3 戦友③
野中将臣
電車を降りて家まで歩く。街灯が照らす夜道にポツリポツリと自分と同じような帰宅途中のサラリーマンがいる。薄暗い夜に明るい光を見つけた。コンビニに寄った。奥さんから牛乳を買ってきてと連絡を受けていたのだ。
入店を知らせる陽気なチャイムを聴きながら店内に入り、冷蔵の棚の前に立つ。コンビニの棚には1リットルの牛乳がない。それにいつも買ってた銘柄ってなんだったっけ?よくわからないので適当に買った。会計を済ませて外に出る。ビニール袋をぶらぶらさせながら、片手でスマホをいじった。歩きながら耳に当て発信音を聞く。しばらく応答がなかった。かけ直そうかと思ってると、相手が出た。
「はい」
「父さん」
「将臣か。どうした?こんな時間に」
「うん……」
「今、帰りか」
「そう」
「いつもこんな遅いのか?」
「大体こんな感じ」
「頑張ってるんだな」
その言葉にそっと笑った。仙台と東京は時間の流れ方が違う。社会人になったばかりの頃は、自分が田舎しか知らない親よりも偉くなってしまったような、妙な気分になったものだ。それが、月日を重ねて色々ある度に、なんだかよくわからなくなってくるんです。うまく言えないのですが、何が正解なのかがよくわからなくなってくる。
社会人になったばかりの頃は、僕が正解で父さんが間違っていると、簡単に言えばそんなふうなことを思ってた。でも、そうとばかりも言えないなと思うような日もある。
「母さん、元気にしてる?」
「普通にしてるよ」
「やっぱり来ないって言ってるの?」
「うーん」
「気は変わらない?」
父は電話の向こうでため息をついた。
「言えばいうほど頑なになる」
「そっか」
電話をする前から、結果はわかってたのだけれど、でも、なんとなく電話をかけた。
「このははなんて言ってるんだ?」
「別に気にしてないとは言ってる」
「そうか」
歩きながら斜め上の夜空をなんとなく見上げる。星なんて見えない東京の空を。
「だけど、一生の傷になると思う」
「……」
「親が自分の結婚式に出ないなんてさ」
ちょっと前に一緒に食事をした時の妹の様子を思い出した。妹はケロッと言った。
「お兄ちゃん、大袈裟に考えすぎよ」
「大袈裟って?」
「結婚式を挙げない人だっている世の中だよ。そういう人と同じだって思えばいいじゃない」
「でもね、一生に一度のことだし」
「いいの、いいの。もう。わたしは気にしないことにしたから」
さっぱりと笑ってた。
その顔を脳裏に描きながら父に言う。
「式に出なかったってことをきっかけに母さんとこのははもっと拗れてく気がするんだけど」
「うーん」
「なんか、このはももうちょっと焦るというか、落ち込むというか、あっけらかんとしてんだから参るよ」
「でも、気にしてないわけじゃないと思うけどね」
「まぁ、ね」
母親の顔と妹の顔を同時に思い浮かべた。ため息が出た。
「どうしてこんなことになっちゃうんだろうね」
「そうだねぇ」
父はのんびりとそう言った。
「父さんは?元気にしてるの?」
「別に普通だ」
「なんだよ。普通、普通って、さっきから」
「そりゃ若い頃みたいに元気だとも言えない」
「元気だっていっとけばいいじゃない」
「じゃあ、元気だ」
少し笑った。
「来週末帰るよ」
「なんで?」
「母さんと話しに」
「……」
父が黙った。僕は明るい声を出した。
「父さんじゃ役に立たないみたいだから俺が説得しにさ」
「お前は妹孝行だなぁ」
「そんなでもないよ」
新幹線の時間がわかったら教えなさい。迎えにいくからと言って父の電話は切れた。
家にたどり着いてドアを開ける。ただいまというと奥の方で奥さんがおかえりとかなんとか言っているのが聞こえる。リビングのドアを開けるとパジャマ姿だった。
「牛乳、買ってきた?」
「はい」
妻はダイニングテーブルの上で僕から受け取ったビニール袋を開いた。
「あ、こっちじゃない」
「え?」
「いっつも青いほうでしょ?うちは」
「コンビニにはそれしか売ってなかったって」
本当は青いほうも売ってました。
「もう、役に立たないな」
「牛乳なんてそんな変わんないよ」
