1 そのピースが今更どこにはまる?④
澤田暎
それから数時間後の夜半、上野
夜の席で少し酔った理沙を連れて、タクシーに乗った。後ろの座席に2人並んで座り家へと向かう途中で僕は理沙に聞いてみた。
「もしも」
「なに?」
「お父さんに会えるチャンスがあったら」
お父さんという単語を聞いて、理沙の顔が無表情になった。
「実のお父さん」
「何、急に……」
さっきまでほろ酔いで機嫌良くしてたのが豹変した。
「話題に出さないほうがよかったかな?」
「なんというか……」
まるで頭痛でもしているような苦い顔で、こめかみを軽く自分の指で押しながら、彼女は言葉を続けた。
「わたしにとってはそれはもう、わたしの世界の外の存在かな」
「どういうこと?」
「わたしのパズルはもう完璧なの。そのピースが今更、どこにはまる?」
それは理沙による完全な拒否でした。完全完璧な。
「わたしには父親なんていませんから」
無理もないと思う。
父親が欲しかった理沙は、その願い叶った父親ができた後に、裏切られているからな。
その後に理沙は僕の服の袖をぎゅっと握った。
そして、しょぼんとした顔をした。
「どうした?」
「わたしが今から何を言っても……引かない?」
都会の夜を進む。暗がりと色とりどりのライトが交互に僕たちを照らしてた。闇に飲まれ、また光に包まれ、タクシーの後部座席で僕たちは二人で静かに身を寄せ合っていた。
「うん」
「ずっとそばにいてね」
理沙は、寂しかったんだと思います。ずっと長い間、寂しくてたまらなかった。守ってくれる男の人が欲しかった。父親が欲しかったんだと思います。それが叶わない。だからきっと……
「うん」
「長生きしてね」
ふっと笑った。
「もう、笑わないで。真面目に言ってるの」
「うん。わかった」
そういうとちょっと微笑んで、それから僕の片腕にくっついて離れない。
理沙はきっと、僕に父親の代わりも含めてそばにいてほしいのだと思う。
そして、二度と父親が欲しいとは思わないのだろう。
それから数週間後
それで僕は、理沙の母親からもらったあの名刺を普段は使わない古い手帳の間に挟んで本棚に置き、いつも通りの日々を過ごしていた。過ごしていたのだけれど、こちらは向こうをほっておいても、向こうが僕たちをほっておいてはくれなかった。
「澤田さん」
とある午後に受付から電話が入った。ざわざわとしたロビーの喧騒を背景に受付嬢の事務的な声が続く。
「ロビーにお客さまがいらっしゃってます」
「アポなんて入ってないけど?」
何か自分がうっかり忘れてしまった約束があったかなと会社の電話の受話器を片手で支えながら、片手でスマホを開きスケジューラーを開こうとする。
「いえ、お約束はされてないと」
「なに、飛び込み?」
編集者なんてやっていると、どこからか名前が漏れていて、時々どこぞの小説家志望なんて輩が飛び込みでくることもあるのである。度胸は褒めてやるが、そういうやつの書いたものが読めるものだったためしがない。
「いや、飛び込みというか。お名刺頂いたのでお名前読み上げます」
会社名で分かった。商売柄、そういった精密機器のメーカーなどとやりとりはない。すぐにわかった。
「今すぐ降りる」
「お会いになりますか?」
「すぐ行くから」
エレベーターで降りると、ロビーに少し場違いな様子の中年男性がいる。きっちりとスーツを着こなした、真面目そうな普通のサラリーマン。ラフな色合いの服装で歩き回る人たちの間で浮いていた。
「あの、澤田です」
声をかけると真っ直ぐ前を向いていた顔がこっちを見た。
「あ、どうも、あの……」
難しい顔をしていたのが笑顔に変わった。胸の内ポケットに手を入れて名刺を取り出そうとするのを、片手でそっと制した。
「あの、場所を変えませんか?」
明らかに業界の人ではない人と会って話しているのを不特定多数の人たちに見られたくなかった。
それから間も無くして、澤田の会社の近くのとある喫茶店
会社の近くの適当な喫茶店で向き合って座った。電車が行ったり来たりするのが見える古い喫茶店。
「すみません。突然お尋ねしてしまって……。一体何の件かと思われてると思うのですが……」
