7 鬼ヶ島へ帰る⑨
7 鬼ヶ島へ帰る⑨
澤田暎
この街は居酒屋にことかかないのだが、子連れで居酒屋というわけにもいかず、駅の高架下のビストロに入る。ベーカリーも兼ねたビストロで、入り口から入ったレジ脇に所狭しといろいろなパンが並べてあった。そのサーカスのような陽気な彩りを眺める。
「なにか欲しいものがあったら買ってあげるよ」
「いらない」
「お腹減ってないのか」
食事はしていなかったが、自分も食べる気にもなれない。それでも適当にパンや菓子パンをトレイに載せた。ビールが飲みたい気がしたが我慢してコーヒーを二つとオレンジジュースを一つ頼んだ。僕が座るやいなや悠人が口火を切った。
「あれは、本当はわかってるのにわからないふりをしてるんじゃないの?」
「悠人……」
義姉が子供の手を握る。
「あなたが混乱すると思ったから母さん、黙っていたのに」
「義姉さん」
母親の方は見ずに悠人は僕をまっすぐ見上げていた。
「お父さん、僕のことを許したら、きっともとに戻るよ」
「……」
「何か今回はきっとすごくひどいことをやっちゃったんだ。今日ずっとそれがなんなのか考えてたんだけど、思いつかない」
「悠人」
「お母さんもそう思うでしょ?」
悠人は頑なにこれは父親が自分を責めるためにやっていることだと思い込んでいる。
「悠人が悪いんじゃなくって、兄さんは、そうだなちょっと疲れてるんだ。おじいちゃんが倒れちゃったから」
「じゃ、本当にあれ、記憶喪失ってやつなの?」
「そうだな」
悠人はつまらなさそうな顔でオレンジジュースをストローで数口飲んだ。
「テレビなんかで見てるのは面白いけど、家族がそんなのになるなんて笑えないね」
「笑えないね」
僕は、トマトとむき海老を載せチーズをかけて焼いたパンを手でちぎり、かけらを口に入れると噛み締めた。
「本当に僕のせいで忘れちゃったんじゃないの?」
「それはないな。原因はおじいちゃんが倒れたからだ」
「あれ、治るの?」
「うーん……」
パンは、所謂日本風にアレンジされた柔らかな食感ではなくて、それなりに噛みごたえがあり、それを咀嚼しながら小学生に向けての最適解を考える。
「どうやったら治るの?」
「叔父さんも流石に専門外でなんとも言えないんだけど」
「治るわよ。だから安心して家にいなさい。もう来ちゃだめよ」
結局義姉が横から口を出した。
「やだよ」
「悠人」
「なんでお父さんに会えないんだよ。そんなのおかしいよ」
「悠人、ずっと会えないなんて言ってないでしょ?」
「いいや、お母さんは嘘をついてる。お父さんが治るなんて本当はお母さんも思ってないくせに」
「悠人、黙りなさい」
母子のやりとりを眺めながら、なんとなく悠人の見ているものが見えた気がした。
今、ここで、縋り付かなければ、時が経つとともにもっともっと遠くへ兄が行ってしまう気がするのだ。今じゃなきゃ追いつかないような気がして、だからちょっとでもそばにいたいんだろう。まだ追いつけるうちに少しでもそばに。
「悠人、今、お父さんは叔父さんのことを自分のお父さんだと思ってる」
「おじいちゃんじゃなくて?」
「そう。おじいちゃんじゃなくて弟の叔父さんをお父さんだと思ってる。お医者さんがいうにはそれにはきっとなんか理由があるというか、お父さんにとって必要だからそうなってるんだろうって言うんだ」
「うん」
「だから、叔父さんはお父さんがそれをやめるまで、それに付き合うように言われてる」
「うん」
僕は悠人の目を覗き込んだ。そこに映るものを見ようとして覗き込んだ。
「悠人は子供だけど、叔父さんみたいにお父さんの嘘に付き合ってあげられるかい?」
「……」
「お父さんじゃなくて、12歳の友達の柾くんに、付き合ってあげられる?」
その時、一枚の画が見えた。真っ白な濃霧にあたり一面が覆われていて、その中に大人の兄と子供の兄が手を繋いで、微笑みながらこっちを見ている。空白で霧や雲を表す水墨画のような画だ。きっとその二人にとっての幸せは、現実の世界が世界として輪郭をくっきりとしているところに立つことではなくて、二人揃ってもっと深い霧の中に入り込んでしまうことなんだと思う。
僕たちに手を振る。あちらへは行けない僕たちのために、二人は今だけ境界線にいる。それは、ゆっくりとした別れのためにそうしてるのだろう。やがて奥へ進み、大人としての兄は永遠の眠りについて子供の兄は濃霧の奥の奥の方から、たまに霧の切れ間から見える像を眺めて、微かに世界と繋がる。
それが、二人の幸せなのかもしれない。永遠に行ってしまう。
そこへ行かせまいと思うのは向こうへゆけない僕たちのエゴなのかもしれない。
でも、戻ってきてくれると信じたい。失いたくない。一緒にいたい。どんな形でもいいから、こっちにいてほしい。苦しくてもここにいてほしい。