「変わります」
本当に変わるのだろうか?ちょっと気になった。奥さんはそれ以上不満を言うのをやめて、牛乳を持ってキッチンへ消える。
「あ、そうだ。あのさ」
「なあに?」
その声はもう尖ってなかった。
「来週末、俺、仙台行ってくる」
パタンと音がして奥さんがこちらに戻ってきた。
「それって……」
「うん。このはのことでね、母さんを説得しに」
「そっか」
ちょっと神妙な顔をした。しばらく黙った後で言った。
「わたしも行った方がいい?」
「え?」
そんなこと言うと思ってなくてポカンとした。それで尋ねた。
「一緒に行きたい?」
「……」
行きたくないとはっきり言ってはあれだなとでも思ったのか、気まずそうな顔をしている。
「無理しないでいいよ」
「無理ってなによ」
「大丈夫、大丈夫だからさ」
「そう?」
「うん。ちょっとほったらかしにしちゃうけど、ごめん」
「いいわよ、別に。日曜には帰ってくるんでしょ?」
ほっとした顔をした。あ、そうですか、行ってらっしゃいとつらつら言っては冷たすぎるとでも思ったのだろう。本心では留守番したかったんだ。
「お土産買ってくるよ」
「いいよ。別に」
「買ってくる」
「ええ?」
奥さんの笑ってる顔をしばらく眺めた。
***
乗り物に乗って移動している時、いつもは忘れているようなことを考えるのはどうしてだろう?新幹線に乗って仙台に向かいながら思う。思うに、乗り物は体だけじゃなくて心も移動させるからじゃないだろうか。東京にへばりついている僕の心を高速で動かす。だからと言ってまだ仙台に到着していない以上は、僕の心は仙台にもない。
こういう時、今とか過去とかから少し自由になって人は心の底の方にあってほっておいたことについて取り出して考えてみるのかもしれない。
そして、僕は昔の妹のことを思い出した。三つ年下の妹。幼い頃は他の子供と同じく兄である僕にまとわりついて歩いた。弟だったらまだしも、女である妹に付き纏わられて邪魔だなと思っていたような気がする。あまり覚えていない。特別に仲が悪かったわけでもなくかと言ってとても仲が良かったわけでもない。僕たちは普通の兄弟だったと思います。ごくごく普通の。
学生時代のこのはは、どちらかといえばおとなしい子だった。本が好きな女の子。大学で東京に出た僕とは違って、仙台に残り就職も仙台でした。そのまま学生時代から付き合っている彼と結婚して、地元で生きていくんだと思ってました。
だから、それが突然東京に出てくるなんてことになって驚いた。そして、どうやら自分より一回り以上も年上の男に惚れているようなのにも。
男と女の変化について思う。男というものは女ほどそんなに急激に変化するものではない。それを僕に教えたのは何のことはない、実の妹でした。そのくらい、信じられなかった。あのおとなしいこのはが東京まで出てきて、そして、一回りも上の男に惚れるなんて。しかも、その男には奥さんがいましたから。危なっかしくてみてられない。だからと言って、無理矢理にやめろとかなんとか、ずかずか干渉することもできない。もうお互いいい大人ですから。
家族が、自分が今まで知っていたのとは違う顔を持って生き始める時、家族として何をしてあげたらいいのかわからない。でも、不幸な目にだけはあってほしくない。当たり前です。他人ではなくて、家族ですから。どうでもいいわけがない。
そんな自分の、新しい妹に対する戸惑いのようなものが形を変えたのは、妹の変化と同時に起こった母の変化でした。親を置いて東京に出た妹を母は面白く思わず、妹を責め、仙台に帰ってこいと言うようになった。僕が東京に出たことにも、仙台に戻らず就職したことにも何も言わない母が、妹には言う。それを横で眺めていて、その母の妹への執着の深さに改めて気づいた。
いろいろな意味でそれがショックだったんです。
母が歳をとってきて精神的に弱くなってきているのを目の当たりにしたこと。そして、母の妹への執着の深さ。それが少し異常にも思えた。それがきっかけで妹は仙台を出なかったのではなく、出られなかったのではないかと思うようになった。そんな背景も知らずに僕は、妹が親元にいるのに安心しながら東京にいたわけです。