中年の男性が改めて懐から名刺を取り出した。それは、あの少し前に理沙の母親が僕に託したのと同じ名刺でした。僕はそれを手に持ってじっと見た。それから淡々と言いました。
「妻の母から説明を受けてまして」
「は?」
「立花理恵さんから」
「あ……」
そこで、彼はちょっと腑に落ちた顔になって、で、喉でも乾いたのかウェイトレスの置いていったお冷やを取り上げるとゴクリと一口飲んだ。僕は彼がその水をごくりと飲んで、コップを置くのを黙って待った。
「僕のところへ来るということは、理沙のことはもう調べてあるということですか?」
「はぁ、その、どこから話していいのか。すみません」
真下さんと言いました。その人は汗でもかいたのかどこからかハンカチを取り出すとそっと額の汗を拭いまたそれをしまった。
「その、我が社のわたしのかつての上司に当たる者が病気になりまして」
「ええ」
「残念ながら治る見込みなく……」
「あとどのぐらいと言われてるんですか?」
俯いていたのがちらりと顔を上げて僕をみた。
「あ、すみません。つい」
「いえ」
コーヒーお持ちしましたとしずしずとウェイトレスが忍び寄り、僕たちは一回会話を切った。かちゃかちゃという音を聞き、空になった鉄のお盆を胸に抱えてまたしずしずとウェイトレスが去る。
「半年」
「……そうですか」
なんとなく言葉に詰まって意味もなくギラギラとした表を眺めた。下の方に駅が見える。電車がひっきりなしに入っては出ていく。その焼け付くような光と濃い影。
「まだ若いのに残念です」
そしてその中年男性は本当に悲しそうな顔をした。かつての上司とはいえこんなプライベートなことで動き回っているのだ。かなり信頼し合った関係なのだろう。
「それで、ご本人が、もう死んでしまうのなら最後に会いたいと」
「理恵さんのことを口にしたのですか?」
「お断りされてしまいましたけどね」
苦笑いをするとそっとソーサーからカップを持ち上げて口に含んだ。
「理恵さんの生活の様子を少し知れればそれでいいと、人を使って調べさせたんです」
「はぁ」
「そしたら……」
「子供がいたと」
「それはもう驚きになって」
「ええ」
「時期からするともしかしたらと、そうなるともう寝ても覚めてもそのことを考えてらっしゃるんです」
「でもね、そうとも限らないでしょう?理恵さんだってああいう商売をしてたんだし。お客さんは一人ではないでしょう?」
「いや、ですけれど、かつての想い人に自分の知らない間に子供がいたら、それは自分の子供だと思いたいのが男心のようなものではないですか」
「はぁ」
それはわかる気がする。確かにそんなものだろう。
「それで色々調べて僕のところに辿り着いたってことですか」
「まぁ、そんなところなんですが」
僕はカップを取り上げてこくて酸味のあるコーヒーを飲んだ。
「今更それを知ってどうなりますか?」
「そういうことは承知しております。今までほっといてと。だから、ご本人ではなくこうして澤田さんにお会いして伺っているわけで」
持ち上げていたカップをかちゃりと置いた。遠くから電車の音や車の行き交う音がする。この喫茶店はエアコンも古いのかカタカタと小さな音を立てていた。
「真下さん」
「はい」
「会わせてください」
「え」
「あなたの上司に」
「あ……」
そして、男はまたどこからともなくハンカチを取り出して額をふく。
「だって常識的に考えてそうでしょう?あなたたちは僕の妻や僕のことをあれこれと調べて、でも、僕はその人の名前も顔も知らない」
「はい」
「理沙はですね。僕の大切な人なんです。彼女のことをどこの誰だかよくわからない人にペラペラと話すなんて道理はありませんよ」
「それは、確かにおっしゃる通りで」
「代理人なんて立てないで、名前を明かして、そして僕に会ってください。それならお答えします」
すると困った男はちょっと失礼と言って携帯を持ってそそと立ち上がると店を出た。店のエントラス近くで電話をかけ何やら話している様子を中から眺めていた。しばらくするとからんとまた店に入ってきて、前の席にすとんと座る。
「絶対に口外しないと約束していただけませんか」
