10:第六場_トワーズ伯爵邸 手に落ちる
トワーズ伯爵邸に戻ったゲルトルートの姿を見るや、ファニーが慌てた様子で駆け付ける。
「お嬢さまぁ! ご主人さまが出て行かれました!」
「お父さまが!? また!? 今度は一体どこへ?」
「ヘイ? なんでしたっけ? あの辺境の公爵の領地ですよ……ヘイ? ヘイ?」
「ヘイブレアン!?」
背後で、フリードリヒが反応する気配を感じた。
「そうです! ヘイブレアン!!
マッジ氏が婚約破棄の慰謝料……いえ婚約はしていなかったんでしたっけ?
とにかく、マッジ氏が詫び代として、まとまったお金をご主人さまに渡したせいで、それを全部持ってヘイブレアンへ行ってしまったんです」
「全部ですって!?」
ゲルトルートはファニーに近寄り、囁いた。「少しくらいはお金、残してくれなかったの?」
「ないですわ、お嬢さま。
ヘイブレアンまでは長い道中だから、路銀がいるって。
でも、『安心しろ。ヘイブレアンには銀鉱脈がある。それを見つけたら、大金持ちだぞ』って言って行かれました。
本当でしょうか?」
「あるかもしれないけど、ないかもしれないし。多分、ないわ。
それよりも、この間みたいに、ディモント公爵に捕まってしまう可能性の方がずっと高いわ。
あそこは国境の地なのよ。下手すれば、今度こそ殺されちゃうかも」
眩暈がする。
「銀鉱脈??」
ヘイブレアンからやってきた青年が不審そうに呟いた。
「あの……」
「どういうことですか? トワーズ伯爵は何をされに私の領地へ?」
「あの……父は……山師なんです!!」
フリードリヒが絶句し、ゲオルグは笑っている。
「フリードリヒさん、お願いがあるんです! どうか私の話を聞いてください」
居間には今日も火が入っていなかった。
ファニーにお金を握らせる。「これで燃料と、それから何か食べる物を買ってきて」
「お嬢さま、このお金はどこから?」
「ドレスを売ったのよ。
そうだ、砂糖はあるわ。これで何か甘いものをお二人へ」
ゲルトルートとファニーのやり取りを聞いて、フリードリヒは慌てた。「お構いなく」
「いいえ! いいえ……お客さまをおもてなしするのは当然のことです」
「こちらが押しかけたのです。
……あなたも何か言って下さい」
フリードリヒに加勢を求められたゲオルグはしかし、その期待には応えなかった。
「この絨毯、ひどい染みがある」
「……あなたと言う人は!!」
マッジ氏がトワーズ伯爵にインク瓶を投げつけた時に出来た汚れだ。ファニーと一緒に落とそうと奮闘したが、出来なかった。ソファを動かして隠したつもりだったが、ゲオルグには気になるのだろう。
「もういい、黙っていてください」
「何か言えと言ったのはお前じゃないか」
「そんなことよりも、フリードリヒさん。
ディモント公爵と連絡を取れる伝手はありませんか?
怪しい人間が山をうろついているけど、怪しい人間じゃありませんって。
いえ、弁明できないほど怪しい人間なのは確かなのですが。
それでも、どうか父を無事にお返し下さい――と」
ゲルトルートの訴えに、フリードリヒは一瞬、黙った。目が泳いでいる。
当たり前だとゲルトルートは絶望しかける。父はまごうことなき怪しい者だった。
***
暖炉に火が入った。
アレマ夫人が石炭と一緒に、トワーズ伯爵の居間にやって来てくれたからだ。
ゲルトルートとフリードリヒは寒い部屋に慣れていたが、ゲオルグは「私のためだけに、暖かい部屋を用意してくれ」とファニーにお金を渡した。それをファニーは断った。「父が出かけています。私までここを離れたら、お嬢さまがお一人になってしまいます」と言うのが、その理由だ。
とは言え、ファニーも未婚の娘なので、ゲルトルートの名誉を守ることは難しい。
そこで、ファニーはアレマ夫人を付き添いの夫人として呼んできたのだ。
アレマ夫人はファニーの願いを快く承諾した。もともと部屋を借りる時に、そういう契約になっていたし、アレマ夫人自身、ゲルトルートを娘のように可愛がっていたので、彼女が連れてきた二人の男を値踏みする必要があったからだ。
フリードリヒの挨拶を受けると、“とりあえず合格”と言った風に、ゲルトルートに目配せする。それからゲオルグを見ると、少し怪訝な表情を浮かべた後、丁寧に礼をした。そして「暖炉のお近くへどうぞ」と誘った。「ファニーから聞きましたわ。お寒いのは苦手とか」
ゲオルグは遠慮する様子をみせずに、暖炉の近くに自分の席を用意した。その側に、アレマ夫人が座る。ファニーは部屋の隅に立っているので、フリードリヒとゲルトルートが対面することになった。
けれども今、ゲルトルートにはそれが恥ずかしいとか嬉しいとか言う感情はない。
彼女は語り出す。
トワーズ伯爵は運河の工事のために、川沿いの土地を調査していた。
「地形や土壌を詳しく調べる必要があるんです。
私が小さい頃は父に連れられて一緒に、いろいろな所を旅しました」
ゲルトルートは懐かしく思った。
ほとんど野外での生活だった。たまにトワーズ伯爵の調査を手伝う為に木で作られた棒を持って立ったりする以外は、幼い娘は野山で一人、父の仕事道具を遊び相手にして過ごしたものだ。
中でもお気に入りだったが錘で、それを揺らしたり、回したり。飽きることなく眺めていた。
「それくらいしか、楽しみがなかったんですもの」