そう思うと、その新しい妹は、母の支配から逃れて妹が自らの手で生み出そうとしているものなのかもしれない。そう考えるようになったのです。
新幹線が仙台に着いた。到着のアナウンスが鳴り響くホームにカバン一つ肩に下げて下り立った。故郷の懐かしい香りがした。
***
改札を抜けた向こうに両親がちょこんと立っていた。手を振るとあちらも手を振る。2人に向かって歩いて近寄りながら、久しぶりに親に会ってほっと心が緩む気持ちと、会うたびに小さくなるとでもいうのだろうか、親が歳をとってゆくのを目の当たりにして沈む気持ちが同時に湧き上がる。
「待った?」
「いや、たいして。混んでたか?新幹線」
「そんなでもないよ」
父と交わす会話の横で母がつまらなさそうに僕を見上げている。
「母さん、ただいま」
「お帰りなさい」
母は僕をみても笑わなかった。そのことに少し戸惑った。すると、父が明るい声を上げた。
「さ、行こう」
何を思ったのか人の荷物をぐいと取り上げて駐車場に向かってすたすたと歩き出した。慌てて後を追う。
「何やってんの?父さん」
「何が」
「自分でもつよ。ばかだなぁ」
「え?」
言われて肩に取り上げた僕のショルダーバッグを見ている。
「もう、子供じゃないんだし。自分で持つでしょ?」
「ああ、すまん。すまん。なんか癖でな」
「癖?」
「俺の中ではまだお前は子供なんだなぁ」
「なに言ってんの」
笑ってしまった。笑いながら荷物を取り戻した。それから、連れ立って歩き出す。
「そうはいってもな、将臣。親は何歳になっても子供には何かしてあげたいものなんだよ」
「そうなの?」
「お前はまだ子供がいないからわからないだけだよ」
傍らで母が俯いて微笑んでいるのが僕の目の端に映った。
「そういう予定はないの?」
母が口を開いた。僕は母の顔を見下ろした。
「予定って?」
「赤ちゃんよ」
「ええ?まだ結婚したばっかりだよ」
「あら、ぐずぐずしてる間にすぐ歳を取るわよ」
「母さんまでこのはみたいにずけずけいうんだな。そっくりだ」
すると母は黙った。そして、父がまた陽気な声を出す。
「さ、行こう。行こう。こんなことしてると日が暮れる」
車に乗ってシートベルトをすると、父はまっすぐ家に帰らないという。
「なんで?」
「せっかくだから紅葉を見に行こう」
そして、家族で秋のドライブに出かけた。行き先はここら辺で名勝として人気のある秋保大滝でした。僕が助手席に座って、母が後ろに座った。
「母さんが前じゃなくていいの?」
「それだと父さんが将臣と話できないでしょ?」
僕たちは自然の中を風景を眺めながら前へと進む。ここに妹もいたら良かったのにと思いました。妹もいて母の横に座っていたら良かったのに。母はどれだけ喜ぶでしょうか。
でも、母は、母を捨てて出て行った妹を拒絶しているのです。それはもう、頑なに。
「着いたぞ」
駐車場に着くと父はバタンと音を立てて車を降りる。外に降りるとうんと両手を上に上げて体を伸ばしている。父に続いて下りた。青い空の中に色とりどりの木々の色が映えていた。僕は胸いっぱいに息を吸った。
「ああ、やっぱり田舎は空気が違うなぁ」
「なんだ、偉そうに」
「別に偉そうになんて言ってないでしょ?」
「いや、偉そうに聞こえた」
「それは聞く方の問題でしょ」
「将臣もいつの間にか東京の人みたいな口をきくようになって」
「なにそれ」
遅れてぱたんとおりた母がまた僕たちの会話を聞いて笑っている。その笑顔を見ながらまた思う。ここにこのはもいたらいいのに。そのくらい、なんだか胸が痛かったのです。元気を失ってしまった母に対してというよりも、母を喜ばせようと必死な父の姿に、僕は胸を痛めた。
どうして僕はこの人たちを置いて東京へ出てしまったのだろうと切に思いました。
このはと母が仲違いをしてしまい、傍らで心を痛めている父の支えになってあげられない。父が1人で今、母を背負っている。この問題を。何もしてあげられない。