「そんなことは僕にとっても利益にならない。しません」
そして、真下さんは一つの名前を教えてくれた。それは理沙の実の父親の名前でした。
山下洋二
その日、真下さんと分かれてから理沙の父親について調べた。それで、真下さんが口外するなと言った理由がわかった。山下洋二は山下精密機器の創業者一族の出身で、現在、代表はつかないが取締役のうちの一人だった。
会社の上層部の人間の醜聞は社員に示しがつかないのだろう。
理恵が手切金をもらったと言っていたこととも一致する。
それにしても、手切金を渡して終わらせた女のところに死期が迫ってからわざわざ訪ねに行くなんて、酔狂としか思えない。金持ちっていうのは自己中心的なものだ。
そこまで思った時にふと、年老いた自分の父親の顔が浮かんできて参った。
そうだ。金持ちっていうのは本当に自己中心的なものだ。わざわざ言われるまでもなく自分はよく知っている。
それから更にしばらく経ったとある日
理沙の父親に会おうなんてどうして思ったのか。
会って文句を言ってやりたいから、というわけでもない。それよりも一方的に盛り上がって理沙に直接会うとかなんとかされると困るというのがあって……。しかし、それだけではなかった。好奇心である。純粋な好奇心があった。会ってみたい。
真下さんからしばらくすると連絡があって、日時と病院の名前が告げられた。それと、部屋の番号。それは都内の有名な医大だった。電車を乗り継いで地図片手に向かう。駅を出るとすぐ小さな花屋があった。店の前で少し迷ったが結局入り、花束を買った。そして緩い坂道を上る。僕の腕の中で花が揺れた。
その淡い水色を視界の端に捉えながら黙々と足を動かし思う。なんだかこれは最初から降伏しているようでやだなと。やっぱり買わなければよかった。かといって罪のない花を捨てるにも忍びない。
「あの、これ」
「はい」
坂を降りてくるベビーカーを押している女の人にすれ違いざまに話しかける。
「間違って買っちゃったので貰ってもらえませんか?」
「え……」
「すみません。ただの花です。本当に」
ポカンとしているお母さんの赤ちゃんのケットを被った足元にポンと置くと歩き出した。
「すみません。困ります」
数歩のところで後ろから声をかけられた。
「それなら、あなたが捨てるか、あなたも誰かにあげてください」
「はぁ?」
日焼け防止に被った帽子の合間から、呆れた顔で見られた。その顔がちょっと面白くてぷっと笑ってしまった。
「本当にただの花なんです。そこの駅前の花屋さんで買った」
「はぁ」
「嫌いな人の見舞いに行くのについ買っちゃって、でも、やっぱり渡したくないんです」
すると、母親はパッと花束を取り上げるとスタスタと近寄りぽんと返してきた。
「本当に嫌いならお見舞い自体しませんよ」
それから、また引き返すとキコキコとベビーカーを押して行ってしまった。
母親の言葉になるほどと思いながら、腕時計を見る。少し時間を消費したが、オンタイムだった。そのまま仕方なくまた坂を上った。
部屋番号は知っていたので受付をそのまま素通りしてエレベーターの前へゆく。エレベーターの上の数字を眺めた。どうやら最上階らしい。エレベーターを待つ間ぐるりと病院のホールを見回す。近未来というかなんというか綺麗な病院だった。医療ドラマのロケに使えそうな、綺麗な病院。
音もなくエレベーターが到着しちんという音と共にスーッとドアが開く。その無機質とも言える四角い箱に乗り、最上階へと上がった。番号を確かめながら廊下を前へ進み、角の部屋でドアをノックする。返事がない。そっと耳をつけると、中で話し声が聞こえる。人はいるらしい。
約束の時間を間違えたかな?腕時計を見た。しばし、躊躇した。躊躇した上で、そっとドアを引いた。それはスルスルと開いた。中は一般的な個室よりはもっと大きい、広いゆったりとした部屋でした。ちょっとしたホテルのようだった。
僕がドアを引いて覗き込むと、ベッドに座った男性とスーツ姿の男性がさっきまで動かしていた口を閉じてこちらを見た。
「あ、すみません。あの」
