7 鬼ヶ島へ帰る⑥
7 鬼ヶ島へ帰る⑥
澤田家のマンションのリビング、夜
天井の灯りは落とされていて、隅に置かれたライトだけが仄かに辺りを照らしている。
パジャマ姿の理沙がソファーに座って新聞紙を広げて爪を切っている。切り終わると切った爪をゴミ箱に捨てたあと、ふと耳を澄ます。窓際にたくさん置かれた観葉植物の間からカーテンをそっとめくって覗くと、夜にしとしとと雨が降っている。軽く目を瞑ってその音を聞いた。
今朝、ご主人は折りたたみの傘をカバンに入れて行っただろうかと、心配しながら。
すると玄関の方でガチャリと音がする。
暎は、どんなに疲れている時でもドアは静かに閉めるし、家に上がる時、例えば棚から手にしたスリッパを高いところからぱあんと落としたりしない。腰を屈めてそっと床に置いてはく。そんな気配を感じながら、スタスタとリビングに入ってくるご主人を理沙は首を回らして眺めていた。
「おかえり」
「ただいま」
「雨に濡れなかった?」
「傘持ってたから」
理沙はほっとした顔をした。暎はコートを着たままでソファーに座っている理沙のそばまで来ると、ひそひそ声を出した。
「兄さんは?」
たったまま屈んでいる夫の顔をソファーから見上げながら、理沙はため息をついた。
「え、なに?なんかあったの?」
「いや、別に。ちゃんと寝てますよ。きちんとね」
「理沙ちゃん、なんか、機嫌悪い?」
目を瞑りながら少し首を傾げ、その後理沙はさっぱりと言った。
「いや、暎君が、こんなに大変な時に、別にわたしはたいしたことないし」
「いや、言って。ちゃんと。聞かないと気になる」
「ああ、そうね。暎君はそういう性格だものね」
理沙はつまらなさそうにそう言った。
時をその日の夕方に戻す
「すみません。予定より遅くなっちゃって」
「おかえりなさい」
理沙が会社からぱたぱたと戻ってきた時、美登里はエプロンをつけてキッチンにいた。
「え、あれ……」
理沙はコンビニの袋を下げながらガサゴソと来て、キッチンの調理台に美登里が準備した食事が載っているのを見て目を丸くした。
「ああ、わたしも買ってきちゃったな」
「ごめんなさい。勝手に……」
「いや、あ、でも、大変ですよね?明日からは、わたしが準備しますよ」
理沙としては親切心から言った言葉だった。しかし、美登里は曖昧に笑った。
「家でね、途中まで準備させて持ってくるだけですし」
「はぁ」
「それに、柾さん、食べ慣れた味じゃないと……」
「……」
理沙の手にした袋の中から覗く出来合いのおかずをそっと眺めながら美登里がいう。一瞬の沈黙の後に理沙が言った。
「あ、こういうの、ダメなんですね」
「ごめんなさいね」
理沙がコンビニの袋をちょっと掲げて見せると、美登里はそっとまつ毛を伏せた。それから伏せたまつ毛を持ち上げると壁にかけられた時計を見る。
「すみません。理沙さん、あの、悠人をほっとくわけにもいかないので」
「ああ、はいはい」
「すみません」
美登里がエプロンを外してそれをたたみながら身を縮こめるように何度も謝るのを見て、理沙は軽い声を出した。
「謝んないでください」
小さくなった人が理沙の顔を見た。
「謝れば謝るほどエネルギー使いますから、わたしと暎君には謝んないでください、ね?」
義姉は少し薄くなってしまったような気がする。そりゃそうだ。夫に自分と子供のことを綺麗さっぱり忘れられてしまったのだ。それでピンピンしている奥さんがいたら、その方がどうかしてると理沙は思った。
美登里は弱々しく笑うと、自分の手荷物をまとめてから、暎の書斎の方へとゆく。柾がそこにいるのだろう。
「柾さん、わたしは今日はこれで失礼します」
義姉は柾に挨拶をした後、いうなと言われてもまた理沙に向かって謝りそうになりながら、帰って行った。
義姉の用意していったのは、グラタンとパンとサラダに食後のフルーツまであった。柾の前にそれを並べ、理沙はコンビニで買ってきたお弁当を出した。
普通なら結婚する前に、お互いの家族と顔合わせをするものだし、お互いの家族について詳しく話すものだろう。でも、暎と理沙の場合、2人ともが自分の家を半ば捨ててきたと言ってもいいような境遇だったので、家族について話し合ったことが少なかった。
今回こうやって、義兄や義姉のやりとりすることでやっと、暎がどんな家で育った人なのか知り、理沙はいちいち驚いている。暎にコンビニで買ったものは口にしないなどと言われたことはない。コンビニで買ったものを口にしない人間がいるということを、理沙は今日の今日まで知らなかった。