いや、何もしてあげられないのではなくて何かしようと思ったから、今日はわざわざ東京から来たのだった。
そう思い直して沈んだ心を持ち直しました。
駐車場から遊歩道を入りしばらく歩く。美しく色づいた自然の中で感嘆の声をあげる母の横を父がゆっくりとついて行く。それを後ろから眺めていました。段々とどどどどという水音が近づいてくる。そして、景色が切れて滝が望める場所に出た。
「綺麗ねぇ」
水が滝壺に向かって勢いよく落ちてゆく。母がそれを見て喜んでいる。その横に父がいる。少し離れてその様子を眺めた後に、スマホを出して写真を撮った。父が見逃さなかった。
「何やってんだ」
「ほら、もっかい撮ったげる。こっち向いて」
ちょっと照れてる父がこちらをきちんと向き、母がその横にちょこんと立って笑顔を見せる。滝を背景に2人の写真を何枚か撮った。なかなかいい写真だと思った。
「お前も入りなさい」
「え、いいよ」
「いいから」
そこで、近くにいる人に頼んでもらって3人で撮った。家族で写真を撮るなんていつぶりだろう?そんなことを思った。それから来た山道を戻り、不動尊に参る。麓まで降りると蕎麦屋がある。
「ちょっと早いけど、夕飯にしたら」
「いや、行きたいとこがある」
父は僕の提案を受け入れず、駐車場に向かう。それから車で少し行ったところにあるお店に連れて行かれた。
「へー、こんなとこできたんだ」
「最近ね」
それはお洒落な隠れ家のような洋食屋さんでした。黒っぽい平家で、中に入ると大きな窓から刈り取り前の美しい稲田が夕方へ向かう日差しの中で輝いているのが見えた。
「母さん、なに食べる?」
「そうねぇ」
母がメニューを眺めている横で店内を見回す。まだ夕飯時には少し早くて、店内には僕たちしかいなかった。
「俺、今日、邪魔だった?」
「なに言ってんだ」
「もう」
2人で慌てているのを見ると心が和みました。綺麗なものをたっぷり見た後だったからだろうか、それに、この日の夕焼けは美しかったんです。少しずつ弱くなる光の中で、僕たちはでもまだ何か温かくてキラキラしたものに包まれている気がしていた。日中に陥った悲しい予感から僕は完全に立ち直っていました。
3人でおしゃべりをしながら、食事に舌鼓を打った。母はロールキャベツを食べて、父はハンバーグを、僕は鶏の唐揚げを食べた。
「デザートも頼んだら?」
「そうねぇ」
母がもう一度メニューと睨めっこする。
「あなたたちは食べないの?」
「いらない」
「じゃあ、わたしもいらない」
「じゃあ、食べる」
「あら、なに食べる?」
まるで女友達と話しているみたいにはしゃいだ。はしゃぐ母を久しぶりに見たと思う。母がプリンを頼んで、僕がタルトを頼む。楽しそうにスプーンでプリンを口に運ぶ母は、まるで子供のようだと思う。時々母は幼く見える。
機嫌がいい時に、一番話したかったことを切り出した。外はもう薄闇に包まれていた。その空の色は群青色。
「ねぇ、母さん」
「なあに」
「このはの結婚式、出席しないの?」
「……」
母は僕が言った言葉が聞こえなかったかのようにせっせとプリンを食べ続けた。
「このはの結婚式……」
「聞こえてるわよ。二回言わなくても」
「返事しないから」
「出ません」
さばさばと言われた。
「後から後悔しても取り返しがつかないよ」
「……」
また黙る。しかし、しばらくすると口を開いた。
「そう。取り返しがつきません」
「じゃあ」
「一回結婚したら取り返しがつきません」
「……」
今度はこっちが黙った。
「結婚なんてそんな軽々しくするものじゃありません。わたしが言っても今のこのはは聞かないから、将臣から言ってあげて」
「母さん」
「絶対に後悔するから」
母は力強くそう言いながらスプーンを振った。
「若いからぱっと頭に血が昇っちゃってるのよ。ね、あなたもそう思うでしょ?」
突然母は横の父に返事を求めた。父は少し悲しそうにも見えるような顔で静かに微笑んでました。
「今ならまだ間に合うのよ。婚約してて破断になるのなんて、そんな珍しい話じゃないわ」
「紫織」
「ね、あなたもそう思うでしょ?」
