7 鬼ヶ島へ帰る⑦
7 鬼ヶ島へ帰る⑦
澤田暎
父の日頃を思ってみても、兄が同じ病院にいる限り自らの手で強引に物事を解決しようとするだろうというのは想像にやすく、それがまた父本人の病状にもよくない。そもそも解離性健忘というのは、特にその必要性がなければ入院して治療するものでもない。
それで、検査入院を終えて退院することになったのだが、困ったのは行き先だった。自宅に戻っては必ず父に連絡がゆくし、そうすればすぐに叔父が飛んでくる。下手すると父すら病院から出て会おうとするかもしれない。自宅の使用人含め、それ以外の人間が接触してくる可能性もあるわけで、好ましいとは思えなかった。
今後どこで暮らしてゆくかはまた別途考えることとして、一旦理沙のいる自宅に引き取ったのだが、柾の頭の中では父親の愛人宅に連れてこられたことになっているらしい。そう言われてから、柾に対して理沙をどう紹介したか思い返してみる。親しくさせてもらっている人、と言ったかと思う。これは嘘ではない。そして、これから兄は愛人と判断したらしい。状況からしてもっともな判断だ。理沙にはすまないが、自宅に戻せない以上はしばらく愛人役をやってもらうしかない。
桜田からは、できるだけ1人にしないようにと言われていた。記憶が突然戻り本人が混乱した時に事情のわかっている誰かがそばにいた方がいいからである。それで、朝晩は暎か理沙がそばにいるようにして、日中には義姉に来てもらっていた。でも、これも長くは続けられないなと思っている。柾との同居が理沙に負担だとしても、それはまだいい。問題は柾本人にとって理沙との同居が負担になっていることだった。
心理的に負担をかけない状態で生活しなければ、よくなるはずがない。もう一度戻って生きていきたいと思わなければ戻ってこられるはずがない。もっとゆっくり生活できる環境を整えなければと思う。
しかしそれは、精神疾患のある患者のグループホームなどとは違う気がしていた。本人に精神疾患を患っているという意識がこれっぽっちもないからだ。そんなところに入れてしまったら、大いに戸惑うだろう。それで、いまいちどうするのかが決められずにいた。
とある夕方、暎のマンション
美登里がリビングでソファーに座り本を読んでいると、部屋から柾が出てくる。玄関の方へとゆこうとするので美登里が慌てて立ち上がる。
「柾さんどこへ行くんですか?」
「どこへって……」
柾は困った顔をした。
「ずっと家の中にいると流石に窮屈で」
「それもそうですね」
「家の周りをちょっとぐるっと回るくらいですよ」
「お供します」
「1人で大丈夫ですよ」
「そういうわけにはいきませんから」
玄関で履き物を替えて、ガチャリとドアを開けると預かっていた鍵でドアを閉めた。その間柾はマンションの外廊下からぐるっとその同じ階の他の部屋や建物の外観を眺めていた。
「父は……」
「はい」
「なぜ僕をこの女のところに連れてきたんでしょうか」
「このひと?」
「日が暮れるとあなたと入れ違いに帰ってくる女ですよ」
「ああ、理沙さん」
「あなたにこんなことを聞いてもしょうがないですね」
問いかけた問いをさっさと引っ込めると、エレベーターに向かって歩き始める。下に降りるとなんとなく駅へ向かって歩く。所狭しと店が並び、仕事や学校のない人が行き交う。
「商店街が迷路みたいですね」
「そうですね」
雑多に延々と続く店や居酒屋や喫茶店。果てのなさそうなそんな街をゆっくりと歩いていた時、美登里は信じられないものを見た。信じられないものが道をこっちへ向かってくる。
「悠人」
この雑多な街に場違いな制服に身を包み茶色い皮の学生鞄を背負った少年は、ほっとした顔で道の真ん中でぴたりと止まった。美登里が駆け寄って息子の両腕を右と左で手で掴む。いつもより高い声が出た。
「こんなところで何をやっているの?」
「よかった。住所は知ってたけど、見つけられるか心配で」
「学校が終わってそのまま来たの?」
悠人が頷く。2人のそばに柾が近づいてくる。
「息子さんですか?」
「お父さん」
嬉しそうに言って母親から身を解くと、悠人は柾の片手をぎゅっと掴んだ。その手は無抵抗に掴まれたが、握り返されることはなく、呼ばれても柾は不思議なものでもみるように悠人を見ている。悠人はもう一度父の瞳を見上げて呼んだ。
「お父さん」
悠人は父の手をぎゅっと握って一度、二度とその手を振った。柾はただ壊れたロボットのようにその場に立って、男の子に手を揺さぶられて、がくがくとそれに従った。
「どこかで会いましたか?」
「なにふざけてるの?」
美登里は悠人には、柾は具合が悪いので今は会えないのだとしか話してなかった。母親が暎と連絡をするそのやりとりを耳にして断片的な情報を掴み、どうやら病院を出て叔父の家に移ったらしいということだけを悠人は知っていた。いつになったら会えるのか、どんな状態なのか、何度尋ねても母の回答は要領をえず、よほど加減が悪いのではないかと心配していた。それで、悠人は勝手に出てきてしまった。思い切って出てきてみたら、てっきりひどい病気だと思っていた父親が母親と連れ立ち歩いていたので、嬉しいというか安心して少し興奮気味に話しかけていたのである。
「悠人」
にこにこしている息子の横顔に美登里は声をかけた。笑ったまま母の顔を見た悠人は、母が笑わずに重い顔をしているのを見た。それで、笑顔が止まった。見つめ合う2人に柾が淡々と話しかけた。
「悠人君と言うんですか?はじめまして、澤田柾です」
「……」
「その制服、僕と同じ学校だね。僕は今、休んでしまっているけれど」
「お母さん……」
困って母を見上げると、美登里は悠人の目に目を合わせ、少し頷いた。
「柾さん、すみません。息子の悠人です。悠人、柾さんよ」
「……」
なにも言えずに穴のあくほど柾を見つめている悠人の、まだ柾を掴んでいる手を美登里はそっとほどき、自分の手に繋ぐと三人連れ立って歩きはじめた。周りから見ればごく普通の親子にしか見えないだろうなと思いながら。歩き始めると、柾が柔らかい声で悠人に話しかけた。
「君、何年生?」
「……」
「僕は六年生だよ」
悠人が美登里と繋ぐ手に力が入った。