「柾さん、お食事です」
気を取り直してドアをノックする。声をかけると、柾が部屋から出てきた。そして、ダイニングテーブルの上を眺めて黙って突っ立っている。
「え、何か、ダメですか?」
「これで、食べるんですか?」
「え、これって……」
美登里が家から持ってきたガラスのタッパーは、どう見ても高級品で理沙としては別に全然そのまま食卓に出せると思う。柾はその後、理沙のコンビニ弁当を見た。
「あなたはそれを食べるんですか?」
「はい」
それを聞くと、柾は黙って椅子に座って食事を始めた。理沙も黙って前に座る。弁当のラップを外し、蓋を外して割り箸を割る。何か落ち着かなくて、テレビでもつけようかと思う。リモコンを使うと無言だった部屋に音が溢れた。特に見たい番組でもなかったが、音があればそれでいいので、チャンネルは変えなかった。柾はテレビがつけられるとチラリとそちらを見た後に、じっと理沙を見つめ、こういった。
「どうして、父はよりによってあなたのような女性と?」
「え?」
柾はフォークを動かすのをやめて、理沙は割り箸を動かすのをやめて、しばらく見つめあった。
時間を暎の戻ってきた夜半に戻す
理沙は、嫌なものを見るような目で眺められたあの柾の顔を思い出しながら、暎にいった。
「わたし、お義兄さんに嫌われてる」
「え、なんで?」
「こう、育ちが違うというか、教養がないというか」
「いやいや、兄さんは別に、そんなふうな人じゃないよ」
「というか」
「ん?」
コートのまま自分の横に座って自分を覗き込んでいる暎のことを見ながら、理沙はふと脱線した。
「暎君って、お坊ちゃんだったの?」
「は?」
「なんか、騙された気がするよ」
イライラしたような声音で理沙がいう。かと思えば天井を見上げて考え込む。
「でも、そういえば、なんかナイフとフォーク持たせたら、貴族っぽいというか」
「……」
「そうそう、ロシアの貴族の格好でゆで卵食べさせたら似合うかもって思ったのも、結局、お坊ちゃんだからだよ」
「理沙ちゃん、何の話をしているの?」
「それなのに、なんで、そんなお坊ちゃんの暎君が、永谷園のお茶漬けを美味しそうに食べてるわけ?」
「いや、普通に好きだからだけど」
軽く目を閉じながらぶつぶつ言ってる奥さんを見ながら、一体どうやって宥めたらいいのか分からず、適当なことを言ったら返ってドツボにハマりそうで、オロオロしているだけの暎。
「ま、それはおいといて」
「え、置いとくんだ」
「柾さんの中で」
「はい」
「わたしはお父さんの愛人ってことになってる」
「あ……」
「妾ですよ、妾」
しばらくポカンとした後に、やれやれと立ち上がり、コートを脱ぐ暎。
「それで、不名誉だってことで、怒ってるわけか」
「今日、なんて言われたと思う?」
「なんて言われたの?」
「父にまさかあなたのような人がいるとは知らなかったから驚いたが、まぁ、しょうがないのかと思う」
「うん」
「ただ、なんでよりによってあなたのような人を選んだのかって言われたんだよ?」
「え……」
「ね、嫌われてるでしょ?」
暎は、それを聞いていよいよどっと疲れ、ぷりぷりと怒っていた理沙はしまったという顔をした。今回の一件が起こって以来、夫がどれだけこのことに時間と気力と体力を奪われているのか思い出した。そういえばこの人、わたしと比べて若くないんだった。
「あ、ごめん、ごめん。別に平気だから、気にしないで」
「……うん」
「ていうか、わたしは全然大丈夫だけど、暎君、大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「まいっちゃってない?」
「いや、流石にちょっと、まいったっていうか、疲れたかな……」
どさりとソファーにもたれかかったご主人の片腕に奥さんは抱きついた。
「わたしになんかできることある?」
「とりあえず、愛人と勘違いされて嫌われてるようだけど」
「うん」
「ま、もうしばらくはそのまま、穏便に、穏便に……」
「それだけでいいの?」
「うん」
「わかった」
理沙の顔を眺めた後で、暎は首を回らし書斎の方を眺めた。柾がちゃんと寝ているだろうかと思いながら。外ではまだ雨がしとしとと降り続けているようだった。