その時の母の声はやはり、はしゃいでいたのです。まるで若い娘のように。今日で一番生き生きしていたと言ってもいい。母ははしゃぎ、しかし、自分の周りにいる男2人が渋い顔をして黙っているのを見ると、まるで小娘のように拗ねた。
「もうあなたたちがそんなだからいけないのよ。わたしは式には出ません。出ないと言ったら出ません。この結婚には反対です」
きんとした声が伸びる。僕はそれ以上母にこのことについて言えなかった。
それから僕たちは仙台の自宅へと戻った。家に着くと、母は疲れたと言ってさっさとお風呂に入ると早めに寝てしまい、僕が風呂から上がると父が1人でソファーに座ってテレビを見ていた。その横に座った。しばらく父に付き合ってテレビを見た後に父に話しかけた。
「父さん」
「ん、なんだ」
「俺さ、今すぐはちょっと無理だけど、そのうち仙台戻ってくるよ」
父は驚いて僕を見た。テレビの画面では気象予報士が明日の天気について解説していた。
「なに言ってんだ。薮から棒に」
「そこまで驚くこと?」
すると父は唐突に僕の濡髪に手を載せてぐしゃぐしゃと頭を撫でた。それから言った。
「気持ちだけもらっとく」
「え?」
「そんな寝ぼけたこと言ってないで、仕事がんばんなさい」
「寝ぼけたことって、心外だな」
ちょっと拗ねて見せると、父は笑った。
「東京じゃ、生馬の目を抜くまではいかないのかもしれないけどさ。うかうかしてると蹴落とされるようなところだろ。仕事なんてそんなもんだ。仙台に帰るなんて弱気な考えがあると、あっという間に足元掬われるよ」
父の笑顔を見ながら僕は思う。歳を取っても父は父だなと。変わらない。
「銀行なんてさ、最後まで銀行にいられる人、ごく僅かなんだよ」
「そんなこと言いながら働く20代がいるか」
「もう30だって」
「父さんから見たら似たようなもんだ」
そしてまた頭をぐしゃぐしゃとされた。
「親の心配なんかしてたら、ライバルに蹴落とされるぞ。お前も結婚したんだ。まずは奥さんとこれから生まれてくる子供のことを先に考えなさい」
「父さん」
「死ぬ気でやってそれでもダメだったら帰ってこい。それくらいの覚悟で生きても、なかなかうまくいかないものだよ。仕事も人生もな、将臣」
その声の温かさに少し泣きそうになった。僕は父が心配だった。父と母が。だけど、歳を取っても親は親。簡単には抜き去らせてくれない。
「父さん、大丈夫?」
「なにが?」
「母さん、なんか最近難しいっていうか……」
「ああ……」
父はまたのんびりとした声を出した。
「将臣、お前はまだ結婚したばかりだからわからないと思うけどな」
「うん」
「夫婦ってな長く一緒にいる間にいろいろあるもんなんだよ。いろいろね」
「うん」
「病める時も健やかなる時も、だ」
そこで父は、有名な言葉を不意に引用する。それから言った。
「母さんは戦友だからな。戦友は絶対に見捨てない」
とても、印象的な言葉でした。その時の父の目、その色、その深さ。
東京で社会人になったばかりの頃、田舎しか知らない親を追い越してしまったような妙な気分になったものです。だけど、そんなふうにして社会に出て何年も経ってくるとだんだんわからなくなるんです。僕が正解で父さんが間違いだなんてそんなふうな単純なものでもないなと。
僕はまだ確かに、働くということとか人生とか、家族を支えるとか守るとか、本当の意味でそれがどういうことなのか、そして、どんなふうに大変なことなのかわかってないのだと思う。
つまりは父の強さや深さを僕は本当の意味では知らないのだと思う。そういうふうに少しずつ考えるようになっていた。
***
その翌日、母は僕を駅まで見送らなかった。父がついてきた。目的を果たせず蜻蛉返りする息子の肩を父はぽんぽんと叩いた。
「このはによろしく」
「うん、わかった」
帰りの新幹線で、僕はまだ父の戦友という言葉を思い出してたのです。それから、滝の前に立つ父と母の様子を思い浮かべた。滝が流れ落ちる音が蘇った。その絶え間ない水音と父母の様子を思い浮かべながら思う。寄り添い合う2人。
夫婦って一体なんなんだろう?
