけど、今は駄目。
だって、フリードリヒさんはヘイブレアンにお戻りになられるのでしょう?
もしかして街のどこかで会うかも。
そんなの、いくら私でも耐えられないわ。ディモント公爵にも失礼だし、あなたにも迷惑がかかる。
あなたがヘイブレアンに居辛くなったら、きっとたくさんの人が困るでしょう?
父の夢みたいな計画よりも、フリードリヒさんの方がずっとヘイブレアンの人たちには頼りになる存在に違いないんですもの。
私、ヘイブレアンの人たちに恨まれたくないわ。そうでなくても、大変な暮らしなのに。
あなたは言うなれば、灯台のような人だわ」
「灯台??」
「――ファニー! 扉を開けて。私もフリードリヒさんも両手が塞がっているの。ねぇ、ファニー?」
扉が開かない。
フリードリヒは逡巡した後、ゆっくりと動き出し、片手でなんとか模型を持つと、空いた手と身体を使って扉を押し開けた。「どうぞ、ゲルトルートさん」模型が細かく震えていた。ゲルトルートは彼と模型の間を素早く通り抜ける。
ファニーはゲオルグに向けて、夢中で話をしていた。「……それで、マッジ氏はお金も髪の毛も毟り取られちゃったんです――あ! お嬢さま!」
「もう、何を話しているの?」
大体、察しがつく。「マッジ氏とスウェンさんの話をしていました」そうだと思った。
ゲオルグが笑い転げているではないか。「この染みが、そんな面白い事件で出来たとはね」
フリードリヒだけが、首を捻っている。ゲルトルートは渋々だが、簡単に説明した。
「トワーズ伯爵は策士だね。二人の男をぶつけて、娘の周りから排除することに成功するとは」
「ゲオルグさんは父を買いかぶっていますわ。
王命があったんですよ」
たとえトワーズ伯爵の策略が上手くいったとしても、ゲルトルートは王命に逆らった娘になってしまう。
「王命? 私はそんなものは気にしないね」
ゲルトルートはゲオルグの前に本を並べながら嘆息した。
彼女の父親も、同じ性格をしている。
「お嬢さまはおモテになるんです」
よほどゲオルグとの会話が楽しかったのだろう。ファニーの口が滑らかになっている。これでは、フリードリヒでもゲオルグ相手には堅い口も開けるだろうと納得するが、ゲルトルートは困ってしまう。
「ファニーったら、いい加減なことを言っては駄目よ。
そうじゃないんです。
イーサンとスウェン兄さまは、元から反りが合わなかったんです
私はその間に入っただけ。お互いがお互いへの競争心から、私を手に入れれば、相手に勝ったような気になっただけなんだわ」
思いもかけぬ二人からの求婚に、彼女はそう結論づけていた。するとファニーはムキになった。咎められて悔しいと言うよりも、ゲルトルートの無知に呆れているようだ。
「いいですよ。あの二人のことは忘れましょう。お嬢さまの崇拝者の列に並ぶ価値のない男たちでしたわ。
ですがね、ご主人さまが不在の時に、書斎のご本をお借りしたいと、若い学生さんがたくさんいらっしゃいます。皆さん、お嬢さまがお目当てなんです。それは本当です。
けど、ご主人さまから絶対にお嬢さまに対応させるなと厳命されているので、父か私が貸し出しを行います。
皆さん、目に見えてガッカリなさいますよ」
「そうだろうね。しかし、学生風情にゲルトルート嬢はもったいない」
「そうなんですわ! ご主人さまはお金の無い男にお嬢さまを嫁がせたりなんかさせません」
「ファニー!」
ゲルトルートは悲鳴に近い声を上げる。確かに父親はそう言った。だがフリードリヒに聞かせたくない。フリードリヒは黙って、彼女の模型を丁寧にテーブルに置いている。
「ご主人さまは、今度はお嬢さまを王妃さまにしたいんですって。
そうしたら王さまにお願いして、国家予算使いたい放題でしょう?」
あっはっはは、とゲオルグの笑い声が響いた。おかしすぎて腹が痛いと言うくらい笑っている。
「まぁ! 失礼ですわ。お嬢さまは王妃さまになるのが、そんなおかしい話ですか?
伯爵家のご令嬢なんですよ」
「違う、違う。そうじゃなくて、いくら王さまでも、国家予算は使いたい放題出来ないってことさ」
「そうなんですか!? 王さまなのに?」
ファニーの純粋な疑問に、フリードリヒが重々しく答えた。「大臣や諸侯が話し合って、どうすればサイマイル王国の為になるか考えて、予算を配分するんだよ。国王とはいえ、勝手に使うことは許されない」
「なんだぁ……でも、そんな偉い人たちが話し合っている割に、私たちの生活は何もよくなりませんね。
ご主人さまの運河のお話もまともに取り合って下さらないようだし、見る目がないんだわ」
「その、運河の話をしたいんだけど。ファニー、あなたも聞く?」
これはもう強制的に中断させるしかないと判断したゲルトルートは、そう提案してみた。すると思った通り、ファニーは腰が引けた。
「え? 私は結構です。
難しい話は勘弁してください。
今日の夕食の準備をしてきます。ゲオルグさんがたくさん食材を持ってきてくださったんです。
今から仕込まないと、間に合わないかも。なにしろこんなたくさんの食材を料理するの、久々ですもの。
……いやだ、本当にいつ以来かしら? 調理道具を磨くところからはじめないと!」
「アレマ夫人、うちのお嬢さまをよろしくお願いしますね」と言って、ファニーは厨房に引っ込んだ。
そして、彼女は奮闘したのだろう。その日の夕食は、前菜とスープからはじまる、ちゃんとした正餐だった。
ゲルトルートはゲオルグとフリードリヒ、アレマ夫人と食卓につく。
運河の話をするのに、すっかり日が落ちていた。
二人はゲルトルートの話に感心し、魅了されたようだった。
「トワーズ伯爵の集めた本を読んでみたい。
王宮にはないものもたくさんあるようだ」
ゲルトルートはバルトンの方を見た。「私がご案内しましょう」
「それはありがたい。こちらに来る日は連絡しよう。
フリードリヒはどうする?」
「……私は――仕事がありますので」
ファニーがフリードリヒのスープに、何か間違った調味料を入れてしまったのだろうか。
そう不安になるほど、彼の顔は苦々しかった。
二人が帰った後、ファニーは興奮したようにゲルトルートに言った。「ねぇ、お嬢さま? ゲオルグさまは楽しくて素敵な男性ですわね。顔も素敵だし。お金も持ってそうでした。結婚するならゲオルグさまのような方がよいですわ。そうしましょう!」