子供というのは感覚が鋭いものだから、本能的にそういうことを感じているのだと思う。だから、悠人は今、どうしても、父親のそばにいたいのだろう。
唐突な白昼夢から目覚め、僕はビストロの片隅で悠人に念を押した。
「焦らずにちゃんとそばにいて、お父さんが戻ってくるまで、友達の柾くんと一緒にいられるか?」
「うん」
「一回も怒鳴ったり、泣いたりしてはいけないよ。驚かせて怖がらせてしまうからね」
「うん」
「僕たちは待たないといけないんだ。それが短いのか長いのかわからないまま、ただ、待たなければならない」
「うん」
この時、義姉さんよりも悠人の方がむしろしっかりしていた。
きっとそれは、夢をみる力というか明日を信じる力というものは、大人よりも子供の方が強いからなんだと思う。子供というのは金色の矢のようだ。弓を引き絞り放てば、まっすぐに空を裂いて飛んでゆく。
奇跡が起きるとすればきっとそれは大人の手によってではなく、子供の手によってなされるのではなかろうか。
パンには結局手をつけられず、僕はお店の人に頼んでテイクアウト用の袋にそれを詰め、連れ立って店を出た。改札を潜る前に義姉が悠人を後方に置いて僕に近寄る。
「暎さん、悠人を柾さんに会わせてもいいんでしょうか?その悠人がどうというのもあるけど、柾さんにとって悪いことになりませんか?」
「……よく分かりませんけど、ただ、大事に守るつもりで兄さんを箱のような中にしまい込んだから治るというような気もしないんです」
「ええ」
「傷つけるような人間なら排除しますが、でも、悠人は僕たちの味方でしょう?」
「敵なわけがないわ。柾さんは悠人を可愛がってきましたから」
電車が頭上を走る音と音の合間に僕らはヒソヒソと話した。後ろから悠人がまっすぐな目で僕たちを見ている。
「かえってそこに希望があるような気がしたんです」
「希望って、悠人のことですか?」
「こういうのはやはり絆じゃないですか?僕や義姉さんや悠人と兄さんの間にある絆が、こっちに兄さんを引っ張ってくれるんじゃないかって」
がたんがたんと大きな音をあげて、たくさんの人を乗せて電車が通り過ぎてゆく。街の灯りの中で義姉の目がほのかに輝いて揺れた。
義姉は悠人の手を引いて改札の奥へと消えていった。二人がエスカレーターに乗り見えなくなるまで、僕はパンを抱えて見送った。
理沙と兄のいる家へ戻る道すがら考えた。
こういう形の 会えない というものも存在するのだなと。本人はそこにいてそっくりそのままなのに、別に体に問題もない。でも、中身が空っぽというか、入れ替わってしまっていて、
会いたい人がそこにいない。
僕たちのことを忘れてしまっていて……
そして、相手を探すことで解決できない問題というものもある。
ただ、相手が戻ってきてくれることを信じて、待つことしかできない。
もしかしたら、戻っては来ない人を、僕たちは待つことしかできない。
「ただいま」
家に帰ると、兄と理沙が引き続き一緒にテレビを見ていた。それは前世紀に起きた有名な連続殺人をエキセントリックに特集したバラエティだった。コートを脱ぎながら、ポカンとした。
「こんなの、見てるの?」
兄がこんなにくだらない番組を見ているのを初めてみた。
「この女が見るので付き合っていただけですよ」
兄と理沙が微妙な顔をして見つめ合う。
「君たちは仲良くなったのか?」
「別にもともと仲悪くはありませんよ」
それだけいうと、兄は立ち上がり自分の部屋、僕の書斎に戻ってゆく。
「ほんとに思春期の子供みたいだな」
むしろ感心してそういうと理沙が声を上げた。
「ね、あたし、嫌われてるでしょ?」
「まぁ、お父さんの愛人と仲良くしろと言われてもな」
「わたし、お義兄さんがもとに戻っても、この日々を忘れられない気がする」
「……」
「仲良くできる自信がない」
ふ、ふふふと笑ってしまった。
ムッとしている理沙と本来の兄ならしないような失態を色々しでかして、兄が後から弁解しようと困っている姿が見えた。
「ちょっと笑い事じゃないでしょう?」
「ごめん……」
あの時は、大変だったよねと、いつかどんな出来事だって笑って済ませられるだろうか?
ある程度年齢を重ねてきて、いつしか僕は、自分はまるで大抵のことはわかっているかのような錯覚に陥っていて、そんな僕の常識では、こんなことは 乗り越えられない何か なんだけど。
でも、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。
大人になると明日を信じる力が弱くなる。
だけど、同時に、大人は成功の経験から、もう一度信じる力を取り戻す。
そう、もしかしたら……
……そうじゃないのかも、しれない。
2025.10.07