僕が声を発すると、ベッドに座った男性はスーツの男をまっすぐ見てキッパリ言った。
「来客があると言っただろう。出直しなさい」
男性はため息をつく。渋々と窓際に立てかけてあった鞄を取り上げると、すれ違いざまにジロジロと僕を見ていった。僕も去っていく男をしばし見ていた。
「すみません。早く帰れと何度も言ったんですが、粘られてしまって」
その声はまだ元気でした。凛としていた。それには、ある程度の地位を持つ人特有の強さがあった。僕は花束を持って部屋の奥へと進んだ。そして、山下洋二と向き合いました。確かに少しやつれているようですが、そこまで病人とも思えない。それは、彼がまだ老人とは言えないような働き盛りの男だからだろう。真下さんの、まだ若いのにという残念そうな顔がその時浮かんだ。
「澤田暎と申します」
「山下洋二です。今日はわざわざご足労いただき申し訳ない。歩けないというわけではないのだけれどね。外に出るのは禁じられていて」
「あの、これ……」
僕は花束を持ち上げた。
「ああ、わざわざすみませんね。その窓際に置いておいてもらえませんか。後で誰かにやらせます」
僕は言われた通りに花束を窓際に置いた。その傍で山下洋二はベッドからそっと足を抜くと院内用のサンダルを履いて立ち上がった。
「ここにいるとまた誰か来るかもしれない。厄介だから場所を移しましょうか」
そういうと、点滴を吊るしている器具を持って歩き出しました。
「この階はね、この先にテラスがあるんですよ」
個室を出るとその廊下の向こうを指差した。そして2人で黙って歩き出す。相手に合わせてゆっくりと歩いた。その足取りはそこまで弱々しくはなかった。
「先ほどの方はよかったんですか?」
「ああ、いいんです」
そういうと、ふっと笑った。
「まさか、病院に入ってまで追いかけられると思いませんでしたよ」
「追いかけられる?」
「皆、社長に言ってダメだと、わたしのところへ来るんです。わたしから兄を説得してくれとね」
「ああ」
「会社にいる間はちゃんと聞いてましたけど、今はもう病人です。自分達でなんとかしろと言ってやりたいですよ」
「そうですか」
病院の床を点滴の器具につけられた車輪が音もなく滑ってゆく。
「もうね、死にかけてみるとね、みんなが必死なのはわかるんだけど、僕にとっては全部どうでもいいことにしか思えない。AだろうがBだろうが、大差はないだろと。なんて些細なことでみんな悩んでんだろうと思ってしまいますよ」
廊下の突き当たりで僕は病人の代わりにドアを開けた。ビルの上に造られた人工的な中庭に出た。風が少し吹いていた。
「ここでいいですか?」
「ああ、はい」
まばらに人がいる中で、日陰になっているベンチを選んで並んで腰掛けた。
「何から話したらいいのだろうね」
「さぁ」
「単刀直入に聞いてもいいですか?立花理沙さんはわたしの娘なんだろうか」
僕は山下洋二の顔を見て黙った。向こうも僕をじっと見た。彼の後ろに晴れた空が見えた。僕は黙りながら、彼の顔をじっと見ました。そして、見つけた。
「鼻筋から口元が似ています。目元はお母さんにそっくりですが」
それで伝わった。山下洋二は明らかに動揺して、僕から視線を外すと前を向き両手で頭を抱え込んだ。手が少し震えていた。しばらく彼は黙り、僕は男が話し出すのを待っていました。
「ずっと」
「はい」
「こういってはなんですが、理恵のことは忘れていました」
「……」
「元気な時は忘れていました。過去のことだし。でも、病気になってしまって死ぬと分かった時に」
「はい」
「自分の人生って一体何だったんだろうって強烈に思ってしまいましてね」
「はぁ」
「それから、あの時何もかも捨てて理恵と一緒に生きていたらどんな人生を送っていたのだろうと思ったら、その考えが止められなくなってしまって」
「……」
「まさか、子供がいたなんて」
そのまままたしばらく黙ってしまった。
「一緒に生きようと思ったことはあったんですか?」
すると顔を上げて僕を見た。
「なんといえばいいのかな」
しばらく少し疲れたような顔で考え込んでいた。
「それはあり得ないことでした」
そして、ポツリとそういった。
