かつての
別棟へ着くと、彰はリビングのような設えになっている部屋へと入って行った。
「紫貴。」
長い黒髪の女性が振り返った。
「彰さん。」と、要を見た。「まあ要さん。お久しぶりです。」
要は、また涙が浮かんで来そうになった。
紫貴は、全く変わらない。
相変わらず髪も肌もつやつやしていて、彰が研究所から美容液などをくすねて来ているのが見て取れた。
「お父さん!」
真っ先に飛んで来たのは、小学生くらいの女の子だった。
顔は彰にそっくりで、それでもどこか、穂波の面影があった。
彰は、抱きついて来たその子の頭を撫でた。
「こら、客が居るのに。」と、要を見た。「要、この子が穂波だ。」
要は、黙って頷く。
穂波は、じっと要の顔を見ていたが、彰から離れて頭を下げた。
「はじめまして。多勢峰穂波です。」
その目に、前回の記憶の欠片もなかった。
紫貴は、フフと笑った。
「ほら穂波、こちらへ。」言われて穂波は紫貴の方へ行く。紫貴は穂波と手を繋ぎながら、言った。「そちらが桃乃、こちらが宗太、そして新、葵です。」
宗太は、紫貴の後ろに隠れるようにしながら、こちらを見ている。
どうやら前回から変わらず人見知りのようだ。
桃乃は賢そうな目でこちらを見ていて、葵はまだ幼いので呆然と床に座り込んだまま、それまで読んでいたらしい、本を前にしてこちらを見上げている。
そして新は、まだ小さいのにも関わらず、相変わらず彰そっくりの顔で、彰そっくりの落ち着いた様子でこちらを黙って見ていた。
…とても子供には見えない。
要は思った。
もしかしたら新は、記憶を戻しているのか…?
彰が、呆然と立ち尽くしているだけの、要を苦笑して見た。
「…どうした?これが私の家族だ。言葉もないか?」
要は、ハッとして慌てて紫貴を見た。
「紫貴さん、お久しぶりです。オレ…なんだか懐かしくて。もう、こんな事はないと思っていたのに。」
紫貴は、微笑んで頷いた。
「本当に。私もそう思っていましたわ。でも、彰さんが約束通り私を見つけてくださって…申し訳ないことに、私は何年も気付かずにいました。私が気付いたのは、24の時でしたの。今はとても幸せですわ。」
彰は、頷いて桃乃を見た。
「桃乃、皆を連れて図書館にでも行って来てくれないか。私はここで話があってね。」
桃乃は、頷いた。
「うん、分かった。」と、床に座り込んでいる葵を見た。「葵、その本の続きを探しに行こう?」
葵は、頷いて本を閉じると胸に抱いた。
新が言った。
「宗太も穂波も行こう。」と、彰を見た。「お父さん、私も後で要と話したいです。」
彰は、頷いた。
「後で来るといい。呼ぼう。」
新は頷いて、穂波と宗太と共にそこを出て行った。
それを見送ってから、要は言った。
「…新はもしかしたら思い出しているんですか。」
彰は、頷く。
「そうだ。子達のうち新だけが記憶を戻していてね。なので私達が死んだ後の事も、あれが話してくれたので知っている。とはいえ、他の子達は全くでね。特に葵は、生まれて来なかった命だったから、そもそも記憶などないのだ。なので穂波も…もしかしたら、もう思い出さないのかも知れない。それともそもそも記憶自体がない可能性がある。何しろ、前回は紫貴の娘とはいえ、私の子ではなかったのだ。今回は皆、私の子として生まれている。同じ命だとは思っているが、しかし違うのかも知れない。なので期待はしない方がいい。」
それには、紫貴も頷いた。
「あの子は、確かに性格も何もかも、見た目以外は前回の穂波と同じなのですけど、育っている環境も違うし、思い出さないと思う方がいいかと。新だけが唯一前回彰さんとの間に生まれて同じ環境で育っているので、戻った可能性があります。私達にもよく分からないのですけど…なので、要さんも新しい人生として、生きて行かれた方が良いですわ。その上で、またお互いに惹かれ合うなら、考えてはと思っています。」
要は、頷いたが複雑だった。
こうして戻っては来たが、何もかも元通りというわけではないのだ。
