航海
さっさと終えてしまおう、と要が表紙の名前を書く欄に記入して最初の問題に取り掛かると、洋子が小声で言った。
「…要。この数学最初の計算問題からわからないんだけど。公式だけでも教えてくれない?」
要は、洋子を睨んだ。
「話し合うなって言ってたじゃないか。今のレベルを知ってもらって、それに合わせて教えてもらった方がいいよ。」
要は、腕で冊子を隠すようにして、先を続ける。
倫子が、反対側の隣りから小声で回りを気にしながら言った。
「…ほら。公式。」と、サラサラと冊子の余白に記入した。「しっかりしなよ。受験の時は覚えてたでしょ?もう忘れたの?高校で何やってるのよ。これ、中学でやった所だよ?」
洋子は、泣きそうな顔をした。
「うちの高校じゃ、赤点取ったら講習受けたら単位くれるの。だから半分ぐらいはその講習に来て進級するよ。そんなものだと思ってた。」
倫子は、息をついた。
「それじゃ大学は無理だよ。言われてみたら洋子の高校からは就職が多いもんね。進学でも専門学校とか。進路変更した方が良いんじゃない?今からでも頑張れば専門学校は行けると思うよ。そこで技術を身に付けたら就職有利じゃん。」
洋子は、下を向いた。
「専門学校って…何をしたらいいの?」
倫子は、答えた。
「それは洋子がやりたいことだよ。自分で考えて選ばなきゃ。」
洋子は、黙っている。
要は、何を言っても洋子自身がやる気にならないと無理だからと、目の前の問題にだけ集中して、そこからは倫子に任せて没頭していた。
「お弁当をお配りします。前に取りに来てください。」
真司の声に、要はハッと顔を上げた。
…めっちゃ集中してた。
壁にある時計を見ると、針は正午を指していた。
あれから2時間半、要はもう、最後の国語を終えようとしていた。
「要、取って来てあげようか?」
通路側の倫子が、要に言う。
要は、目をシパシパさせながら、頷いた。
「うん。もう終わりそうだから、終わってから食べる。」
すると、前後の席の人達が、驚いたような顔をした。
「え、もう終わるの?」
前の席に座っていた、女子が声を掛けて来た。
要は、頷いた。
「え?うん、そんなに難しい問題じゃなかったから…。」
その子は、隣りの子と顔を見合わせている。
…おかしかった?
要が思っていると、その子が言った。
「あ、私は塚本久美子。高校三年生よ。あなた若そうだけど、高校一年とか?」
要は、答えた。
「オレは立原要。中学三年生。」
皆が、目を丸くする。
隣りの女子が言った。
「私は増田真由。すごいね、これ大学受験とかに出てくる問題もあるのに。」
要は、何が凄いのかいまいち分からなかったが、最後の問題をサラサラと解いて、冊子を閉じた。
「医師を目指してるんだ。だから、家で勉強してる。今回もいろいろ抜けてる所を補正できたらって思って来たんだよ。」と、立ち上がった。「姉ちゃん、ちょっとどいて。終わったから先生に渡して来る。」
チラと見ると、洋子はまだ2科目の物理のページを開いていた。
…間に合わないな。
要は、思って言った。
「姉ちゃん、国語と生物得意だろ?そこからやったら良いんだよ。時間足りなくなるぞ?数学と物理は壊滅的なのに時間取ってたらもったいないぞ。」
洋子は、言った。
「先にやっていいの?」
要は、頷いた。
「ようはやり切ったら良いんだから。このままじゃ全部できないみたいに思われるぞ。」
すると、真由が言った。
「そうよ、私も数学と物理は苦手だから先に英語からやったよ。レベル見るだけって言ってたから、わからない所はわからないで良いと思うよ。教えてもらうために来てるんだから。」
久美子も、頷く。
「そうそう。私なんか後ろからやってる。」
洋子は、少し表情を緩めた。
「そうなのね。うん、分かった。私も後ろからやるよ。」
要は、そんな会話を後目に、弁当を取りに来ている皆を見ている真司に冊子を渡した。
「真司先生、終わりました。」
真司は、それを受け取った。