その内、木や石に目印をつけて、そこに錘を正確にあてる遊びをはじめた。
いつしか木の上に成る実に上手にあてて、落とすことも出来るようになる。
それから――「小動物や鳥、魚なんかを獲るようになりました。遊びじゃなくって、お腹が空いていたので……」
獲物はトワーズ伯爵によって捌かれ、夕飯になった。「よくやったゲルトルート。今日は御馳走だな」
「私、ウサギの巣穴なんかを見つけるのも得意でしたわ」
それでゲルトルートは今でも目的外の使い方で、錘を自由自在に扱えるのだ。
「あ、あの! 勿論、いけないことは知っていました」
フリードリヒが眉を寄せたので、ゲルトルートは言った。勿論、弁解出来ることではない。
山には持ち主がいて、狩猟権があった。
大体は、領主が持っていて、土地の猟師たちは許可を得て、狩りをしている。
トワーズ伯爵親子は勝手に彼らの狩猟場に立ち入った挙句、獲物を盗んでいたのだ。
おまけにトワーズ伯爵にはもう一つ、鉱脈を見つけるという野望を抱いていた。
「土地の調査をしている内に、サイマイル王国にも、鉱山があると信じるようになったんです」
金、銀、銅、石炭……どれも貴重な資源だ。運河開発とは関係のなさそうな山の奥まで入り込む。
「よく地元の人たちに追いかけられました」
片手に娘を、片手に仕事道具をかかえてもなお、トワーズ伯爵の逃げ足は速かった。
「捕まっても、父が自分の夢の話をすると、大抵、釈放してもらえます」
狂人と思われたのかもしれない。山にいる間は髪も髭も伸び放題で、風呂にも入らない。服は妙に立派なのに、うす汚い。そんな男がまず「自分は伯爵である」と名乗るのだ。ゲルトルートは同情され、「うちの娘になるといい」という誘いを受けることもあった。
その内、ゲルトルートは王都に置いていかれるようになる。
「父がどこで何をしているのか、今では全く分かりません。
時々、家に帰って来ては、お金を工面して、また出て行く」
一年ほど前。
「二年になるかも。前のノートゼーヘン男爵が亡くなる前のことだったから……」
トワーズ伯爵はある領地で囚われの身になった。伯爵であることは信じてもらえず、どこかの間者か何かと疑われた挙句、処刑されそうになったのだ。
しかし、そこの領主が父の顔を見て尋ねた。「お前に年頃の娘はいるか?」と。
「いる」とトワーズ伯爵が答えると、「ならば娘を寄こせ。気に入ったら愛人にする。そうしたら、お前の命を助けてやろう」と言う取引を持ち掛けたと言う。
「ゲルトルート嬢は父親似?」
突然、ゲオルグが口を挟んだ。
「はい。私はよく分かりませんが、とてもよく似ていると言われることが多いですね。特に目の辺りがそっくりだそうです」
「それはそれは。なるほど。お目が高い」
皮肉っぽい言い方だった。
「はい?」
「それで……どうなったんですか?」
フリードリヒが難しい顔で続きを促した。ゲルトルートは居たたまれない気持ちになったが、父を助けるためには、彼に情けを請わなくてはいけない。
「父は、大学時代の友人に手紙を書きました」
捕らわれた時に、トワーズ伯爵邸にも手紙を出そうとしたのだが、伯爵であるというのは嘘だと思われたので、拒否されたのだ。しかし、娘を呼び寄せるには、“家”に連絡をしないといけない。
「手紙には暗号を仕込んであったので、その方はすぐに事情を察して、私に知らせてくれました」
学友は、さらに友人たちに相談し、彼らの伝手で領主に、トワーズ伯爵は本当に伯爵であることなどを伝え、その身を解放するように求めた。
「父の知り合いには、有力な方も多くて……いつも助けて下さいます」
トワーズ伯爵は無事に帰ってきた。
「でも、まったく懲りていないんです。
今もヘイブレアンへ行ってしまった。
ディモント公爵はどんな方でしょうか? 父のことを信じてくれるでしょうか?
父は何かの鉱脈を見つけたとしても、それを私欲に使うつもりはないんです。
ただ、運河の開発の資金にしたいだけ。それに、鉱山は持って帰れません。すべてディモント公爵のものです」
それに対し、フリードリヒは静かに言った。「それについてはご心配なく。ヘイブレアンへ急ぎ、連絡しましょう。見つけたら、ゲルトルートさんが心配しているので、早く帰るように説得させます」
「ありがとうございます!」
「いえ、ゲルトルートさんには二度、助けていただきました。これくらい、なんと言うことはないですよ」
ゲルトルートは感謝しつつも、フリードリヒに対する恋心はきっぱり諦めようと決めた。
あんな父親のいる娘、フリードリヒのようなまともな感覚を持つ殿方が相手をしてくれるはずがない。
***
二人が帰った後、ゲルトルートはふと、ルルー嬢に「あんたの家には鏡がないのかい?」と聞かれたことを思い出した。
「そういえば、私ってそんなに父親似なのかしら?」
そちらも気になったので、鏡を覗いてみた。
「……! ファニー! 大変!!」
「お嬢さま、どうかなさいましたか?」
「私、目の中に星があるわ!」
ゲルトルートの青い瞳の中に、キラキラとした輝きが灯っていた。まるでガス灯のようだ。
「お嬢さまったら! 今頃、お気づきになったんですか?
おとといからずっと、お嬢さまの瞳は輝いていますよ」
「とてもお美しいですわ」とファニーは陶然としながら、櫛を取り上げ、我がお嬢さまの髪の毛を梳きはじめた。