「一回も考えたことはないですよ」
それを聞いてガッカリした。じゃ、どんな答えを期待してたのかと言われるとそれはそれで困るのだけれど。
やっぱり金持ちの道楽というか感傷というか、そういうものを見るために本日のこのこと出てきたわけか。タバコが吸いたいなとちらりと思い、やっぱり花は無理くりあの主婦に押し付ければよかったと思う。そんな僕の気持ちが伝わったのかどうか、山下洋二は言葉を続けた。
「僕は生まれた時から家に縛り付けられていますから」
「……」
「家を捨てて自由に生きるなんて一回も考えたことはないです。ただ、死ぬ間際になって、本当にこれでよかったのかと悩むようになりました」
そして、自嘲的にふっと笑った。
「こんなこと君にいって分かってもらえるかどうかわからないのだけれど、僕はね、家にとことん利用された男なんですよ」
「利用……」
「兄がいるのだから、さっさと出てもよかったのに、馬鹿でした」
タバコを吸いたいなと無意識に自分の胸ポケットを探った姿勢のまま、もともとそこにタバコなんてない。理沙と一緒にいるようになってから僕はまた禁煙をしていたから。その姿勢のままで、その時、ツンと何かが僕を刺した。
「僕の妻はね、本当は兄が娶るはずだったんだ。兄が嫌がって、それで僕があてられた。妻の実家は政財界にそれなりにつながりのある家でね。我が家はその伝手が欲しかったんです」
1人で語りながら、そこで、彼は少し喉を唸らせた。
「絵に描いたようなお金持ちの家のわがまま娘でね。向こうの両親は結婚したらそれなりに落ち着くとでも思っていたようですが、人の本質なんてそんな簡単に変わりませんよ」
その苦い表情の年上の人を見ながら思った。僕たちはまるで鏡のようでした。
僕は兄を置いて家を逃げ出した人間です。この人は逃げなかった人。
僕と反対の世界をこの人は生きてきたようだと思った。
その後、男は遠い目をした。
「理恵に出会った時は、仕事でも家庭でも行き詰まっていた時で」
「はい」
「彼女は僕のあの頃の心の支えだったんです」
横でその澄んだと言ってもいいだろう男の人の目と横顔をそっと眺めました。
もしかしたら、この人は嘘をついているのかもしれません。遠い過去のことなんてどうにでも言える。人間はわりと上手に嘘をつくことのできる動物ですから。でも、この人にとって理沙の母親とのことが、取るに足りないことではなかったのだと信じたい自分がこの時確かにいました。
それはこの山下洋二のためにではなくて、理沙のためにです。理沙の母親が蔑ろにされたということはすなわち理沙が蔑ろにされたということと同義なわけですから。
「でも、突然いなくなってしまいましたからね」
男がさっぱりというので、僕は思わず眉を顰めた。男はその表情を見逃さなかった。
「どうかしましたか?」
「あ、いや」
「なにか?」
一瞬躊躇しました。適当に誤魔化してしまおうかと思って、だって、この人はもう死ぬじゃないですか。しかし、やはり言った。
「……手切金を渡して、別れたのではないのですか?」
「てぎれきん」
山下洋二は一つ一つの音をゆっくり丁寧に発音した。それから、また遠い目をして、ため息をついてから苦笑いした。
「そういう家なんですよ。勝手にそういうことをする」
「知らなかったんですか?」
驚いてそういうと、深く息を吸って静かに吐いた。
「信じてもらわなくても結構ですが、たった今まで知りませんでした。道理で、会いたいといっても会ってもらえないわけだ」
「怒らないんですね」
「もう過去のことです」
そして、淡々とそう呟いた。
「怒りなんて感情は若者の特権ですよ。理恵のことだけじゃない。たくさんのことを諦めながら何かを抜かれながらこの歳になった。怒る元気なんてないですよ」
「……」
「僕は不幸でした」
男はそうきっぱりと言い切った。
「誤魔化しながら生きてきたのが、どうにもならなくなったんです。僕は不幸でした。若い頃にはそれでも、人間には責任が大切だと思ってた。強く思ってました。そういうふうに言われて育った人間ですからね、それはもう厳しく。でも、いざ死ぬという時になって分かってしまったんですよ。いつも僕は家のことばかり大切にして自分を大切にしなかった。自分が何を欲しいのか、自分が何をしたいのか。責任を果たした誇らしさなんてどこにもない。ただ空っぽなだけです。僕は不幸です。人生で何も得られなかった」