「早いな、要君。オレのことは真司で良いぞ?先生とか言ってたら2週間馴染めないかもだし。」
要は、頷いた。
「それじゃあ真司さん。オレのことも、要でいいです。」
すると、脇から博正が言った。
「お、要はやっぱり頭が良いなー。もう終わったのか。じゃ採点だな。」
要は、驚いた顔をした。
「え、なんでオレが頭が良いって?」
真司が、博正を小突いた。
「こら、いい加減なこと言うなよ、博正。」と、要を見た。「すまないな、博正はいつもこんな感じで適当な事言うんだよ。」
それが先生って大丈夫なんだろうか。
要は思ったが、要は良い子なので顔には出さなかった。
しかし、博正は言った。
「おい、そんな言い方すんなよ。一応先生なんだからな。」と、要を見た。「英語は話せるか?何ならお前、ここから後3時間暇だろ。英会話の勉強にオレと島に着くまで英語で話すか?」
要は、博正を驚いた顔で見つめた。
「英語の先生って、話せる先生なの?」
この博正が。
要が目を丸くしているので、博正はブスッと言った。
「一応、ある程度は話せるっての。でなきゃ英語の教師なんかやらねぇ。」
真司は、ため息を付いた。
「だから先生ならそれらしくしろよ。」
博正は、フンと鼻を鳴らした。
「ガラじゃねぇ。」と、要を見た。「で、どうするんでぇ。やるのかやらねぇのか。オレは別にどっちでも良いけどよ。」
要は、留学したいと思っていたので、もちろん英会話も独学で進めていた。
願ってもないので、何度も頷いた。
「やりたい!お願いします!博正さん!」
博正は、手を振った。
「博正でいい。オレ、これでも若いからよ。まだ学生なんだ。これはバイトさ。」
要は更に驚いた顔をした。
「え、学生なの?!大学生?!」
博正は、苦笑した。
「いいや。17。お前の姉ちゃんと同い年。」
そうは見えない。
要が仰天している向こうでは、その会話を聞いていた他の学生達も目を丸くしていた。
そんな事にはお構いなく、博正は早速流暢な英語で要に言った。
『では、下の階に行こう。そこそこ話せるのだと言っただろう。』
英語に変わると、何やら品よくきちんとした言葉に聴こえる。
どうやら、そういった言葉の使い方をする場所で英語を習得したらしいと要には分かった。
要だって、長くいろいろなネイティブの会話を録音して聞き続けて来たので、それぐらいの違いは容易に分かった。
要は、博正について歩きながら、言った。
『博正の英語、もしかしてめっちゃ社会的地位のある人達の中で覚えた感じ?』
博正は、お、と要を見た。
『分かるのか。その年でネイティブ並みに話せるとはな。オレはめちゃくちゃ頭の良い連中と過ごす事が多かったから、その中で自然に学んだのだ。だからこれしか分からないのだがな。社会的地位が高いと言われたら、確かに彼らはそうだろう。君もそうなる。オレ達が教えよう。』
多分ずっと英語で話してた方が先生らしいと思うよ。
要は思いながら、その英語がどこか懐かしいような気がした。
それが何の記憶から来るのか、全く分からなかったが、その規則正しく分かりやすい話し方に心地よくて、要はずっと、階下で一人、博正と話し続けていたいと思った。
博正は、言った。
『…昼食を持って来るといい。』要は、そうだったと、倫子を振り返った。『下で待っている。』
要は頷いて、倫子の所へ走った。
倫子は、要の弁当とお茶を差し出しながら、言った。
「…何話してたの?要、英語話せたんだね。」
要は、頷いた。
「博正先生が英会話見てくれるって。オレ、島に着くまで暇じゃん。」
洋子が、言った。
「あの人高ニなんでしょ?日本語あんな感じなのに、英語大丈夫なの?」
要は、また頷いた。
「うん。英語になると、めっちゃ丁寧っていうか、頭の良さそうな話し方になるんだ。だからきっと、バイトとして雇われたんだと思うよ。だから行って来る。二人はテスト頑張ってて。」
倫子と洋子は、頷く。
要は、ワクワクして来る気持ちを抑えながら、階下へと走って行ったのだった。