確かに要自身も、今の穂波を見て何か違う、と感じた。
面影は確かにあるのに、どこか他人のような、そんな感じなのだ。
「…そうですね。」要は答えた。「全部元通りだと思っていました。でも、あの穂波は穂波ではないなって感じてしまった。面影はあるんですけど、もう穂波は居ない…そんな感じです。」
口に出してしまうと、失ったものの大きさに涙が出て来る。
…なんでこんなにすぐに泣くんだろう。
要は自分で思ったが、考えたら自分はまだ14歳。
子供なのだ。
紫貴が、そっと要の頭を撫でた。
「新しい人生なのですから。もしかしたらもっと幸せかもしれません。私がそうですし。悲観しないで。」
彰も、頷いた。
「そうだぞ、要。大丈夫、私達は側に居る。これからも。」
要は頷いたが、流れる涙は止まる事はなかった。
それから、みんな何事もなかったかのように勉強に勤しみ、日程は終わった。
洋子も、見違えるようにしっかりした自信に満ちた顔つきになった。
何しろ、私立の志望大学の過去問を最後に受けた時、軽くA判定で、その後に更に上の大学の過去問を受けたが、あっさりとA判定を勝ち取っていたのだ。
国語と英語、生物は元から理解があったので、そこを伸ばした上に数学を基礎からしっかりとやり直した事で、なんとか平均ぐらいに押し上げる事に成功したのが、良かったらしい。
国立は、かなりの数の教科をやらねばならず、時間のない今はやっても無駄だろうと洋子もやるとは言わなかった。
倫子が、帰り支度をしながら言った。
「まさか洋子がここまでできるようになるなんて。凄いわ、奇跡よ。私が滑り止めで受ける私立にA判定なのよ?なんか、馬鹿とか言って悪かったと思うわ。」
洋子は、首を振った。
「私が馬鹿だったのは事実よ。小さい頃から要には何をやっても勝てないし、だったら頼るのが楽だからもう、それでいいって思っちゃってて。だめよね、自暴自棄になってたのよ。要には敵わないのは当たり前だし、勝とうと思わずに自分は自分で頑張るべきだと思った。だって、無理なんだもの。」
要は、洋子の分のカバンを持ってやりながら階段を降りて、言った。
「姉ちゃんは伸びしろがめっちゃあったから教え甲斐があったってステファンも言ってたよ。ここまで伸びたの、姉ちゃんだけらしいよ?みんなそれぞれ志望校には受かるように、なんとか仕上げた感じらしいし。」
倫子はため息をついた。
「国立を狙ってる子が案外多かったのよね。だから、センターの点数上げなきゃならないし教科多くてもう大変。まあ、私はまだ1年あるから。みんなよりまだ追い詰められてないわ。洋子も、来年までまだまだやれるから、もっと志望校上げられるかもよ?」
洋子は、苦笑した。
「良いのよ、だって後は遠いし。それより家から通えて、必ず受かるそこそこのレベルの大学に受かるのが重要だったもの。お父さん達に負担は掛けられないわ。」
要は、頷いた。
確かに家のローンがまだまだあるので、とても無理は言えない状況なのだ。
「オレも、負担掛けずにやれるようにお父さんを説得しなきゃ。彰さんが案内の書類をくれたから、それを見せて帰ったら説得だ。きっと大丈夫だと思うけど。お金掛からないから。」
しかし、倫子は言った。
「でも、一人暮らしになると最初いろいろ買い揃えたりしなきゃだから、お金は要るんじゃない?大丈夫?」
要は、頷いた。
「家電はあるって言ってた。引っ越し費用だけかな。それぐらいなら出してくれると思うけど。だって、オレの分の衣食住がこれから何年も要らなくなるんだからね。三食支給してくれるみたいだし。」
すると、玄関に集まっているみんなが目に入った。
陽介が、こちらを見上げている。
「おーい、船が来たって!順番に運ぶって言ってる!」
「やば、もう船が来てるんだ!」要は、階段を駆け下りた。「ごめん、すぐに行く!」
そうして、2週間の合宿は終わった。
まるで何事もなかったように、全員が安全に帰途についたのだった。