その苦しみをなんと言い表せばいいのかわからない。ただ僕はこのよく知らない男の人の重い苦しみをその時、空気と共に共有していました。
「すみません。娘のことを聞かせてもらえませんか?どんな子ですか?理沙は」
娘という単語を発して、洋二さんはその時、先ほどまでの暗さを忘れるような明るい目の色をした。
「どんなと言われると……、そうですねぇ」
咄嗟に聞かれるとなんと言っていいのかわからない。
「何をするのが好きなの?」
「そうじ」
「え、そうじ?」
「家事全般、ですかねぇ」
「専業主婦なんだ」
「あ、いや、そういうわけじゃ。小さな出版社で働いています」
僕が話す理沙の話を洋二さんは楽しそうに聞いていた。
その様子は普通の父親のようだった。
「幸せに暮らしているんだよね?」
「僕としては、幸せに暮らさせているつもりですが」
「そうか」
昔は、お金で苦労をして、それで、辛い思いをしてたんですよ。
ちょっと前までは、夫も恋人も作る気がなくて1人でひっそり生きてたんです。
親とは断絶していて、友達らしい友達もいなかった。
それが、最近僕と暮らすようになって時々贅沢をするようになった。その度に、こんな贅沢な生活を送れるようになるなんて思わなかったって、笑いながら言ってます。
そして、あなたの娘はあなたのことを父親だなんてこれっぽっちも認めないだろう。
あなたを恨んでます。
死を前にして、今まで全くその存在を知らなかった娘の話を聞いて、そうか幸せに暮らしているのかとニコニコする。その顔を見ながら複雑な気分になった。
そんな単純に幸せに暮らしてますなんて言えるわけがない。幸せなんて言葉の内側に閉じ込めることができるような、そんな、そんな綺麗事ばかりが起こったわけじゃない。
でも、言えませんでした。
そう言って責めることができなかったのは、洋二さんが、兄と重なったからです。縛り付けられて、家から逃れられない様子が、重なった。そこに僕の強烈な罪悪感が起こってくる。
「写真を、持ってらっしゃいませんか?」
「……」
しばらくすると、恐る恐るとそう尋ねられた。
「写真を見るだけ、いけませんかね」
「あの、山下さん」
頭の中を少し整理した。どう言おうかと思って。
「写真を見たら必ず本人に会いたくなると思うんです」
「そんなことは……」
「でも、それは妻にとっては決していいことともいえないと思うんです」
「……」
「子供の頃はお父さんが欲しかったみたいです。いろいろ苦労して、自分には父親がいないという事実をやっと受け入れた後にお父さんに会ってしまうと、とても混乱してしまうと思うんです。すみませんが……」
「ああ、いえ。大丈夫です。すみません。あなたのご厚意に甘えてつい」
そう言って笑った傷ついたような笑顔が脳裏に残ってしまった。
***
帰り際にまたあの無機質な箱に乗りながら思う。きっと山下洋二はもう、理沙の顔を見ていると思う。自分も今までに調査会社というものを使ったことがある。ああいうところは、カメラで写真を隠し撮りするんです。
でも、その写真は撮られていることを知らない本人が、カメラの方を向かずに撮られているものなので、表情がない。きっともっと温かい生きた顔をした理沙を見たかったのだろう。
それでも僕がそのたかが写真を見せなかったのには訳がある。それは簡単で、洋二さんを理沙に接触させないためです。見れば必ず会いたくなるだろう。
死にゆく前に娘に会いたい気持ちはわかる。それは去っていく方にはいい出来事でしょう。
でも、理沙にとっては?
今まで散々ほっておかれて、やっと再会した時にはもうすぐに本当のお別れが待ってるなんて。
それでもその束の間の邂逅に、彼女の利になるような何かがありますか?
そしてまた、同じところに考えつく。
それは、僕が結論づけることではないのだと。
知らせるべきか、それとも知らせぬべきかで僕はまた悩んでしまった。