誘い
要は、生まれた時から賢い子だと言われていた。
父母は至って普通の人達で、普通の家庭なのだが、姉の洋子とは違って何事にも習得の速い子だと幼児健診のたびに褒められ、母も父も有頂天になるほどだった。
が、あいにく一般のサラリーマンが、その能力を伸ばしてやるには重要なものが欠けていた。
そう、資金だった。
無理をして家を建てた時のローンは35年、ボーナス月には多めに持って行かれてしまう。
なので、要が早くから医療の道に行きたいと言っているのは知っていたが、そこに投入する資金の余裕はなかった。
要は、なので自分でそれを稼ぐしかないと思った。
昔から夢に見る…成人した自分が、とんでもなく頭の良い人達に囲まれて、困りながらも楽しく幸福に暮らしている光景が要の頭の中に残っていて、その場所こそが自分の目指す場所なのだと想われて仕方がない。
何より、誰より会いたいと感じる誰かが、そこには居た。
しかし、その顔も何も、思い出せない。
それが夢なのは分かっていたし、目が覚めた時にはその大半が失われていたが、それでも要の中の何かが言う。
その場所を、目指すべきなのだと。
高校は進学校をと担任にも推されていたが、そこに通いながらアルバイトをしたとしても、恐らくそんなに稼ぐことはできない。
自分は、なぜか海外へと留学してそちらで大学を卒業し、医学の道に進みたいという強い想いがあった。
ならば、看護師になって必死に稼げば少しは早まるかもしれない。
要は、もうすぐ15歳となる今、そう思っていたのだ。
「ねー要、ここ分からない。」
ハッとして振り返ると、姉の洋子がキッチンの椅子に座ってこちらを見ていた。
その手には、教科書が乗っている。
洋子は2歳年上で、今は高校二年生になるのだが、まだ中学三年生でしかない要に、いつもこうして宿題の答えを聞いて来るのだ。
要は、ため息をついた。
「姉ちゃん、マジない。オレでも分かるのに、なんで授業に出てる姉ちゃんが分からないんだよ。そもそも姉ちゃんの高校ってそんなレベル高くないんだから、難しいことやってないんだぞ。」
洋子は、頬を膨らませた。
「だって分からないんだから仕方ないじゃない。あんたに聞くのが一番速いんだもん。」
全く反省していない洋子に、近くでせっせと夕飯を作っている母親を見た。
「母さん、姉ちゃんヤバイって。高校進学の時も、散々オレに宿題やらせてたから結局実力なくて何とかギリギリ底辺の公立高校に受かったけど、姉ちゃんこれで大学行くとか言ってるんだよ?また二の舞じゃないか。オレはやらない。あの時徹夜で勉強に付き合って、もううんざりしてるから。」
母は、振り返ってため息をついた。
「確かにその通りだわ。それを許してたから、あの時は大変だったもの。滑り止めの私立の高校も落ちてたし、二次試験でまた落ちたら高校浪人かってお父さんも嘆いてたものね。ま、でも今回は大学だから、落ちたら働いてもらうから。うちには浪人を養う余裕がないものね。」
洋子は、慌てて立ち上がった。
「ええ?!そんなの無理よ、だって塾だって行かせてくれないのに!要が居るから教えてもらえって言ったの母さんよ?」
要は、首を振った。
「オレは無料の家庭教師じゃないから。オレだって自分の勉強があるんだ。図書館行って来る。姉ちゃんは自分のことは自分でやって。最初から就職目指してもいいんじゃない?それだけ勉強が嫌いだったら、なんで大学なんか行くんだよ。」
あまりにも正当な意見に、洋子は言い返すこともできない。
要は、さっさとここを出よう、と、図書館に向けて家を出たのだった。
家を出て少し行くと、前の方から洋子の友達の倫子が歩いて来るのが見えた。
また絡まれるなと嫌な気がしたが、今更避けることもできない。
そのまま、倫子が目の前に来るまで、要は下を向いて歩いていた。
すると、倫子がお構いなしに話しかけて来た。
「要?洋子は居る?話があって来たのよ。」
要は、むっつりと倫子を見た。
「…居る。宿題してたけど。」
倫子は、ため息をついた。
「そう。あの子も馬鹿なのにどうせできてないんじゃない?」
遠慮のない物言いは、幼い頃から家の近さで一緒に育ったからだ。
要は、頷いた。
「オレは付き合い切れないって出て来た。」
倫子は、言った。
「でもね、それも解消できるかもなの!」と、一枚の広告を要に見せた。「今朝駅で配ってたんだ。もうすぐ夏休みだから、この短気集中合宿に参加しないかなって思って!」
要は、その広告をじっと見た。
そこには、『中学生、高校生の皆様、学習習慣がついてないと嘆いていませんか?当校ではまずそこから正し、その上で自主的に楽しく勉学に勤しめるように、環境造りからお手伝い致します。リゾート気分で参加できる、孤島のホテルを貸し切っての短期集中合宿です。最大二週間、今ならお試し価格で衣食住込みでお一人様二万円から。詳しくはお問合せください。先着15名様限定でご参加頂けます。成績が著しく向上したかた一名には、奨学金を進呈!』と、書いてあった。
…孤島…。
要は、何か引っかかるところがあった。
「…これ、姉ちゃんと倫子で参加するの?」
要が言うと、倫子は頷いた。
「そう!勉強っていうのが気に入らないけど、リゾートホテルを貸し切りなのよ?最悪宿題持って行ってその間にチャチャッとやってしまえるかもしれないし。めっちゃ条件いいじゃん。二万円だったら、バイト代があるから行けるもんね。」
確かに、自分もお年玉を貯めてあるので二万円なら出せる。
要は、倫子に並んだ。
「オレも行こうかな。」え、と倫子が驚いた顔をするのに、要は言った。「だって姉ちゃんと倫子だったらせっかく行ってもちゃんと勉強しなさそうだし。それにオレも、教えてもらいたいことがあるんだ。願ってもないよ。」
倫子は、怪訝な顔をした。
「だってあなた、バイトしてないでしょ。お金あるの?」
要は、即答した。
「ある。だってお年玉貯めてるもん。」さらに驚いた顔をする倫子を引っ張って、要は今来た道を戻って行った。「ほら、行こう!先着順なんだから、さっさと申し込まないといけなくなる!早く!」
戸惑う倫子をどんどんと引っ張って、要はなぜか行きたくてたまらなくなった、その合宿の申し込みを急ぎたくて家へと戻って行ったのだった。
結論から言うと、自分で支払いができるのなら行って来ても構わない、という父母の許可が出た。
どうやらこの塾は、どこかの病院の法人が経営しているものらしく、信頼できるということだった。
洋子と倫子はリゾートに行く気満々で、もうスーツケースに水着まで入れて準備し始めていた。
要はというと、特に準備はしていなかった。
勉強も分からない所というのが今のところ無くて、自分でも何が楽しみなのか全くわかっていない。
最後の文言の、奨学金が出るというところを、詳しく聞きたいのかもしれない。
海外へ留学したくて破格の金額が必要となっても、それは出るのだろうか。
もし行けるのなら、こちらで普通の高校に通ってから、あちらへ渡ることが可能かもしれない…。
要は、そんな事を思っていたのだ。
そんなに甘いことはないだろうが、しかし成績が著しく向上した一名、というのになる自信はあった。
夏休みに入ってしばらくしてから始まるその合宿を、要は心待ちにしていたのだった。