ただ、戦友というからにはやはり、生死を共にするという意味なのだろうなぁ。
親子の絆とはまた違う絆を父と母は持っているのかもしれません。それならばやはり、母を救うのは父以外にはいないのかもしれません。なんとなくそう思った。
そして、衝動的に妹の顔が見たくなったのです。東京に着くと真っ直ぐに家に帰るのをやめて吉祥寺に出た。妹の住んでいる街です。そして、妹を呼び出した。妹は特に用もなく家にいて、ちょっとぶつぶつ言った後に僕の呼び出しに応じた。
頼んだコーヒーに手をつけずに外を眺めていた。仙台と違って東京の人たちはせかせかと歩くよなと思いながら、若者や中年や老人や子連れの人たちが横切ってゆくのを眺めていた。
しばらくして見慣れた顔が入ってくる。店内を見回してすぐに僕を見つけるとすたすたと近寄ってきた。前の席にすとんと座りながら口を開く。
「どっか行ってたの?その荷物」
「仙台」
「え?」
妹がポカンとする。それを気にせず問いかけた。
「な、このは」
「なに?」
「お前は、先生と生死を共にできるか?」
「は?」
「どうだ?」
「なに、お兄ちゃん、酔っ払ってるの?」
「いいから答えなさい。できるか?」
「え?えっと、なに?もっかい言って。よく聞いてなかった」
妹は僕の前にきちんと座り直し、腕を軽く組みながら身を乗り出した。僕は少しゆっくりと先ほどの言葉を繰り返した。
「先生と生死を共にできるか」
「……それって、タイタニックみたいな大きな船が沈む時、救命ボートがいっぱいいっぱいで1人分しか乗れない。乗るのをやめて、先生と一緒に沈めってこと?」
質問に質問で返された。
「そこまで具体的に考えるのか、まぁ、でも、そうだ」
「ちょっと待ってね」
妹は律儀に片手を頬に当てて天井を見上げながら考える。そして、キッパリといった。
「無理ね」
「なにが」
「先生を1人船に残して、ボートには乗れないわ。無理」
「そうか。じゃあ、先生がお前を残してボートに乗ったらどうする?」
「それは本人の自由でしょ」
「そんなやつなのか?」
「いや、そういう人ではないと思うけど、でも、聞いてみないとわからないわね」
「お前はそれでいいのか?」
「……」
すると妹はまた片手を頬に当てて天井を見上げる。
「不思議ね」
「なにが」
「不思議と腹が立たないわ。1人でボートに乗っちゃう先生を思い浮かべても」
「そうなの?」
「いや、別に、本人がそうしたくて全然平気ならわたしを置いて行ってしまっても別に腹が立たない」
「……」
「後のこと頼むわねー、とか言ってさ。冷静に後のこと考えたら、二人沈むより一人助かった方がいいじゃない」
ケロッとした顔で言われた。なにも言えなかった。女の人って時々、冷静すぎて冷たいと思う。男にはよく理解できない。そんな僕の顔を見ながら、妹はふふふと口元に手を当てて笑った。
「でも、先生は多分できない」
「え?」
「だって、優しい人だから。人のこと見殺しにして生きるなんて絶対できないわ」
「じゃ」
「2人で沈むわね。残念ながら」
「そうか」
「なんでこんな変な暗い話してんの?わたしたち」
「なんでだろうな」
そして、僕は腕時計を見た。
「じゃあな」
「は?」
妹はまたポカンとした。それをほっといて隣の席に置いたバッグを持ち上げながら立ち上がる。妹が呆れた顔で僕を見上げる。
「ちょっ、人のこと呼び出しといて、なに?帰るの」
「奥さん待ってるし。用は済んだ」
「え、用ってなに?今の謎々?」
「コーヒー、飲んどけよ。口つけてない。新品だ。冷めたけどな」
コーヒーを指差しながら命令した。
「ちょっ、お兄ちゃん」
ほんっと落ち着きがないんだからとかなんとか騒いでいるのを背中で聞きながら、出口へと向かう。店を出る前にもう一度妹を振り返り、手を振った。妹はあきれた顔で笑っていた。
僕は、僕の妻の待つ家へと足を向けた。